第25話 知らずに始まる崩落(上)
「はあ……」
「謙志? 体調、悪いのか? 準備はいいから休んでろよ」
十日ほどが過ぎ、いよいよ大学の一番大きなイベントである大学祭――玉苑祭が約一週間後に迫ってきた。まだ講義は通常どおりのスケジュールで行われているが、各サークル、各部活は合間をぬって、着実に学祭の準備を進めている。
謙志たち天文研究会は毎年、豚汁の模擬店を出している。「寒空の下での天体観測もへっちゃらになるほど身体が温まる豚汁」という触れ込みで売るのだ。もちろん、合宿で撮影した星空の写真などを展示する常設展示企画も行っており、二本立ての学祭の準備は会員全員で忙しく手分けしている。
三時限が終わった今日、謙志と将樹は模擬店の設営に必要な資材を部室に運び込むなど、主に力仕事に精を出していた。手が空いている二年生、一年生は模擬店や常設展示のためのパネル作成などを行っており、会長の素子は玉苑祭実行委員会の会合に行っている。どこもかしこも、早くも学祭の色が濃くなっていた。
「悪い……そうする」
「ああ、ゆっくり休め。何か言われたら、俺が説明しておくから」
将樹はそう言って、ふらふらと歩く謙志の背中を見送った。
謙志は中庭から部室に戻ると、パネル作成を行っている会員に体調不良で少し休むことを告げてから、空いているパイプ椅子に座った。そして机の上で両腕を組み、そこに突っ伏す。
(やばい……なんか……吐きそうだ……)
胃の中になんとも言えない不快感を覚えて、謙志は眉間に皺を寄せた。
華純は近付く学祭の雰囲気に浮かれているのか、その後も謙志を見つけては懲りずに近寄ってきた。運の悪いことに、謙志が自主研究のために野球部の練習に顔を出して情報収集をしたりアドバイスをもらったりしていると、チアリーディング部の練習でグラウンドに出てきている華純に見つかることがよくあった。
華純はいつもとびきりの笑顔で謙志の名を呼び、用があってそこにいる謙志がすぐに逃げられないのをいいことに、あれやこれやと話しかけてきた。構わないでくれ、近付かないでくれ、という謙志の拒絶は、一切華純に通じていなかった。
そんな謙志に、スポーツ科学部で野球部に所属している友人たちは、「え、あれ、松浦のカノジョ? 超美人じゃん」と笑いながら盛んにはやし立てた。その都度謙志は、「違う。あれは元カノ。いま付き合ってるのは、同じサークルの後輩」と丁寧に訂正したが、華純があまりにも謙志だけに笑顔で話しかけているように見えたので、友人たちは皆、「ええ? あれが元カノ? 超フレンドリーに接してくるじゃん。まだお前に気があるんじゃねぇの」と、将樹と同じことを言った。「知らない。俺はちゃんと付き合ってるカノジョがいるし……正直、迷惑してるんだ」と、謙志は心底うんざりとした表情でため息をついた。
華純に辟易している点の一つが、そうして外堀を埋められて追い詰められていくような息苦しさだ。
食堂や中庭などでも、華純は気軽に謙志に話しかけて、そして時には大胆に謙志の腕にからみ付いてくる。「さわるな」と謙志が嫌がっても、「照れちゃって~」と華純が笑うものだから、その光景を見ている周囲の者たちは、二人の仲をいいように誤解する。桃音という大事なカノジョがいるのに華純とカップル扱いされることが、謙志にはたまらなくストレスだった。
(桃音……)
あのオリエンテーションの日、華純から逃げて桃音に会いたくなったように、謙志は桃音に会ってふれたいと思った。
通常の講義や課題に自主研究、アルバイト、それに学祭の準備と華純からの付きまとい。あれやこれやをこなして、振り回される日々。それでも、桃音とは月曜日の昼休みを一緒に過ごし、木曜日の三時限終わりには二人でゆっくり過ごす時間を作っていた。その中で、互いに華純からされたことや、どう対応したかなどをしっかりと共有し、華純にへんに揺さぶられないように、互いの信頼関係を維持している。桃音はいつだってやさしく笑いかけてくれるので、謙志はその笑顔に癒され、安心した。華純に嫌悪感を抱くたびに、謙志の心は反比例するようにますます桃音へとかたむき、華純からは離れていった。
華純のことで謙志があまり乗り気ではないので、ここ最近桃音とはえっちをしていないのだが、華純の問題がきれいに片付いたら、また我慢をさせられたいと思う。桃音と性行為をする日まで悶々としながら過ごして、そしてまた、桃音とラブホテルにこもってあらゆるふれ合いをしたい。
(村山は……どうしたら引き下がるんだ?)
