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9/13

ヒロインの恋、魔王の疑念


第四ゲートを止めたあと、俺たちは少しだけその場に留まった。


少しだけ、のつもりだった。

だが朝比奈さんは、俺の胸元の破れを見てからというもの、完全に「休ませる側」に回っていた。


「動かないでください」


「……はい」


「深呼吸してください」


「……はい」


「右手、震えてます」


「気のせいです」


「気のせいじゃないです」


言い切られた。


しかも今回は、やさしい声ではなく、少し本気で怒っている人の声だった。三十八歳にもなって年下の女性に叱られているのだが、不思議と嫌ではなかった。嫌ではないどころか、少し安心していた。


安心している場合ではないのだが。


右手の中には、まだ三つの点が残っている。

第五、第六、そして第七。

水族館に入る前に一つ。水族館の外周ラインに一つ。最後の一つは正午直前。


時間はまだ残っている。

だが余裕は、もうあまりない。


朝比奈さんがハンカチを押さえながら、じっと俺を見ていた。


「……村田さん」


「はい」


「本当に猫ですか」


来た。


さすがに来る。


猫みたいなのが飛びかかってきて、赤い線が走って、俺が怪我をした。どう並べても話が繋がらない。自分が聞く側なら絶対に信じない。


「……たぶん」


「たぶん」


「暗かったんで」


「暗かったら、赤い線は見えるんですね」


鋭い。


今日いちばん鋭い。


朝比奈ひまりは普段やわらかい。だが、やわらかい人間が本気で確かめに来るときは、むしろ逃げ道が少ない。


「いや、それは……」


「見間違いかもしれないです」


朝比奈さんが、自分でそう言った。


助かった、と思った次の瞬間、続きが来た。


「でも、村田さんが私を庇ったのは、見間違いじゃないです」


逃げ道が、別の方向から塞がれた。


朝比奈さんは少しだけ目を伏せて、それからまたこちらを見た。


「何があったのか、全部は分かりません」


そう言って、ハンカチを押さえる手にほんの少し力を入れる。


「でも、悪いことじゃないっていうのは分かります」


心臓がもたない。侵略ゲートの停止より、この人の言葉のほうが確実に俺を殺す。


何をどう見たら、半地下の通路で訳の分からない現象を起こしている男に対して「悪いことじゃない」と判断できるのか。判断基準を一度説明してほしい。いや、説明されたらされたで、たぶんもっと困る。


「……そういうの、普通は分からないでしょう」


「私、そういうの分かるんです」


「どういうのですか」


「村田さんが、悪い人じゃないってことです」


真正面から来た。


三十八年間、他人から向けられる評価といえば「村田さんが一番詳しいので」とか「村田さんに聞けば分かるかも」くらいだった。技術者としての信頼はあっても、人間としての信頼を正面から言葉にされたことは、たぶん一度もなかった。


