第25話 知らずに始まる崩落(下)
「講義の課題をペアで進める必要があって、それで一緒にいるだけだろ。桃音からそう聞いてる」
「ふーん? そんな単純な言い訳に引っかかっちゃうの? 課題に取り組んでいるのは本当かもしれないけど、でもその過程で……ってこともあるんじゃない?」
「ない。桃音は、不誠実なことは絶対にしない。話はそれだけか? もういいよな」
「待って……!」
立ち去ろうとする謙志のジャケットの裾を掴み、華純は必死に声を上げた。
「村山、何度も言ってるだろ。俺にさわるな。近付くな。構わないでくれ。迷惑だ」
華純のその手をはたき落としたいと謙志は思ったが、どんな理由であれ、自分から華純にふれるとセクハラ扱いされる可能性があると思い、躊躇する。
「謙志、あのね」
謙志からの警告などまったく聞こえていないようで、華純は俯き、一呼吸を置く。そして意を決すると謙志のジャケットを引っ張り、自分は背伸びをして謙志の唇と自分の唇をふれ合わせた。
「なっ……!」
「好き……あたし、謙志のことが好き。謙志に別れを切り出したこと、ずっと後悔してた……留学しても、謙志が忘れられなかったの……。ねえ、やり直せない? あたしをもう一度、謙志のカノジョにして?」
華純は一瞬ふれるだけですぐに離れたが、謙志のジャケットの裾を掴んだ手は離さない。
「あたしじゃだめ? あんな子供っぽい子とは別れて、あたしと付き合ってよ」
華純は瞳を潤ませて、切なそうな表情で謙志を見上げた。
「あたしのほうが大人っぽくて、きれいじゃない……あんな子より、あたしのほうが謙志を満足させられるわ」
(何を……っ)
なおも自分を売り込む華純に、謙志はほとほと嫌気が差す。
華純は桃音の何を理解している? 何も知らないだろ? 子供っぽいとか大人っぽいとか、そんな外見や表面的なことばかりで優劣を決めているが、そのことにいったい何の価値がある? 何の根拠があって、自分のほうが相手を満足させられるなんて傲慢なことを言えるんだ?
(無理だ……)
華純の何もかもが受け付けない。
一年前の春、なんとなく付き合っていた頃はそんなふうに感じなかったが、今ははっきりと感じる。華純のすべてが受け入れがたい。その見た目も、彼女が持っている価値観も、演技っぽい言動も偏った思想も、華純という存在すべての何もかもが、気色悪い。謙志の胃の中にはぶくぶくと、とても黒くてどろりとした何かが煮えたぎっているようだった。そしてそれが気持ち悪くて、吐き気を覚える。
(なんて返すべきか……)
しかし心根の優しい謙志は、それだけ嫌悪感を抱いた華純であっても、なるべく傷付けないで断ろうと思い、そのための言葉を探した。そしてその言葉で、華純との何もかもを終わらせたいと思った。
「俺は、村山のことは好きじゃない。この先好きになることも、絶対にない。だから、お前とは付き合わない」
未来がどうなるかなんて、誰にもわからない。明日の自分の気持ちがどんな色に染まっているか、明確な保証なんてできない。
だが、今ははっきりと思う。自分が華純を好きになる未来など、絶対に実現しない。桃音に対して感じるような安心感や愛おしさ、それに性的興奮を華純に対して覚えることも、決してないだろう。
「わかった」
「……!」
謙志の言葉がやっと通じたのか、華純は頷いた。謙志はほっと一安心した表情になったが、次に華純が発した言葉に息を呑んだ。
「じゃあ、せめて学祭はあたしと一緒に回って。思い出作りに、それくらいしてくれてもいいでしょ? 一緒に回ってくれないなら、あたしとキスをしたって……あの子に言うから」
◆◇◆◇◆
「星空豚汁、いかがですかー。身体が温まりますよー」
次の日の金曜日、いよいよ玉苑祭が始まった。今日から土日にかけての三日間、各団体のステージに展示に模擬店に、果てはプロのお笑い芸人のコントも披露される、一年で一番の文字どおりお祭りだ。
その一日目の午前中、桃音と結美はサークルの先輩と一緒に模擬店「星空豚汁」の店番をしていた。桃音は天幕の中で配給する係で、結美はその見た目を活かして、付近で客引きをする係だ。美人で人懐こい結美の笑顔につられたのか、それとも十一月下旬にしてはかなり肌寒い気温がぬくもりを求めさせるのか、星空豚汁にはそこそこ列ができていた。
「なんか、例年にない客足だな」
「井口ちゃんの呼び込み効果かもね~。美人はお得だ~」
天幕の奥で材料の管理をしている大石・ディップ・文尋と、大鍋で豚汁を作っている藤田・マリーナ・恵子はそろって呟いた。
この星空豚汁は、大鍋二つを使う。一つの鍋から客に商品を提供する裏で、二つ目の鍋に豚汁を作るのだ。そうして鍋を交互に使うことで、商品を提供できない時間を発生させない。
しかし、その作戦でもどこかで無理が出てしまうのではないかと思うほど、いつになく豚汁を買い求める客が多い。念のため在庫管理には重々気を付けるようにと、文尋と恵子は当番交代時に申し送りをした。
