第27話 恐れてちらつく可能性(下)
たしかに、華純はいろいろと努力をしたのだろう。一年間、海外留学をしていたことは素直にすごいと思う。異国の言語を習得し、文化の違う国で一年を過ごすことは、簡単にできることではないはずだ。美しい見た目にしたって、顔のパーツやその配置のバランスが生まれつき良いものだったとしても、何もしなければいくらでも衰えて醜くなる。メイクや服選びも、流行や魅惑的なものを追い、選ぶセンスを磨くことも、きっと華純は人知れずに頑張っているのだろう。その結果、殊に恋愛においてはきっと、成功体験しかしなかったに違いない。
(村山さんは、謙志くんを嫌いになって振ったわけじゃない……)
たしか、華純はそう言っていた。
ではなぜ、付き合っていた謙志に別れを切り出したのか。それはおそらく、謙志がえっちをしなかったからだ。
謙志はいい言い方をするならとても繊細で、あけすけに言うならば、性行為に対して理想がとても高かった。要求が多かったとも言える。そのため、付き合っていた時の華純は少しも謙志の理想には当てはまらなかったので、彼女に対して謙志の中の性欲が燃えることはなかった。
しかし、それは女として自信がある華純のプライドを傷付けた。華純は手を出してくれない謙志に不満を抱き、謙志に別れを告げた。これも想像にすぎないが、謙志が別れを拒むと思っていたのだろう。
世界の中心は自分で、男にモテる自分には世界中のすべての男がかしずくはずだと、華純はナチュラルに思っている。「別れたい」と言った自分に「嫌だ、別れたくない」と言って謙志は食い下がるはずだと、きっとそう計算した。
ところが、華純の予想に反して謙志はあっさりと別れを承諾した。それがおそらく、華純の謙志への異常な執着心を生んだのだ。
(成功体験ばかりだった村山さんが、唯一完全に目論見が外れた相手……それがたぶん、謙志くん……)
だから、留学を終えて帰国した華純は謙志に近付いた。一年前の敗北を、なかったことにするために。自分になびかない男がいるはずなどないと、そのことを証明するために。
華純には、相当強い認知バイアスがある。「自分は男にモテる、あらゆる男が自分の意のままになる」という強い思い込み、偏見。あるいは彼女の自分自身への、絶対的な自信ゆえに生まれる自尊心によって、華純は主に異性関係に対して、強烈にゆがんだ解釈ばかりしている。相手や自分、あるいは出来事をありのまま見ることはできず、自分が生み出した、強烈にゆがんでいる解釈フィルターを通してしか、何も見ることはできないのだ。
(どうしたら……いいのかな)
昨日結美は、「関係者で落ち着いて話し合ったほうがいい」と言った。たしかに、そうしたほうがいい。いや、それしかできない。謙志と自分と華純、それから双方に最低一人は第三者を同席させて、謙志にはもう関わってくれるなと、華純に伝えるしかない。
(でも、その前に……)
桃音はバッグの中からスマホを取り出した。そして、恐る恐る連絡アプリを立ち上げる。
(私が謙志くんと……話さなきゃ……)
不安と恐れを感じながら謙志とのメッセージルームを見ると、おとといの夜からずっと付いていなかった既読マークが付いていた。昨夜は付いていなかったはずだから、昨日の夜遅くか今朝にかけて、ようやく謙志は桃音からのメッセージを見てくれたようだ。
だが、謙志からの返事は何もなかった。スタンプの一つさえもないので、桃音からのメッセージを見て彼が何を思い、いま何を考えているのかは、一つもわからない。
(体調が悪くて、私と話すどころじゃない……かな)
ストレスで嘔吐するくらいだ。謙志の身体はきっと、本人が思っているよりも弱っているのだろう。
(今は……話せない……)
桃音は謙志との対話を諦めて、スマホをバッグにしまった。そしてぬるくなったホットティーを飲み、またぼんやりとする。
(私、謙志くんと……もう、だめなのかな……)
一晩経ってだいぶ落ち着いたが、昨日華純と一緒にいる謙志を見た桃音は、間違いなく謙志への怒りを感じた。自分との約束を反故にして、連絡も無視してどうしているのかと心配すれば、華純と一緒に学祭を回っていたなんて。
何かきっと、致し方ない理由があったのだとは思う。意地の悪い華純のことだから、きっと謙志が断れないように何か策を講じたのだろう。謙志はおそらく、華純のその策にまんまとはまってしまったのだ。
その可能性は十分に考えられるのに、桃音の中の怒りは、完全には消えてくれない。どうしても、ほんの一時とはいえ、謙志が自分よりも華純を選んだような気がして、許せない。そしてその怒りをまとった暗い影が、桃音の中に「謙志との別れ」をちらつかせる。
(違う……別れたいわけじゃない……)