それが今、侵略ゲートを四つ止めた直後の、ビル裏の通路で来る。


しかも、その言い方がやけに静かだった。軽口ではない。気休めでもない。本気でそう思っている声だった。


俺が返事に詰まっていると、朝比奈さんはふっと目をそらした。少しだけ耳が赤い。


「……あんまり見ないでください」


「いや、見てないです」


「見てます」


「見てないです」


「村田さん、その言い方のときは見てます」


なんなんだ、この人は。観察精度が異常に高いうえに、俺の言動パターンをだいたい把握している。


しかも自分で言ってから、朝比奈さんは少しだけ照れたみたいに笑った。その笑い方が、第四ゲートのあとに見るにはあまりにも平和で、逆に胸が痛くなった。


こんな顔のまま、正午を迎えさせるわけにはいかない。


---


少し落ち着いたところで、朝比奈さんが小さく言った。


「……でも」


「はい」


「さっき、下がって、って言いましたよね」


「言ったかもしれないです」


「言いました」


「……はい」


「ちょっと、かっこよかったです」


息が止まった。


本日何回目か分からない致命傷だった。


「いや」


「はい」


「そういうのじゃないんで」


「ふふ。出ました」


何が“出ました”なのか。たぶん俺の定型句だろうが、本人に自覚がないので言われても困る。


朝比奈さんはハンカチをたたみ直しながら、少しだけ視線を泳がせた。


「私、今日、楽しいです」


その言葉に、右手とは別のところがぎゅっと縮んだ。


楽しい。


デート中に侵略ゲートを四つ止めて、魔王に監視されて、猫ではない何かに襲われて、先輩が怪我をして、その結果が「楽しい」なのだから、この人の感性は時々すごい。


だがもちろん、その“楽しい”の中身はそういうことではない。


村田耕助と一緒にいる今日が、楽しいのだ。


それが分かるから困る。


分かったうえで、何を返せばいいのか分からない。「俺も楽しいです」と言えればいいのだろうが、そんなのは慣れた人間の台詞だ。彼女いない歴三十八年の男に要求する水準ではない。


「……それは、よかったです」


ようやくそれだけ言うと、朝比奈さんは少し驚いた顔をして、それからうれしそうに笑った。


たぶん今日初めて、まともな返事をした。


---


右手が、また熱を持った。


第五ゲートの同期窓が近い。


場所は、水族館へ向かう途中の大型歩道橋の脇にある通信・電源複合ボックス。一般客からはただの管理設備にしか見えない。だが俺には、そこに異界側の回路が噛んでいるのが分かる。


水族館までに、あと一つ止める。


「あの」


俺は歩きながら言った。


「少し遠回りしてもいいですか」


朝比奈さんが、もう笑いを堪えもしない顔でこちらを見た。


「またですか?」


「……またです」


「今度は何があるんですか。景色ですか。ベンチですか。日曜の商業施設ですか」


前科を指摘された。


「……歩道橋が」


「歩道橋」


「見晴らしが」


「いいんですか?」


「たぶん」


「またたぶんなんですね」


完全におもちゃにされていた。


だが朝比奈さんは、笑いながらもついてきてくれた。


「分かりました。今日はもう、村田さんの“たぶん”に賭けます」


その言い方の裏に、全部は分かってないけど信じている、が透けて見えた。


賭けるな。そんな危険なものに。


だが、その信頼を裏切れない自分がいることも、もう認めるしかなかった。


---


歩道橋へ向かう道は、水族館のメイン導線から少し外れている。人通りはまだあるが、家族連れが多く、大人二人は少し紛れやすい。


設備ボックスは歩道橋脇の植栽の裏。同期窓は短い。急ぐ必要があった。


ちょうど歩道橋の手前で、走ってきた子どもが朝比奈さんにぶつかりかけた。


「あっ」


朝比奈さんの身体が少しよろける。


反射的に、手が伸びた。


腕を掴む。


柔らかい。


いや違う。そこではない。


「……大丈夫ですか」


「は、はい」


朝比奈さんが固まっていた。こっちも固まっていた。手を掴んだままだった。


人生で初めてデート中に女性の腕を支えた三十八歳社畜は、その後どうすればいいのか知らない。


「……あの」


朝比奈さんが小さく言う。


「村田さん、近いです」


「っ、すみません!」


慌てて手を離した。


子どもは親に回収されて去っていった。世界は平和だった。平和なのに、こっちだけ心拍数が災害級だった。


朝比奈さんは耳を赤くしながら、でも少しだけ笑っていた。


「今日、村田さん、ほんとに余裕ないですね」


「……ないです」


「そこは否定しないんですね」


否定できない。余裕は本当にない。ゲートの残りと心臓の残弾数が同時に減っている。


『女に触れたくらいで動揺するな、村田耕助』


ゼルヴェクトが頭の中で言った。


「うるさい」


また口に出た。


朝比奈さんが目を丸くする。


「えっ、うるさいですか」


「いや、違います! 朝比奈さんに言ったんじゃないです」


そこは、かなりはっきり言えた。


朝比奈さんは少しだけ首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。助かった。


---


歩道橋の階段を上がるところで、俺は一瞬だけ設備ボックス側へ身体を滑らせた。


「朝比奈さん、先に上がっててください」


「え?」


「すぐ行きます」


「またですか?」


「……またです」


もはや信頼を消費して生きている。


朝比奈さんは少し呆れたように笑ったが、「分かりました」と言って階段を上がっていった。その背中に、今日何度目かの感謝と申し訳なさが同時に湧く。


設備ボックスの前に立つ。

右手を当てる。


第五ゲートは外部設備と浅く噛んでいるぶん、停止はしやすいはずだった。


だが、今回は違った。


盤面に触れた瞬間、内側から引っ張られた。


押し返しではない。吸い込まれる感覚だ。手が盤面に吸着され、剥がせなくなる。ゲート自体の抵抗ではない。これはゼルヴェクトの意志だ。魔王が、回路の向こう側から直接干渉している。