「結美ちゃん、あっちのメインステージだっけ?」
「うん。ちょうど当番が終わったタイミングで行きやすいね」
昼に差しかかった頃、次の店番である一年生の二人と交代した桃音と結美は、中庭の三号館側に設置されたメインステージが見える位置へと急いだ。そろそろダンス部が、野外ステージでダンスを披露する時間なのだ。
ダンス部には、華純の友人である蓮花と麻衣子がいる。桃音が謙志たち四人でご飯を食べているところに華純が乱入してきたあの日、結美は華純の友人の蓮花と麻衣子と話をしていた。そして二人がダンス部に所属しており、学祭で踊ると聞いたので、見に行く約束をしたのだ。
「桃音、無理しなくていいんだよ?」
「ううん、無理してないよ。村山さんのことはあるけど……これも必要な〝付き合い〟でしょ?」
メインステージに到着すると、まだ前の演目であるバトン部の演技が終わっていないようで、多くの観客がいた。その観客の後方に立って、二人は話しながらダンス部を待つ。
女子校出身の桃音と結美は、年上の同性を敵にすることの恐ろしさをよく知っていた。女子だけの世界は、いかに敵を作らないかがとても重要である。相手にひれ伏して隷属するわけではないが、相手の懐に入って相手を気持ちよくさせて、敵意をこちらに向けさせないように振る舞うのは処世術の一つだ。
華純は明らかに桃音を敵視していたが、彼女の友人である蓮花と麻衣子は、桃音に明確な恨みや敵意を持っているわけではない。ただ一応、友人の恋のライバルということで、桃音とは一定の距離をとっていた。
一方で結美は、そんな桃音のためにも、あえて蓮花と麻衣子の懐に入ることにした。「お二人のダンス、必ず見に行きますね。楽しみにしてます」と約束をして、自分が二人に友好的であることを示そうというのだ。
そうすることで、少なくともその二人から桃音が必要以上に嫌われることはないはずだ。誰だって、自分を慕ってくれる年下の存在はかわいいもので、そのかわいい存在の友人ならば、そう易々と意地悪はできない。良心が痛むからだ。
「桃音、始まるよっ」
手に持ったスマホに視線を落としていた桃音の肩を、結美はたたいた。
蓮花と麻衣子たちは五人のチームを組んでいるようで、「P-CLASS」という、いま女性アイドルグループの中で最も人気で華やかなグループの曲に合わせて、ほぼ完璧なコピーダンスを見せた。その次はラップパートのある男性ユニットの曲に合わせて、オリジナルダンスを見せる。特定のジャンルに限らず様々な曲調に合わせて踊る五人のステージは、大いに盛り上がった。
「すごいねえ。本家のダンスもするし、オリジナルっぽいダンスもするんだね」
「そうだね」
ステージからほとんど視線をそらさないまま、結美は楽しそうに桃音に話しかけた。桃音もステージの上で踊る蓮花と麻衣子を見て、華純と一緒にいる時とはだいぶ雰囲気が違うなと思った。
「手、振ったら気付いてもらえるかな?」
結美はそう言うと、ステージに向かって大きく手を振る。すると蓮花がそんな結美に気付いたようで、ダンスの合間に結美を見て手を振り返してくれた。なんだか芸能人にでもサービスしてもらえたような特別な気持ちになって、結美は無邪気に笑った。
そうしてあっという間に五曲ほど踊り終えると、ステージの上の五人は下がっていった。
「はあ~楽しかった」
ステージが終わり、観客たちがまばらに散っていく。
桃音と結美は、中庭の端に寄って一息ついた。しかし、桃音はスマホをずっと見ている。
「連絡ないの? 松浦先輩」
「うん……昨日の夜からずっと……」
華純対策も含めて、学祭はできるだけ一緒にいて、一緒に回ろう。そう約束したはずなのに、何度メッセージを送っても、謙志からの返事はない。既読マークも付かないので、桃音は段々と不安になってきた。
「謙志くん、数日前に家で嘔吐しちゃったって言ってて……」
「えっ、大丈夫なの!?」
「たぶん……。病気ではないみたいだから、ストレス性だと思うの」
「ストレスって……え、村山さんの付きまといが原因?」
「それしかないと思う……」
桃音はそう答えると、暗い表情で俯いた。
「家で休んでるのかな……」
「そうだとしても、桃音に返事はしてくれると思うけど」
「そうだよね……」
付き合い始めて以降、こんなにも謙志からの反応がにぶかったことはない。謙志は口数の多くない性格なので、連絡アプリでもそう多くの言葉を返してくれることはない。しかし、言葉一つでもスタンプ一つでも、何かしらのリアクションができるだけ早くに返ってきた。こんなふうに、何度メッセージを送っても無反応ということは、これまでになかった。
(謙志くん……どうしたの……?)
豚汁が欲しくなるようなとても冷たい風が、ふわりと桃音の頬をなでていった。
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