何もかも、悪いのは華純だ。謙志ではない。これまで謙志はずっと、華純を拒絶してきた。関わりたくないと何度も意思表明をして、彼なりにできることはしてきた。それでもなお近付いてきたのは華純で、謙志は被害者なのだ。
(謙志くん……)
胸の中がとてもざわざわする。落ち着かない。今にも涙が溢れてきてしまいそうだ。これまでどおり穏やかに、謙志と付き合い続けていきたいのに。
華純によってかき乱された二人の関係をどうやって修復したらいいのか、桃音にはわからなかった。
◆◇◆◇◆
次の日、玉苑祭の最終日。謙志は昼頃に大学に行った。天文研究会が出している「星空豚汁」の店番担当だったからだ。初日で良い評判が流れたからなのか、それとも今日も寒いからなのか、時々客足が途絶えることもあったが、星空豚汁の売れ行きは好調だった。
天幕の中で作る豚汁の在庫を切らさないようにするため、具材の残量を確認しに、謙志は天文研究会の部室に向かう。実行委員会から貸し出されている冷蔵庫がいくつも置かれており、冷蔵保存が必須の豚肉がそこにあるのだ。
「あ、松浦先輩、お疲れ様でーす」
「ああ、お疲れ」
部室には二年生の会員が四名ほどおり、それぞれスマホを片手におしゃべりに興じていた。
謙志は軽く挨拶を済ませると、冷蔵庫を開けて残りの豚肉の量を数える。それから三パックほど手に持って、模擬店の天幕へと戻った。
(あ……)
すると、天幕の近くに結美がいた。当番ではないが、店が気になって様子を見に来たようだった。
「これ、豚肉。残りは六パックしかないから、もしかしたら夕方前には販売終了になるかも」
「わかったー」
謙志は天幕の奥にいる店当番の三年生に豚肉のパックを渡すと、天幕横にいた結美に近付いて声をかけた。
「井口、あのさ」
「はい」
結美は謙志を見上げたが、結美を見る謙志の表情はどこか緊張していた。
「今日……桃音は……?」
「昨日も今日も、桃音は休みです。体調不良とかではないので、明日とあさっての片付けにはきちんと来るって言ってました」
「そうか……。えっと……あのさ……」
今日になってもまだ、謙志は桃音になんのメッセージも送れていなかった。
幸いなことに、華純との「学祭を一緒に回って」という約束はうやむやになったようで、今日は華純の姿を見ていない。再び華純に付きまとわれる前に桃音と話ができればと思ったのだが、そのきっかけがどうにもつかめない。
そこで、桃音の親友の結美を介せばなんとかなるかもしれないと謙志は思ったのだが、謙志が何かを言う前に、結美は首を横に振った。
「だめです、松浦先輩。私を伝書鳩にしないでください。自分からちゃんと、桃音に連絡してください」
「え……いや……でも……」
決して望んでしたことではないが、華純とキスをしてしまった。桃音を無視して、一日目の学祭を華純と一緒に見て回ってしまった。
そんな不誠実な自分の話を、桃音は聞いてくれるだろうか。怒っていて、別れ話にならないだろうか。それは絶対に避けたい。桃音と別れたくなどない。そう思うとまた、謙志は恐怖で判断力がにぶくなってしまう。
「松浦先輩に何があったのか、私も桃音も知りません。松浦先輩がすべきことは、まずはご自身に何が起きたのか……それを桃音に、全部正直に話すことではないですか」
「そう……だな……」
三日前からおとといにかけて、謙志に起きたこと――華純との間に起きたこと。なぜ桃音に返事ができなかったのか、一緒に学祭を回れなかったのか。そして学祭一日目、自分が体調を崩して早退したこと。
桃音はいま、謙志に起きたこと、謙志が考えていたこと、困っていたこと、そしてどんな気持ちでいるのかを、何も知らない。謙志が一切伝えていないからだ。
「たぶん、松浦先輩が恐れているように、桃音も怖がっています。それは、相手の状況がわからないからです。事実がわからないから、こうかもしれないって想像することしかできなくて……その想像が、起こるはずのない、悪い可能性まで連れてきてるんです」
(悪い可能性……)
桃音から別れを告げられるかもしれないこと。そうではなくても、ぎくしゃくしたこの空気を打破できないまま、なんとなく関係が終わってしまうかもしれないこと。
そうだ、その可能性を自分は恐れている。その可能性が実現しないように――その可能性が少しでも遠のくように、恐れて怖がって怯えて、その結果、桃音に何もアクションできないでいる。その悪い可能性や恐れている未来は、自分が桃音に何も話さないからこそ見えているものだというのに。
「松浦先輩は、桃音と別れたいわけではないでしょう? それは桃音だって同じ気持ちのはずです。どうか桃音を信じてあげてください。信じて……ぶつかってみてください」
「ああ……わかった……」
謙志は結美に頷き、弱々しい声で答えた。
◆◇◆◇◆