一年前の春頃――付き合っていた頃の華純は、ここまでしつこくはなかった。告白してきたのは華純のほうだったので自分のことを好いていたのだろうが、その時の華純も今の華純も、なんだか謙志は「違う」と思っている。桃音からは本当に好かれていると思えるが、昔も今も、華純からは自分が好かれているという感じがしない。彼女が自分に向ける好意の言動は、演出された舞台上の演技のように思える。心の内から自然発生した、桃音が向けてくれるようなあたたかな恋情ではない。
それに、華純はこちらのことを、対等な人間だと思っているようにも思えない。もしそう思っているのなら、再三にわたる謙志の拒絶を受け止めているはずだろう。それをこんなにも無視するということは、謙志の言葉など、取るに足りないものだと思っているということ。謙志のことをとても軽く、あるいは下に見ているということだ。
(これ以上……何を言えばいいんだ……)
全身にぐったりとした倦怠感を覚えながら、謙志は考えた。
華純が自分に向けてくる視線や思いは、喩えるならお気に入りのおもちゃを自由気ままに振り回す子供のそれに似ていると思う。自分がいくらでも好き勝手に振り回して遊んでいいおもちゃ。そのおもちゃに人としての意思や心があるなどとは夢にも思わず、いつだって自分本位に遊んでいる感じだ。
構うな、近付くな――もう何度その言葉を言ったかわからない。さわるな、迷惑だ、ということも、その都度伝えている。それでも華純はめげずに、何度でも謙志に近付いてくる。そして華純は時折、ひどく桃音を貶める発言をしてきた。
――あの子、この間、同学年っぽい男の子と二人でいたわよ? 謙志、大丈夫? 二股をかけられてるんじゃないの? ああいうおとなしそうな見た目の子ほど、案外男遊びが激しかったりするからね~。
――ねえ、あの子ともう寝たの? あの子、そういうのできるのかしら。なんか純真無垢な子供って感じだから、セックスなんて無理! とか言って、潔癖症みたいな反応をしそうよね~。謙志ってば、欲求不満になってるんじゃない?
時にはそんなふうに下世話なことも、華純はつついてきた。華純のその、桃音への悪意に満ちた言動のすべてが、謙志は嫌だった。
桃音からは、ある講義にてペアで行う課題が出たので、そのペアの相手である男子と一緒に調べ物をする時間が発生していると聞いていた。決して二股などではないし、第一、桃音はそんな不義理をするような女子ではない。
性行為に関しても、華純の疑問はまったくの的外れだ。自分たちの馴れ初めは何一つ話していないが、そもそも自分たちは、付き合う前から破廉恥な行為に及んでいた。桃音も自分もどちらかというと奥手で、「好きだ」と告げる勇気がなかなか出せずにいながら、なぜかそんな流れになってしまったのだが、その後のことも含めて、桃音との性的関係に関して不満を覚えたことは、ただの一度もない。それどころか、桃音は謙志がずっと夢見ていた理想の性行為を叶えてくれる、理想の相手なのだ。華純の疑問や嫌味は、的外れを超えてむしろ侮辱にさえ聞こえて、謙志は非常に腹立たしく思った。
(あいつ……何も見えてないんだな……)
ふと、謙志はある気付きを得た。
華純は謙志のことも桃音のことも、そしておそらく自分のことも、何も見えていない。見ているようで見えていない。自分や他人、そして物事のありのままの姿ではなく、「こう在るべき、こう在るはず、こう在りたい」という架空の姿でしか、それらをとらえることができていない。その架空の姿だけが、彼女にとっては唯一無二の真実なのだ。
謙志は自分になびくべきで、桃音は性行為もできないようなお子様なはずで、自分はあらゆる男を意のままにできるいい女――で在りたい。華純の見ている世界では、華純自身も含めて全員が、華純にとって都合のいい設定で生きている。他人のことも自分のことも、そうした願望交じりのフィルター越しにしか見ていない。
華純と自分たちとでは、根本的に認知が違う。そんな相手に何度拒絶の言葉をぶつけても、意味が通じないわけだ。
(なんか……哀れだな)
自分は周囲を正しく見ることができておらず、自分自身についても理想の姿ありきでとらえている。その自覚を持てず、何もかもを見たいように見て、都合のいいことしか受け入れられない華純を、謙志は哀れに思った。
そんな感性や生き方ではきっと、どこかで大きな破綻が出てくるだろう。今はひたすら、自分に都合のいい状況や人、言葉を集めてその中でぬくぬくとしていられるが、それらがすべて虚像だったと知ったとき、華純はどうなってしまうのだろう。
(いや……知るか、そんなこと)
謙志は顔を上げて、自分の手の甲をじっと見つめた。一瞬でも華純に同情したことを、自分の中でなかったことにする。
彼女の行く末を案じる必要はない。華純の認知がどういうものであれ、いま現在進行形で彼女からは迷惑を被り続けている。二度と関わらないでくれと、とにかくその要望を彼女に納得させなければ。
謙志はリュックの中からペットボトルのお茶を取り出して二口ほどゆっくりと飲み、もう少しだけ休んでから、再び将樹と一緒に力仕事に繰り出すのだった。
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