第27話 恐れてちらつく可能性(中)
桃音は相変わらず、謙志の体調を心配する気持ち、謙志を責めたい気持ち、華純を憎く思う気持ち、蓮花と麻衣子を同罪じゃないかと糾弾したい気持ち、けれどこの二人は直接的に関わったわけではないのでそれは違うと思う気持ち、結美がいろいろと代弁してくれてありがたいと思う気持ち――と、様々な気持ちが交互に顔を出しており、心の中も頭の中もぐちゃぐちゃだった。だが、たしかに一度、華純とは徹底的に話し合うべきかもしれないと思い、こくりと頷いた。
「ん、わかった。ウチ、華純の恋は応援したいけど、華純にストーカー行為をしてほしいわけじゃないからさ」
「そうだね。まっとうな恋愛ならいいんだけど……なんかちょっと、今の華純は違うっぽいからね。もし話し合うこととかになったら、私たちに連絡してくれると助かる」
「わかりました。えっと……じゃあ、あの、お二人と私が連絡先を交換してもいいですか? 桃音はちょっと……いやだよね?」
結美が確認すると、桃音はこくりと頷いた。
桃音の気持ちが理解できるのか、蓮花も麻衣子も特に気を悪くせずに、結美とだけ連絡先を交換する。そして二人は「ほんと、ごめんね」と言い残して去っていった。
「桃音、どうする? 今日はもう帰る?」
「うん……ごめん、ちょっと……ここにはいたくない」
桃音はそう言うと立ち上がった。そして笑顔のないまま結美に別れを告げて、いつもよりはるかに人が多いゆりのき通りを歩いて、レンテバー駅を目指す。
すれ違う人々の学祭を楽しむ声が聞こえるたびに、桃音の心は惨めさによく似た暗愁に包まれた。
◆◇◆◇◆
<悪い、今日は休む。展示の当番、誰か代わりを見つけてくれないか>
<わかった。ゆっくり休んで、無理すんなよ。展示のほうも、気にすんな。でも、可能なら舟形ちゃんには連絡しろよ>
自分と相手のメッセージが交互に表示されているアプリの画面を見て、謙志はぼうっとした頭が妙に重くなるのを感じた。
日付が変わって学祭二日目、謙志は布団の中から出られないまま、ひとまず将樹に今日の欠席を連絡した。今日は天文研究会の展示当番の日だが、行けそうにないので代役探しも将樹に頼んでしまう。模擬店の店番は明日の予定なので、明日は必ず行くつもりだ。そのためにも、ひとまず今日一日は、家でゆっくりと休むことにした。
学祭のことはいいのだが、将樹のメッセージの最後――桃音への連絡について、謙志はどうしたものかと悩んだ。
二日前、華純に不意打ちのキスをされて以降、桃音にはなんのメッセージも返せていない。それどころか、既読マークすら付かないように注意して、完全に桃音のことを無視している状態だ。
(こんな……俺、なんで桃音を避けてるんだ……)
華純のことで気まずく思う気持ちは強いのだが、だからといって桃音に嫌気が差したとか嫌いになったとか、そんなことはない。それなのにどうしてだか、桃音のメッセージを見ることも、返事をすることもできない。
(桃音……)
会いたいと思うのに。華純の嫌な空気を振り払って逃げて、桃音の優しくて甘い空気の中で安らぎたいのに。
(桃音は昨日……どうしたんだろう)
華純のこともあるので、なるべく学祭では一緒にいようねと――一緒に回ろうねと、そう先に約束をした相手は桃音だった。それなのに、桃音からの連絡を一切無視して華純と一緒にいた自分を知ったら、桃音はなんと思うだろうか。華純とのキスのことがなくても、桃音は傷付いて自分を嫌いになるのではないだろうか。
(嫌だ……)
布団の中で、謙志は縮こまった。
(嫌だ……桃音と別れたくない……っ)
まだ、桃音と一緒にいたい。一緒に食堂で昼ご飯を食べて、図書館で並んで勉強して、この部屋で卑猥なことをして、たまに遠出して一緒に並んで歩いて――そんなふうに、これからもまだ、桃音と同じ時間を過ごしたい。傍にいてほしい。桃音の傍にいたい。別れるなんて絶対に嫌だ。いなくならないでほしい。
初めて――そう、人生で初めて好きになった女の子。こじらせていた性的な好みを全部満たしてくれて、やっと性行為ができると思った相手。そうでなくても、いつも穏やかでかわいくて、バイトも勉強も真面目に頑張っていて、家族思いで友達思いで――あんないい娘はほかにいない。ほかのどんな異性も誰一人、桃音には敵わない。桃音だけが、謙志にとって特別で崇高な存在だ。
(それなのに……)
謙志は恐る恐る、スマホを手に取った。昨日の昼過ぎくらいまでは桃音からメッセージが届いていたが、ある時間を境にぱったりと連絡はなくなった。もしかしたら、ずっと無視をしている自分に愛想が尽きたのかもしれない。
(嫌だ……桃音……)
謙志は勇気を出して、連絡アプリを開く。そして既読マークが付くことを覚悟して、桃音とのメッセージルームを開いた。
<明日の学祭一日目、昼頃に結美ちゃんとダンス部のステージを見るんだけど、そのあとから一緒に回るのはどうかな?>
<謙志くん、もう寝ちゃった?>
