第28話 励まされて決める覚悟(上)
楽しい時間ほどあっという間に過ぎる。今年の玉苑祭も大盛況に終わり、在学生たちは休む間もなく片付けに入った。
学祭の片付けのための休講期間はわずか二日間で、水曜日からは講義が再開される。そのため、まずは二日間で最低限、どの場所でも講義が行えるように原状回復しなければならない。
学生たちは展示のために運び入れたパネルを決められた順番で倉庫に戻したり、客引きのために設置したのぼりを撤去したり、ポスターをはがしたり、天幕を解体したり、各種備品を返却したりする。当然二日間ではすべてを片付けられないので、各団体は講義再開後もこまごまと片付けを行う。
結局、一日目の途中までしか学祭に参加しなかった桃音だったが、週明けにはきちんと大学へ行き、天文研究会の展示企画のほうの片付けを手伝った。
展示していた写真などをひとまずすべて部室に運び、展示部屋に持ち込んでいたライトやアンケート用紙、ディスプレイ用の飾りなどもとにかく部室に戻す。そして男子が大型のパネルを実行委員会指定の場所へ運んでいる間に、女子は部室で小道具の整理をする。捨てるもの、来年も使うもの、持ち主に戻すものなどを選り分けるのだ。
(謙志くんは……模擬店のほうかな)
謙志は学祭二日目こそ桃音と同じように一日休んだが、三日目の昨日は来て、模擬店の当番を問題なく担当していたという。そして今日の片付けも来るはずだと、桃音は結美から教えてもらっていた。
(会いたいけど……でも……すごく気まずい……)
なんのわだかまりもなく謙志と会えたのは、数日前の学祭準備期間中のことだ。一週間も経っていないが、謙志と連絡アプリでのやり取りもないまま過ぎたこの数日を、桃音はひどく長く感じていた。
模擬店の片付けチームが戻ってくるかと思ったが、男子はほかの団体の大荷物の片付けのヘルプに呼ばれたらしく、しばらくして部室に戻ってきたのは、ほとんどが女子だった。その女子たちも、レンタル冷蔵庫の中を消毒しながら拭いたり、上級生は会計報告のための計算をしたりと、後片付けに余念がない。
(一つのサークル内だけでも、やることがたくさんあるなあ)
この学祭に関わるすべての団体を統括する、玉苑祭実行委員会。その仕事は非常に多岐にわたり、大学が所有している備品の運搬予定の策定、外部業者からレンタルする備品の調達計画の策定、学祭全体としての会計管理、それに広報や各ステージの設営など、実に様々だ。
組織の正式な扱いは「サークル」の一つのはずだが、サークル団体の中で唯一「委員会」という名称で呼ばれるその組織は、まさに学祭を経営している経営者と言っていいかもしれない。
(倉沼さんに言われたとおり、学祭の実行委員会に入るのは、もしかしたらとても良い経験になるかもしれない……)
入学直後の春は、この大学の経営学科で学べば将来は経営者になれると、漠然とそう思っていた。だが、そもそもどんな事業の企業を経営するつもりなのか、自分の中には具体的なビジョンが何もない。経営について、学科で学ぶこと以外の学ぶ手段を検討すらしていなかった。
(天文研究会にはいたいけど、お金のこともあって全部の合宿には参加できないし……サークルの掛け持ちって、できるかな)
天文研究会は真面目な活動をしているサークルだが、参加頻度の少ない会員もちらほらといる。迷惑さえかけなければ、幽霊部員でも籍を残しておいてくれるゆるさはある。新歓コンパ、忘年会、それと合宿以外に参加しなければならないイベントはないし、学祭の実行委員会との掛け持ちはできそうだ。
「ダンス部だけじゃなくて、軽音部もP-CLASSのコピーをやってたよな」
「あー、ダンス部はよかったけど、そっちはなんかビミョーだったらしいな?」
その時、廊下のほうがざわついた。他団体の片付けを手伝っていた男子たちが部室に戻ってきたようだ。桃音はちらっとそちらを見て、その中に謙志がいるのを見つける。体調は大丈夫そうだが、いま謙志と同じ場所にいるのはどうしても気まずい。
桃音は隅に置いてあった自分のバッグを持つと、出入りする人の波に紛れて、誰にも何も言わずにすっと部室を出ていった。特に目的地はないが、寒いので外にいるのはつらいと思い、すぐ隣にある五号館の一階に行く。そして片付けの人が行き交っていない端の階段に行くと、腰を下ろして壁に頭をもたれた。
(どうしよう……謙志くんと話さなきゃいけないのに……できない……)
連絡アプリで謙志が何も返事をしてくれないので、彼とやり取りをするには、もう直接話すしかない。けれども、いざ本人を目の前にした桃音は何かがとても怖くて、こうして逃げ出してしまった。
自分は、何か悪いことをしたわけではない。後ろめたいことがあるわけでもない。悪いことをした者がいるとすれば、それは唯一絶対、華純だけで、謙志も桃音も華純の被害者だ。
だが謙志は、桃音が送ったメッセージをずっと無視していた。学祭を一緒に回るという約束を守ってくれず、自分ではなく華純と一緒に学祭を回っていた。仕方のない事情があったはずだとは思うが、桃音としては少なからず、謙志に裏切られたという思いが消せなかった。
(私は……謙志くんを許せないの……?)
