第28話 励まされて決める覚悟(下)
「ううん……それはない……絶対に……」
「じゃあ、謙志くんが桃音と別れたがってるの?」
「それは……わからない……」
謙志が華純と一緒にいたのは、きっと何か仕方のない事情があったのだと思う。彼が自分と別れたいと思って、今から華純に乗り換えることにした――そんな可能性は、万に一つもないと思う。けれども、相手の気持ちをすべて推測することは不可能だ。もしかしたら、ということはあるかもしれない。
「桃音、大丈夫だよ。桃音はいま、起こり得る可能性のある未来の一つを恐れてる。でも、その未来を選ぶつもりはないんでしょ? そこへ行きたくないんでしょ? それなら、ほかの未来を見ようよ」
「でも……でも、もしかしたら……そうなっちゃうかもしれない……」
大丈夫、と楽観して謙志と話をして、もしも別れを切り出されたらどうしよう。そう考えると怖くて怖くて、謙志のメッセージに返事ができないのだ。
「そうならないように頑張ることは、できそうにないの?」
「わか……らない……だって、こんな……初めてだから……」
男の子を好きになったのも、その男の子と付き合ったのも、すべてが初めての経験だ。謙志のほうは元カノとの付き合いの経験があるが、謙志の過去の恋愛は、きちんとした恋愛感情を伴っていないに等しかったという。だから謙志にとっても、桃音が事実上初めての恋人で、この「ぎくしゃく」も初めて経験するもの。ゆえに二人とも、どう対応したらよいのか、わからないでいるのだ。
「うーんと……桃音は謙志くんと別れたくはないんだよね? 別れないように頑張ることはしないの? しなくていいの? 桃音じゃない誰かが、何かが、それが謙志くんだとしても、別れようって流れにさせてきたら、桃音はその流れにおとなしく乗るの?」
(何かが……流れにさせる……)
自分は、謙志と別れたいわけではない。謙志も、別れをはっきりと望んだわけではない。
そうだ、正体はわからないが、「何か」がずっと、別れの予感を桃音に告げている。だから恐れているわけだが、自分はその予感に素直に従うのだろうか。
「嫌な予感ってたしかにあるけどさ……その予感を的中させるのもさせないのも、桃音次第じゃないかな。たぶん今の桃音は、別れないために頑張るって選択肢を考えられないほど、深く傷付いているのかもしれない。でも桃音は、そんなにやわじゃないでしょ? 中高を思い出してみなよ」
光希はそう言って苦笑した。
桃音と結美が通っていた中高一貫の女子校では、様々なことがあった。
高飛車で意地悪な性格の子が「あの子に回してほしい」と頼んできた手紙を、「授業中だから」と言って断ったら、次の日から何人かのクラスメイトたちに無視をされるようになった。それなのに桃音が少しでも動くと、遠くから指を差して笑ってきた。その意地悪な子に加担しない級友も大勢いたので決して孤立はしなかったし、数人に無視されたところで桃音は動じなかった。そんな桃音の反応がつまらなかったのか、それとも気が済んだのか、意地悪のターゲットはすぐに外された。
同学年の同性が二百人近くも同じ場所に集まれば、どうしたって腐ったミカンは存在する。そしてそれは、上の世代にも下の世代にも往々にして存在した。そのミカンの腐敗臭をあしらいつつ、自分は決して腐らないように、桃音は女子校という特殊な環境で思春期を過ごしてきた。傷付いて泣いたことは何度もあったが、そのたびに立ち直り、心を強くし、そして結美のような親友を得て成長してきた。
(そうだ、私は……)
決して弱くはない。奥手な性格で、自分が自分が、と前に出るような我の強さもないが、かといって軸がないわけではない。華純に舐められる覚えはないし、その華純にみすみす謙志をとられるつもりもない。華純の思惑どおりに謙志との仲が壊れてしまうなんて、そんな結末には絶対にさせない。
「まあ、初めて恋人とぎくしゃくしたら、誰でも怖いものだよね。うまく修復できるか、わからないもんね。そういう時こそ、一番大事な気持ちに立ち返ってみよう? 謙志くんのことが好きで、この先も付き合っていきたい……その気持ちを心の中心に置いて、そこからブレないでいれば、恐れているような未来にはきっとならないよ」
光希はそう言うと、桃音の頭に手を伸ばして「よしよし」と言ってやさしくなでた。
「ぎくしゃくしたって、喧嘩したって、何かわだかまりが残ってしまったって……それでも、お互いを思う気持ちがあれば、関係は続くよ。恋人も友人も家族も……自分が終わらせたいって、本気で思わない限りはね。大丈夫、大丈夫だよ」
「うん……」
桃音は感極まって、スマホを握りしめたまま泣きだした。
別れたいわけではない。決してそんなわけではない。だから、勇気を出して謙志と話をしよう。きっと大丈夫だ。別れ話をするわけじゃない。
