第一項-知覚
最初は小さな違和感だった。
「さすがは皇太子殿下。まだこんなにも幼くあられるのに、よくご存じでいらっしゃる」
にんまりとした狐のような教育係が私をおだてるかのようにすり寄ってくる。
不快だ。
それは、私を持ち上げているかのように見せて虎視眈々と私に取り入ろうと画策する狡猾な教育係に対してだけではない。”知るはずのない”ことを、教えてもらっていないことを何故か知っている私に対しても感じる感覚だった。
私はなぜこんなにも知っているのか。
私はまだ生をうけて八年。日本でいうと小学二年生……
突如として頭の中に現れた知らない言葉。
しょうがくにねんせいとは、にほんとはなんだ。
あたまがぐるぐるとしてくる。これが剣術の稽古中でなくてよかった。意識と乖離した冷静な第三者の声さえ聞こえてくる。
さらにどんどんと疑問が降りかかってくる。
わたしはだれなのか。わたしはどこからきたのか。わたしはどうしてむずかしいことばをしっているのか。わたしは……
「殿下?」
返事はできなかった。
心が、頭がいっぱいいっぱいで。知らないはずのことを、知っている気がする。
疑問に思っていなかったことが、疑問に思えてくる。
”張鵬”は……張鵬は”女”なのに、どうして”殿下”と呼ばれているのだ?
だめだ、わからない。わからないのだ。私がどこからか俯瞰して見られてるような、そんな疑問が頭名の中を行ったり来たりする。
錆びた歯車がきしんだ音をたててむりやりに回りだした。
「ことりが女であろうが、男であろうが関係ないよ。健康に、優しく育ってくれさえすれば父さんも母さんもうれしいんだよ」
声が、聞こえる。
恐ろしく、それでいて安心できる声。懐かしいとさえ感じた。
知らない男と女。異質な衣をまとい、ほわほわと幸せそうに笑いあっている。
違う。
私の父上と母上はこのような人間ではない。
かんかんかんと頭に音が鳴り響く。
拒まなければならない。異物を、私が知るべきではない物を。私が私でなくなってしまうかもしれないから。
なのに、この優しく温かいものを享受してしまいたいと考えてしまう。
冬に凍った氷河が春に溶けるように、古ぼけた歯車の錆がとれるように、私もこの違和感を、心を……どうにかしてしまいたい。
私の中に知らないものが入り込んでいく。なにかが重なり合い、くるくると混ざっていく。
それは不思議と心地の良いものだった。
今は、もう、眠ってしまおう。この感覚に身を、心を預けて。きっとそれがいい。
意識がゆっくりと沈んでいった。
――
さんさんと光が降り注ぐ、窓際の寝台。
まぶしさに耐えきれず体を起こす。
格子窓から外を眺めれば、いつの間にか朝になっているようだ。やわらかい春のひざしが瞼をくすぐる。
ずきずきと痛む頭を押さえ、ゆっくりと体を起こす。握っていた手を開き、その掌をじぃっと見つめる。
あれは、夢、だったのだろうか。
あんなに取り乱していたはずなのに、今では嘘のように冷静な気分がしている。
「殿下が目を覚まされました!」
若い宮女が、ぱたぱたとその沓音を響かせて寝室からでていった。
残っているのは私と、年かさの宮女が二人である。
「春桃」
すぐそばにいた方の宮女の春桃に目配せをする。
私が乳離れしてからずっと私の世話をしている宮女であるからか、春桃は私が何を言わんとしているかすぐに察してくれた。
「はい、殿下。殿下は勉学中にお加減を崩されて、お倒れになりました。」
心配そうな顔つきで春桃はこちを見ている。
勉学中に倒れた。そういえばそうだったかもしれない。
いや本当だろうか?
