第26話 交錯して冷える時間(上)
「謙志、あのチョコバナナでも食べる?」
「食べない」
学祭一日目、桃音と結美が天文研究会の模擬店の店番をしている頃、華純は謙志の左腕に両腕を巻き付けて、五号館隣のミニステージで行われている軽音部のバンド演奏をご機嫌に見ていた。ほかの客と同じように手を上げたりジャンプしたりしてはしゃげばいいものを、華純は絶対に謙志の腕から離れようとはしなかった。
そしてステージが終わると、五号館前に並んでいる出店を順番に品定めし、謙志に何か食べるか訊きながらゆっくりと歩いた。
そんな華純に、謙志は終始不機嫌だった。正直に言って、まとわり付かれている腕の感触がとても不愉快だ。さっさと離れてほしい。なぜ付き合ってもいない異性と、こんなに密着して歩かなければならないのか。
「もうっ、謙志も少しは楽しんでよ」
にべもない態度の謙志に、華純は唇を尖らせて拗ねてみせる。だが謙志は、そんな華純を極力視界に入れないように、ぼんやりと遠くを見ていた。
今日から始まった玉苑祭。半ば脅されて華純と回ることにした謙志は、早くも自分の判断を後悔していた。
――じゃあ、せめて学祭はあたしと一緒に回って。思い出作りに、それくらいしてくれてもいいでしょ? 一緒に回ってくれないなら、あたしとキスをしたって……あの子に言うから。
昨日の学祭準備中の夕方、華純から告白された謙志は、彼女の思いをその場ではっきりと断った。しかし華純は、一方的にキスしてきた事実をもって謙志を脅した。
その瞬間、華純を前にして思考力がにぶっていたのか、謙志の頭の中はある不安でいっぱいになってしまった。それは、「華純にキスをされたことを桃音が知ったら、桃音に振られるかもしれない」という不安だ。
頑なに拒絶していたはずの華純と自分がキスをしたと知った桃音に、愛想を尽かされるかもしれない。別れを告げられるかもしれない。そんな未来を一瞬でも考えたら、謙志は足場が崩れていくようなとてつもない恐怖に襲われた。桃音が自分の隣から去ってしまうかもしれないという可能性が、怖くて怖くて仕方なかった。決して考えられない、考えたくないことだった。
桃音に嫌われたくない。だから、華純にキスをされたことは、絶対に桃音に知られたくない。そのためには、華純の願いを聞き入れるしかないと思った。
「広告研究会が上映してる動画が、結構面白いらしいの。行ってみない?」
「好きにしろ」
華純と一緒にいることをまったく楽しもうとしない謙志にめげずに、華純は笑顔を向ける。まるで、謙志の恋人は自分なのだと言わんばかりに。
(これは……こんなことは……違う……)
謙志は、自分の足取りをとても重たく感じた。
一瞬のことでガードできなかったとはいえ、華純にキスをされたこと。それが後ろめたくて、謙志は昨夜からずっと、桃音から届くメッセージに返信できないでいる。華純からのメッセージは既読スルーができたが、桃音に不信感を持たれるのが怖くて、桃音のメッセージはアプリで開いてもいない。スマートフォンのホーム画面に届く通知で、いくつかのメッセージの冒頭部分をちらっと見ただけだ。学祭を一緒に回ろうと約束していたから、きっとそのことで何度もメッセージを送ってきているに違いない。それなのに読むことすらできずにいるせいで、謙志の中には桃音への罪悪感が、冬の雪のようにしんしんと積もっていった。
(桃音……)
広告研究会の展示室に到着し、空いている椅子に華純と並んで座り、動画の上映時間までしばらく待つ。
「あれ、華純じゃん~。なーにー、カレシと一緒に回ってるの?」
「ん~……カレシではないんだけど、ちょっとね」
「えぇ~、何それ。カレシ候補ってこと? ま、楽しんでいってね」
広告研究会に同じ学部の友人でもいたのか、女子に話しかけられた華純は曖昧に笑ってみせた。
ああ、嫌だ、嫌だ。華純の恋人扱いなんてされたくない。恋人候補扱いもされたくない。人も物事も、自分の見たいようにしか見ることのできない、こんな意地の悪い女じゃなくて、自分には桃音という、かわいくて優しい本当の恋人がいるのに。やっと出逢えた桃音という理想の女の子こそ、自分のカノジョなのに。
(桃音、ごめん……俺……間違えた……)
華純の願いなんて、叶えるべきじゃなかった。
昨日の華純とのキスは、突然のことで抵抗する間もなくて、仕方なかったんだ。そう正直に全部話せば、きっと桃音は許してくれる。責めることなど――別れを告げることなど、きっとしない。自分たちの信頼関係は、華純との一瞬のキスくらいで崩れるようなものではない。そう信じて、昨日の時点で華純の要求を突っぱねればよかった。