まずは、華純のことを聞こう。華純と謙志の間に何があって、学祭一日目のあの流れになってしまったのか。一番大事なその事情を、しっかりと教えてほしい。そのうえで二人が考えるべきことは、今後の華純への対応だ。自分たちが別れるかどうかではない。
二段ベッドから降りていく光希に、「光希お姉ちゃん、ありがとう」と声をかけたあと、桃音は勇気を出して謙志に返信した。「わかりました。木曜日、三時限が終わったら、謙志くんのおうちに行きますね」と。久しぶりに丁寧語を使ってしまったのは、気持ちが緊張していたからだ。
桃音はスマホを枕元に置くと、目を閉じた。自分一人ではまだ怖さがあったので、光希の「大丈夫」という声を頭の中で何度も何度も再生しながら、自分でも自分に「大丈夫」と言い聞かせた。
◆◇◆◇◆
次の日も学祭の片付けだったが、男子は相変わらず重い備品の運搬など、外での作業となり、桃音は結美と共に部室内を片付け終えると、早々にやることがなくなってしまった。木曜日に話し合うことが決まったが、その前に謙志と顔を合わせるのはまだ怖いので、今日も桃音は、謙志と顔を合わせることなく、結美と共に帰ることにした。
そして日が変わり、まるで学祭などなかったかのように講義が再開された。
昼休み、桃音は結美と一緒に食堂へ行った。座れる席がないかと探していると、食堂のほぼど真ん中に当たる席で、一人でご飯を食べている倉沼が視界に入った。
そこで、ご飯を買って着席したあと、桃音は結美に、あらためて倉沼のことを尋ねてみた。
「学部の子からね、三年生に変な先輩がいるって聞いてたの。昼休みとか空き時間は、いつも食堂に一人でいるって。ほかの三年生からは、ぼっちで哀れ~なんてからかわれているみたいなんだけど、話すと意外と面白い人で、むしろ悩みを聞いてもらうと、不思議とすっきりするって」
「それで、結美ちゃんも話しかけてみたの?」
「うん。一対一じゃないと話してもらえないって聞いてたから、倉沼さんが一人でいる時にね。まあ、ほぼ間違いなく一人でいるんだけどさ」
「それで……どうだったの?」
「面白かったよ! あ、うちの両親の話もしたの。そしたらね、『素敵なご夫婦だね』って返事だった!」
「へえ!」
二十も年が離れている結美の両親の話を初めて聞いた者のほとんどは、「すごい」と言う。褒め言葉か単なる驚愕の言葉か、それとも不快を示す言葉なのかはそれぞれだろうが、「素敵だね」と返してくれる者はとても少ない。それだけのことでも、やはり倉沼は独特の感性を持っているように思われた。
「倉沼さんって、耳が人の会話を拾いすぎるらしいけど、本当にそうらしくて、直接話したわけでもない人のこととか、結構知ってたりするのね。もちろん、それをむやみにほかの人に話すわけじゃないんだけど……なんていうのかな。普通の人は十人分の情報しか知らないのに、倉沼さんは百人分知ってて……つまり、思想とか価値観とか、ものすごく多くのものを耳で聞いているから、視野が広いというか……すごく多面的なものの見方をしてるの。前に私、ボランティアをするといいよって言われたんだ」
「ボランティア?」
「うん。私は桃音と違って、自分がやりたい仕事がわからない……。ママみたいに、すごく好きなものがあってそれを追求したい、ってこともないし……かといってパパみたいに、誰かに能力を買われてすごいことができるわけでもないし……正直、大学を出たあとのことが全然描けていない。その話をしたら、『君はボランティアをやるといい』って。どんなボランティアでもいいけど、その活動を通して、社会と自分がどういう接点で関わりたいのかがきっと見つかるよって」
「社会と関わる接点……」
「だから私、来年の春休みに、早速何かのボランティアに行ってみようと思うの。大学生の春休みは長いって言うし、アルバイトだけじゃもったいないしね」
そう話す結美の顔は生き生きとしていた。
(来年……私も……)
学祭一日目、謙志を探しているタイミングではあったが、桃音も倉沼に言われたことがある。「学祭実行委員会に入るといい。経営の疑似体験ができる」と。華純のように成功体験だけを積んで認知が偏らないように、いっそ挫折を味わうことを目標にするといいと。
結美と同じように、その言葉に桃音は触発された。まったく考えていないことだったが、しかしなんだか自分にできそうで、合っていそうで、面白そうで、新しい世界が広がるような、そんな高揚感を覚えたのだ。
恐れれば未来は曇る。だが恐れずに目を見開いて楽しもうと思えば、未来は明るく見える。すべてがうまくいくわけではないだろうが、うまくいかないことも含めて、すべて大学生の今しかできない経験だ。
謙志との話し合いを明日に控えて、桃音の気持ちは少しだけ上を向いたのだった。
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