「……本当に私は倒れたのか?嘘ではないのか?」
「本当ですよ。李老師が顔を真っ青にして慌てていました。」
容易にあの狐顔が青くなる場面が脳裏に浮かぶ。あいつの場合、私を心配して、というよりかは責任を追及されるのを恐れて、慌てていたのだろう。
そう苦笑しながらも、もう一度掌に視線を向ける。
小さくて、白い、見慣れているはずの”こどもの”手だった。
でも、”前”のような手ではなかった。前の手はもっと大きくて、ふっくらとした……
「殿下?」
春桃の初老の女人特有の落ち着いた声が私を呼ぶ。
”殿下”
私を呼称する、なんてことない言葉だ。だが、そのなんてことないはずの言葉がどうにも奇妙な感覚を呼ぶ。”殿下”という存在をどこか遠い場所からぼぉっと眺めているような感覚だ。
『ことりが女であろうが、男であろうが関係ないよ。健康に、優しく育ってくれさえすれば父さんも母さんもうれしいんだよ』
あの声が再び頭の中にこだまする。
ああそうだ。
羽田ことり
二十歳。大学一年生。両親と弟が一人の四人家族。卑屈な性格で……
するすると情報が流れ込んでくる。どんどんと、どんどんと。
今と前が複雑に絡み合っていく。雪解け水が川に合流するように。されどぴったりには重ならない。
その気持ちの悪さに顔をしかめたくなる。けれども、それでいい気がする。
拒む理由も資格もない私には受け入れるしか選択肢がないのだ。
記憶も、感情も、言葉も、そのすべてを。
私は苹国の皇太子、張鵬だ。それはきっと、ずっと、変わらない。
私が張鵬だろうが、羽田ことりだろうが、私は私のままなのだ。
ずっと、心の中でつっかえていたわだかまりがなくなっていくのを感じる。
深呼吸を一つ。
狭まっていた視界が開けてくる。まばゆい光が瞼を刺激する。
目をそっと開けると、顔を真っ青にした宮女達や父上とその側近達を瞳孔が捉えた。
父上達はきっと若い宮女の報告を聞いてこちらに駆け付けたのだろう。
「殿下!いかがなさいましたか!?殿下!?」
私が目を開けているのを確認した春桃は、ほっと胸をなでおろしている。
「鵬よ、まだ加減がすぐれぬのか?」
父上が私を気遣うように問いかける。
「いえ、もう大丈夫です。少し、ほんの少し、白昼夢を見ていたのです。」
そう答えると、父上は少し眉尻を下げて、自慢のひげをなでながらため息をこぼした。
冷や汗がでてきた。この流れは絶対にお小言だ。
「鵬よ。まったく、いくら剣術が好きだからといっても、ずっとしてもいいというわけではないのだ。人は動けば疲れ、疲れれば倒れるのだ。故に少しは休むことを覚えろ。」
父上からこの類のお小言をいただくのはこれが初めてではない。だが、今回は倒れてしまったのでいままでよりも語気が強い気がする。そしてまだ続きそうな気配も感じる。
「そして、剣術だけでなく勉学にも力を入れるように。李玄から聞いたぞ。其方は政はなんとか及第点だが、経書や策論となると途端に粗が目立つとな。よいか?皇帝たるもの、剣や政のみできればよいというものではない。多くを見て、多くを動かす者でなければならない。そのためにも勉学に励まねばならぬ。」
その言葉は単に父心からいうよりかは、皇帝である者からの一声であった。
やはり、父上は偉大だ。皇帝として数多もの困難に立ち向かってきただけに、言葉に重みがある。
「はい。父上。此度倒れたことで、私は自分が皇太子として未熟であると痛感しました。これからは一層勉学にも励みます!」
私の言葉に父上は満足したのかフッと微笑んだ。そして私の目をまっすぐに見て、その大きな手を私の頭の上に置いた。
ほのかに温もりを感じる手だ。
「其方は私の唯一の後継者なのだ。いずれは私に代わり、空を自由に飛ばねばならぬ。昨日、其方が倒れたと報告を受けて、生きた心地がしなかったぞ。まことに、体には気を配るように。」
やさしい、やさしい声だった。
父親としての、私を心配するような言葉に口角が上がるのを感じる。
「お気遣いありがとうございます、父上。」
その声を聞いて満足したのか、春桃に何か話した後、父上は側近たちを引き連れて寝室を出て行った。
その大きな後姿を忘れることはないだろう。この先も、私が皇帝となっても、ずっと。
「さて、回復もしたことだし少し剣の稽古でもするか」
そうつぶやくや否や、春桃がにこりと微笑んだ。
「殿下?きっと殿下は剣を振ろうとなさるのでそれをお止めするように陛下から伺っています。」
前言撤回。
父上の背なんて忘れてやる。
時間かかった。3千字書くのに約5時間笑