学祭一日目、華純と一緒にいた謙志に対して、一言では表せない怒りを感じた。その怒りのほとんどは華純に向けられたもののはずだが、謙志に向けられた分もたしかに存在した。
何か事情があったはず、謙志は裏切りたくて裏切ったわけではないはず。何度そう自分に言い聞かせても、完全に消えはしない心の中の靄。その靄を抱え続ける自分は、謙志を許せないのかもしれない。
(相手を許せないまま、付き合い続けることはできる……? それとも、相手の全部を許せないのなら……別れなきゃいけない?)
桃音は自分自身に問うてみる。
頭の中で、ちらほらと見え隠れしては姿を現す、「別れ」という選択肢。自分はそれを選ぶべきなのだろうか。気まずくなってしまった謙志とのこの関係は、修復できないのだろうか。
(私……どうしたら……)
その時、桃音のバッグの中でスマートフォンが振動した。
謙志からだろうか、と桃音は恐る恐るスマホを手に取る。だが、メッセージを送ってきたのは結美だった。
<桃音、いま、どこ? 今日すべきことは終わって、残りは明日作業するらしいから、帰れる人は帰っていいって。一緒にお昼ご飯、食べよう?>
部室にいるだろう結美からのメッセージ。
全団体の備品の運搬は一日では終わらないので、天文研究会の分の一部は、明日動かすことになっている。そのため、今日はもう解散ということらしい。
桃音は結美に返事のメッセージを打った。ただし、学食だと謙志と一緒になるかもしれないから、自動電車で移動して、どこか適当な駅で降りてご飯にしようと。結美からは「いいよ~」とすぐに返事が来て、桃音は五号館を出た。そして部室がある六号館から出てきた結美と一緒に、レンテバー駅に向かうのだった。
◆◇◆◇◆
「謙志、舟形ちゃんと話せたか?」
桃音と結美が自動電車に乗ってレンテバー駅からどんどん遠ざかっている頃、謙志と将樹は食堂にいた。学祭期間中は閉まっていた食堂だが、今日と明日、一部の店だけは片付けで大学にいる学生のために、早くも営業を再開している。
謙志も将樹もラーメンを頼み、隣り合って椅子に腰を下ろしていた。
「いや……」
「おいおい……連絡は? さすがに一言ぐらい、連絡はしたよな?」
「それも……まだ……」
「はあ? 何も言ってないのか?」
にぶい返事を続ける親友に、将樹は盛大なため息をついた。
「体調……まだ悪いのか」
「いや……大丈夫だ。村山が視界にいなければ、吐き気もない」
「お前は村山の被害者だけどさ……舟形ちゃんだって、間接的な被害者だ。ちゃんと話して、舟形ちゃんを安心させてやらないと」
「わかってる」
将樹の言葉を、謙志は少し鬱陶しく思った。
わかっている。桃音としっかりと話して、それから華純にもあらためて、きちんと話さなければならない。本当に、もう二度と自分に関わってくれるなと。友達だと思ったことも、これから友達だと思うこともない。ましてや、もう一度華純と男女の関係になるつもりも一切ない。だから近付いてこないでくれと。華純に構われることは、不愉快で迷惑でしかないのだと。
だが、今日の片付けに桃音は来ていたはずなのに、謙志は桃音に声をかけることができなかった。二人とも別々の場所で撤収作業をしていたし、やっと部室に戻れたと思ったら、そこにいたはずの桃音はすっとどこかへいなくなってしまった。自分の勘違いかもしれないが、なんだか桃音に避けられてしまったようなのだ。
(桃音は何も悪くない……桃音も間接的な被害者……だから……)
昨日、結美に言われたことを謙志は思い出す。自分が恐れているように、桃音もきっと、恐れているのではないかと。
謙志が恐れていること――それは、華純起因のこの混乱のせいで桃音との仲がぎくしゃくした結果、桃音と別れることになるかもしれないという未来だ。
自分は、決して桃音と別れたいわけではない。しかし、一時とはいえ、桃音を裏切って華純の要求を呑んだ自分を、桃音がどう思うかはわからない。経緯をすべて話したら、謙志に怒り、許せないと言って、桃音は別れを切り出すかもしれない。もしもそんな展開になってしまったら、桃音にすがる権利は、自分にはない。桃音を傷付けたことは事実なのだから。
(それでも……それでも……っ)
桃音と別れたくない。
華純やその前のカノジョとの付き合いの時は、別れを告げられても何も感じなかった。しかし謙志はいま初めて、好いた相手との別れを強烈に恐れていた。そして間違ってもそんな未来に歩いていかないようにするために、いまいる場所から一歩も動けない。桃音と話をしなければならないと頭では理解しているのに、心が怯えてなんのアクションもとれないのだ。
(俺……いつまでこんな……情けないんだ……)