それができなかったのは、華純とのキスが桃音にバレて桃音に振られるかもしれないということを、昨日のあの場で恐れに恐れたから。華純の要求を呑まなければ自分が桃音に捨てられると、ひどく恐怖したからだ。桃音は決してそんなことはしないのに、自分が桃音のことを信じられなかったのだ。
(桃音……会いたい……)
こんな好きでもない異性と一緒にいたくない。華純のカレシ扱いなんて、微塵もされたくない。気持ち悪い。気色が悪い。華純と二人でいるところを、もう誰にも見られたくない。華純と離れたい。
「っ……!」
広告研究会の動画が始まって数分経ったところで、謙志はたまらなくなって華純の腕を振りほどき、一番近い男子トイレへ駆け込んだ。そして個室の便器に、今朝食べたものを嘔吐してしまうのだった。
◆◇◆◇◆
「おう、将樹~。お前は女と一緒に回らねぇの?」
出店で買った焼きそばを持って食堂の椅子に腰掛けた将樹に、通りかかったスポーツ科学部の友人が声をかけた。
「俺、今はフリーなんだよ。知ってるだろ」
「謙志はべったり女と腕を組んでたのになー。お前ら、キャラが逆だろ」
「謙志が?」
友人のその話に、将樹の中のアンテナが何かを受信した。それは言うなれば、「不穏な予感」というものだ。
「謙志さ、朝からなんか連絡がつかないんだよ。どこにいた?」
「五号館前のミニステージを見て、そのあとどっか中に入ったぞ。ずーっとその女が隣にいて、なんか歩きづらいのか、怖い表情をしてたけど」
「その女子って、そんなに長くない髪の、背の低い子?」
「いや? そこそこ背のある、髪の長いすっげー美人だったけど? あんな美人にくっ付かれたら、俺なら嬉しいけどねえ」
(村山か? え、でもなんで……)
「じゃーなー」と言って去っていく友人にも、そしてテーブルの上に置いた焼きそばにも目もくれず、将樹はリュックからスマホを取り出して謙志にメッセージを送った。
<お前、いま誰とどこにいる?>
少し待つが、返事はない。既読にもならない。
将樹と謙志は、学祭三日目の午後に天文研究会の模擬店の店番をする予定だ。それまでは自由行動なので、将樹は例年どおり、謙志やほかの友人を誘って学祭を回ろうかと思っていた。
しかし謙志からの返事はなく、運悪くほかの友人たちも皆、サークルの当番やらステージやらで忙しく、将樹は今朝から一人で、ふらふらとキャンパス内を歩いていた。天文研究会の模擬店は、美人の結美の客引きでいつになく星空豚汁が売れていると聞いたのでちらりと見に行ったら、たしかに列ができていて、しかもそれが途切れることがなかったので、かなり驚いた。
(謙志……なんで村山と一緒にいるんだ?)
華純がまた一方的に付きまとっているだけで、謙志は華純から逃げることができていない、ということなのだろうか。そのことを、桃音は知っているのだろうか。
(なんか……なんかわかんねぇけど、悪い予感がする……)
本人が大丈夫と言うので最低限の心配しかしていなかったが、そもそもここしばらく、謙志は華純というストレッサーのせいで身体に不調をきたしていた。それなのに華純と一緒に学祭を回っているとしたら、かなりストレスなのではないだろうか。
(舟形ちゃんは、謙志と連絡がとれているのか?)
謙志が華純と一緒にいるということを、桃音は知っているのだろうか。謙志は桃音に、何か連絡をしたのだろうか。
(やっべぇ……なんか、心配なことしか浮かばない)
その時、将樹のスマホが振動して、謙志からのメッセージを受信した。
◆◇◆◇◆
「結美ちゃん、ごめん。私、謙志くんが心配だから探してみる」
「えっ、この人が多い中を一人で!?」
中庭の模擬店を見て回っていた桃音は結美にそう声をかけると、小走りでどこかへ行こうとした。結美は慌てて、そんな桃音の手首を掴む。
「待って、桃音! 私も一緒に行くか、手分けしよう」
「でも……悪いよ。結美ちゃんは学祭を楽しんで?」
「悪くない! 学祭は明日もあさっても続くし、それに来年もある。でも、もし松浦先輩に何か起きてるなら、それは今すぐなんとかしなきゃ……でしょ?」
「だけど……何も起きてないかもだし……ただ具合が悪くて、家でずっと寝てるだけかもしれないし……」
昨夜から体調が悪くて、桃音に返信できずにずっと家で寝ている――それなら、学祭が始まった昼過ぎの今も連絡がないのは頷ける。キャンパス内を探すのではなく、一度謙志のマンションに行って、安否をたしかめることを先にしたほうがいいかもしれない。桃音はそう考えた。




