第26話 交錯して冷える時間(下)
桃音も、家族に応援されながら勉強して中学受験、大学受験を乗り越えてきた。努力の結果、常に自分の第一志望の進路を叶えて成功体験だけを積んできたのだ。そして、この先の未来で経営者になって稼ぎ、家族に恩返しができると、そのレールだけを想像していた。
けれどもこの夏、天蔵家のパーティーで天蔵家当主の秋良に言われて、自分の描いているその道が、実はとても不鮮明なこと――本質を見る視点が抜けているかもしれないということに気付かされた。努力すれば必ず経営者になれると、漠然とそう信じ込んでいた。しかし、それは約束された未来なんかではない。受験と違い、この先の人生では、努力によって確約された成功などない。努力すれば常に望む結果を出せるほど、世間は甘くないのだ。
「君は、たしか経営者になりたいそうだね? 井口氏からそう聞いたことがある」
「はい。でも、それが本当に自分のしたいことなのかどうか……揺れています」
「ふむ、いいことだ。ならば君には、この学祭の実行委員会に入ることをお勧めするよ」
「えっ?」
「学祭は大学生が行う一番大きな催し。それを運営することは、つまり経営するということだ。手っ取り早く、経営側の疑似体験ができるだろう」
「たしかに……」
「君には、村山氏のようになってほしくない。いっそ挫折を味わうことを目標にして、様々な経験をするといい。まあ、今はまず、村山氏から君の恋人を解放することが先だろうがね。肝に銘じておくんだよ、舟形氏。彼女は、同級生や後輩の言葉一つで簡単に変わることはない。自分自身で自分の中のゆがみを認識しない限り、彼女が変わることはないだろう。彼女を変えられる、変えてやるとは思わないことだ」
「はい……ありがとうございました」
桃音は倉沼にお礼を言うと、入り口にいた結美のところへ小走りで近付いた。
「結美ちゃん、倉沼さんって」
「あ、待って。面白い人だからいつか桃音に紹介しようと思ってたんだけど、倉沼さんの話はまた今度ね。野中先輩から、返事が来たの!」
「えっ、なんて!?」
「松浦先輩、やっぱり村山さんと一緒だったみたい。でも気持ち悪くなって五号館のトイレで吐いちゃったらしくて、野中先輩にヘルプの連絡があったみたいなの」
「どうしよう……私も行ったほうがいいよね?」
「ううん、待って」
結美はスマホの画面に視線を落とす。桃音と話している間も、将樹からはメッセージが届いているようだ。
「松浦先輩を落ち着かせたいから、今は来ないでほしいって」
「そんな……」
「桃音、野中先輩の言うとおりにしておこう。たぶん、村山さんがまだ、松浦先輩たちの近くにいる。なんで一緒にいるのかはわからないけど、そこに桃音が突撃したら、また二人の間で火花を散らすでしょ?」
「火花じゃなくて、なんなら火炎放射をする勢いで村山さんを撃退したいくらいだよ」
「ほら、好戦的になってる! それじゃ松浦先輩が安心して休めないでしょ」
「うっ……そっか……」
「松浦先輩のことは、ひとまず野中先輩に任せよう。吐き気がおさまったら、保健センターのほうに行くって。そこで少し休ませて、体調次第では帰らせるって」
「それじゃ、村山さんは……」
「村山さんのことは無視! さすがに、体調不良の松浦先輩の家に押しかけるようなことはしないでしょ」
(押しかけない……? 本当に?)
何度謙志が拒絶の意思表明をしても、都合よく無視していた華純のことだ。弱っている謙志を気遣う体で、「家まで一緒に行くわ」と言い出すような気がする。
「やっぱり……行くっ」
「え、桃音っ」
桃音はその場に結美を残し、五号館に向かった。外の通りは人が多く、走って移動はできない。それでも桃音は人波をかき分けて、どうにか五号館前の通りに出る。ゆりのき通りに面した保健センターに行くなら、必ずその通りを通るはずだからだ。
(謙志くん……っ)
桃音は肩に掛けているバッグの取っ手を強く握りしめ、周囲を見渡した。そして人の流れの中に謙志と将樹の姿を見つけた瞬間、桃音は思わず息を止めた。
「謙志、大丈夫?」
顔色の悪い謙志の腕を支えるように、しっかり掴んでいる華純の姿。その華純を振りほどきもせずに受け入れている謙志。まるで恋人同士のように寄り添って歩く二人の姿は、思いのほか桃音の心を傷付けたのだった。
◆◇◆◇◆
「熱はないようね。嘔吐以外に症状は? おなかの痛みとか」
「胃がムカムカしますが……痛みらしい痛みはあまり……」
「うーん、学祭の準備で疲れたか、ストレスかしら。季節の変わり目だから、身体が弱っているのかもしれないわね。経口補水液をあげるから、ゆっくりここで飲みなさい。それで歩けるようなら、今日はもう帰りなさい。家はどこ?」
「レンテバー駅の……反対側のエリアにあるマンションです」