<寝ちゃったかな。おやすみなさい>
<おはよう。今日、何時頃に大学に行く?>
<返信がないけど……体調が悪いのかな。無理しないで休んでもいいと思うよ>
<謙志くん、いま、どこにいるの? 大学には来てるのかな>
<おうちにいるのかな>
<大丈夫? 体調が悪くて休んでるかな>
二日前の夜から昨日の昼にかけて、桃音から届いていたメッセージ。一緒に回る約束をしていたはずなのに謙志から連絡がないので、その文面はひたすらに、謙志を心配する内容になっている。
(桃音……)
桃音からのメッセージを見ていた謙志の目に、涙が溢れた。
こんなにも、こんなにも桃音は自分を想ってくれているのに。自分は華純に不意打ちでキスをされ、そのことを桃音に告げると言われて、桃音に知られるのが怖くて、華純の要求を呑んでしまった。桃音のこれらのメッセージを無視して、まるで恋人同士かのように華純と腕を組んで学祭を回っていた。
謙志自身は華純のことなど見ないようにして空気扱いしていたつもりだが、事情を知らない者たちからすれば、昨日の自分たちは恋人同士のように見えていただろう。それだけでも、十分桃音に対する裏切りだ。本当に自分は、なんて間違った選択をしてしまったのだろう。
(ごめん……桃音……ごめん……っ)
自分では止めることのできない涙でベッドのシーツを濡らしながら、謙志は心の中で桃音に謝った。過去は変えられないとはいえ、自分のした行動には後悔しかない。
桃音はいま、どうしているだろうか。今日も学祭に行っているだろうか。せめて一人で過ごすことなく、結美が一緒にいてくれているだろうか。
(俺たち、このまま……)
桃音のメッセージを全部読みはしたが、謙志は返信の一つも、スタンプの一つも送れなかった。
こんなふうになってしまったいま、桃音になんと返せばいいのかわからない。不穏に交錯した冷たい気持ちの数々を、どう処理したらいいのかわからない。ただなんとなく、桃音との関係が終わってしまうという恐ろしい可能性だけが、ほんの少し先で点滅している気がする。桃音と別れたいなどと、そんなことを考えているわけではないはずなのに。
まだまだ未熟な謙志は、その恐ろしい未来を考えないようにするために、ぎゅっと目をつむった。
◆◇◆◇◆
「出かけてくるね」
「はーい。今日も学祭なのよね?」
「うん、でも……今日はちょっと……大学には行かない……」
学祭二日目の、昼時にはまだ少し早い時間。
母にそう告げると、桃音は小さなバッグに最低限の荷物だけを入れて家を出た。そして自動電車の駅に向かい、いつも通学に使っているマドリンラインに乗る。そして普段は降りることのない、サジェクラインとの接続駅で降りると、駅前のコーヒーチェーン店に入り、ホットティーを頼んで一人座った。
昨日の夕方、明らかに泣いたあとの顔で帰宅した桃音を出迎えた母は、ひどく心配した表情になった。大学に入って初めての学祭を楽しんで帰ってくるだろうと思っていた桃音が、思いのほか早く、そして泣き顔で帰宅したからだ。
そんな桃音の様子を母から聞いた姉の光希が、何があったのかと心配して尋ねてきた。
これまで光希には多くを話してきた桃音だったが、昨日は家族といえども何も話す気にはなれず、「なんでもない」としか答えられなかった。
(謙志くん……体調は大丈夫かな……)
先ほど、結美からメッセージが届いた。謙志は今日、一日休むそうだ。謙志から将樹へ連絡があり、そのことを将樹が結美に教えてくれたそうだ。
謙志がいないのならば、今日も学祭に行けばよかったかもしれない。昨日は結局、ダンス部のステージ以外は展示も含めてほとんど出し物を見られなかったし、結美にも悪いことをした。結美は今日、同じ学部の友達と回るとのことで、せめて昨日の分も楽しんでくれたらいい。
(こんなふうに……人を嫌いたくないのにな……)
ぼうっとした表情でホットティーの水面を見つめる桃音は、謙志と華純のことを考える。だが華純に対して出てくるのは、とても黒くて重たい気持ちばかりだ。
簡単に表現するならば、華純のことは嫌い――いや、それを通り越して憎い。
どうして、何度も何度もやめてくれと言ったはずの謙志に、しつこく付きまとえるのだろう。どうして相手の気持ちを理解し、尊重できないのだろう。自分は男にモテると思っているのなら、謙志以外の男にちやほやしてもらえばいいではないか。なぜ嫌がっている謙志を苦しめてまで、謙志に固執するのだ。それはもう、恋愛などではなくただの嫌がらせだ。そのせいで謙志は、嘔吐するくらいに強くストレスを感じているのに、そんな謙志を心配して引き下がるということは考えられないのか。できないのか。
――努力して成功した自分は誰よりも正しい存在なのだと、盲目的に思い込んでしまう。
ふと、食堂で倉沼が言っていたことを思い出す。なんとも不思議で独特の世界観で生きているような倉沼だったが、その言葉は不思議と光明をもたらしてくれた。