「あら、近いのね。歩いて帰れる? 歩けないようなら、タクシーを呼んであげるけど」
「いえ……大丈夫です」
保健センターの救護室で女性の内科医師に診てもらった謙志は、ベッドに仰向けになったまま頷いた。
急な吐き気をもよおし、トイレに駆け込んで嘔吐してしまった謙志は、朦朧とする頭でひとまず将樹に連絡を入れた。メッセージを見た将樹はすぐに五号館の男子トイレまで来てくれて、救護室に付き添ってくれた。華純も相変わらず引っ付いていたが、華純を強く振り切るだけの精神力はもはや残っておらず、謙志はただひたすら、華純の存在は無視して見ないようにしていた。
「謙志、大丈夫か?」
「ああ……悪いな」
「全然。お前からのメッセージにすぐに気付けてよかったよ」
「村山は……」
「外にいる。今は絶対入ってくるなって、念を押してきた」
「はあ……」
こんな体調では学祭を回ることはできないのだから、諦めてどこかへ行ってくれればいいのに。それとも、カノジョ面をしたいがために残っているのだろうか。もしそうならば、どこまで自己中心的な性格なんだろうか。
「何があったんだ? って訊きたいところだけど、まずはお前の体調回復が優先だな。どうする? 家まで一緒に、俺も行こうか?」
「いや……」
謙志は回転速度の遅い頭で考えた。嘔吐はしたものの、もうしばらく横になって休み、経口補水液の摂取で多少回復すれば、一人で歩いて帰ることはできるだろう。
だが、このままなし崩し的に華純が付いてくることだけは、絶対に受け入れられない。華純は何かそれらしい理由をつけて、このまま家まで一緒に行くと言い出しそうな気がする。そう懸念すると、謙志の胃はまたムカムカとしてきてしまった。
「俺は一人で帰るから、村山を見張っててくれないか」
「見張る?」
「家まで付いてきそうで……嫌なんだ」
「ああ……わかった」
謙志が抱く危惧を理解した将樹は、真剣な表情で頷いた。
それから、将樹は一度救護室を出る。廊下にいた華純はスマホをいじっていたが、出てきた将樹を見るとすぐに話しかけてきた。
「謙志は?」
「熱もないし、大丈夫だそうだ。少し休んだら、今日はもう帰るって」
「そう……じゃあ、心配だからあたしが家まで送るわ」
「その必要はない」
予想どおり、謙志に付き添うことを申し出た華純に、将樹は苦々しい表情を浮かべた。
「村山が一緒だと、逆に迷惑だ。やめてくれ」
「は? 何言ってんの? あたしは体調の悪い謙志を心配してるだけよ? それのどこが迷惑なのよ」
「なんで謙志がストレスで吐いたのか……お前、わからないのか?」
将樹は華純を睨んだ。
いつも温厚な将樹がずいぶんと攻撃的になったので華純は一瞬ひるんだが、ふっと視線をそらして小声で答えた。
「学祭の準備とかで……疲れてたんでしょ。せっかく一緒に回るって約束したのに」
「それ、本当に約束か? お前が謙志を脅したんじゃないのか」
「なっ……人聞きの悪いことを言わないでよ! 思い出作りに好きな人と一緒に学祭を回るくらい、してもいいじゃない。何かいけないの?」
「いけないだろ。謙志は舟形ちゃんと付き合ってるんだ。お前もそれを知っているだろ。それなのに恋人のいる謙志と腕を組んで歩くとか、お前の倫理観、どうなってんの?」
「はあ? なに、倫理観って。笑えるんだけど。あたし、謙志と一緒に学祭のステージとか展示を見てただけよ? 友達同士だってしてることじゃない。何がおかしいの? 意味わからない」
「はあ……」
華純は自分の行動が客観的にどう思われることなのか、頑なに理解しない。いや、理解しようとしていない。あれこれと言葉で言い返して武装しているが、自分に都合の悪いことは一切合切認めるつもりがないようだ。
「とにかく、村山はこれ以上謙志に近付くな。関わるな。謙志の身体にさわることも絶対にするな。何度も謙志からそう言われてるだろ?」
「それは……謙志は照れてるだけでしょ。人前で美人のあたしから話しかけられることを恥ずかしがって」
「本当にそう思ってるのか? なあ、本当に?」
怒りを通り越して、将樹はなんだか呆れた気持ちになった。
いったいどこまで、華純は自分に都合のいい解釈しかできないのだろう。自分が拒絶されているという現実が、そんなに受け入れがたいものなのだろうか。その現実をきちんと受け入れないからこそ、ますます自分は謙志に嫌われているというのに。
将樹の問いに、華純は何も答えなかった。その代わり、保健センターから立ち去ることもなく、休息を終えて出てきた謙志にやはりすぐに近付いた。そんな華純を制止して、将樹は謙志に目配せをする。そして謙志は将樹だけに一言別れを告げると、華純のことはろくに見もせずに帰路につくのだった。
◆◇◆◇◆