「っ……!」


痛い。手のひらが焼けるように熱い。さっきまでの押し返しとは質が違う。拒絶ではなく、捕獲だ。


『五つ目か』


頭の中の声が、低く落ちた。


『本当に最後まで行くつもりらしいな』


「……行くよ」


『あの女のためだけでは、もうないか?』


その問いに、一瞬だけ手が止まりかけた。


朝比奈さんだけのため。最初は、そうだった。

だが今は違う。


歩道橋の上には家族連れがいる。その向こうには水族館へ向かう人の流れがある。朝比奈さん以外にも、今日を普通の日曜だと思っている人間が大勢いる。


「……今さらだろ」


引き込みに逆らって、停止コードを押し込む。


ゼルヴェクトの干渉が回路の中で暴れる。手が引きちぎられそうな感覚がある。だが止める。止めなければ、この街のどこかで門が開く。


第五の点が、消えた。


同時に、右腕に深いしびれが走る。今度は肩甲骨のあたりまで熱と痺れが広がった。危うく膝をつきかけたが、設備ボックスの角を掴んで耐えた。


残り二つ。


あと二つで、全部だ。


だがその二つが、いちばん重い。


---


歩道橋の上へ戻ると、朝比奈さんが手すりのところで待っていた。


風が少し強い。海側から吹いてくる潮の匂いがある。


「遅いです」


「……すみません」


「何してたんですか」


「設備を」


言いかけて止まった。危なかった。疲労で注意力が落ちている。あと二文字で「設備を止めてました」と言うところだった。


「……景色を見てました」


「設備を?」


聞こえていた。


「景色を、です」


「今、設備って言いかけましたよね」


「言ってないです」


「言いかけてました」


「景色です」


「村田さん、今日は景色の見方が特殊ですね」


やめてほしい。正論で殴るのを。


だが朝比奈さんはやっぱり少し笑っていた。呆れているのに、離れない。不思議な人だと思う。


歩道橋の上から、遠くに水族館の建物が見えた。


白い壁面。青い看板。休日の人波。


第七ゲート。

最後の門。

正午直前に開く、最大の起点。


あそこに、最後の一つがある。


だがその前に、もう一つ。

第六ゲートが、水族館の外周ラインに噛んでいる。


ここでようやく、全体像がはっきり見えた。

第六を止めなければ、外周側から侵食が始まる。

第七を止めなければ、館内深部から本起動する。


水族館そのものが、巨大な最後の陣地になっていた。


---


歩道橋を降りる途中で、朝比奈さんが不意に言った。


「私、たぶん」


「……はい」


「もう、憧れとかじゃないです」


足が止まった。


階段の途中。手すりに手をかけたまま、俺は動けなくなった。


「えっ」


声が出た。間抜けな音だった。


朝比奈さんは前を向いたまま、少しだけ耳を赤くしていた。


「……なんでもないです」


「いや、今のは」


「なんでもないです」


「なんでもなくは」


「なんでもないです」


押し切られた。


だが、耳は赤いままだった。


理解するまでに一拍かかった。理解した瞬間、世界の音が少し遠くなった。


右手の熱も、ゲートのことも、ほんの一瞬だけ後ろへ下がった。


こんな言葉、自分の人生で本当に向けられると思っていなかった。


三十八年間、誰からもそんな感情を向けられたことはなかった。学生時代にも、社会人になってからも、自分に対して誰かが恋をするなんて事象は、村田耕助の人生の外側にあるものだった。


それが今、侵略ゲートを五つ止めた直後の歩道橋の階段で来る。


タイミングが最悪すぎて、逆に本物だと分かった。作り話なら、もう少しましな場面を選ぶ。


うれしい、と思った。


思ったのに、同時に怖かった。


そんなものを、自分が受け取っていいのか分からなかった。

こんな状況で。

こんな嘘まみれのまま。

こんな、いつ死ぬか分からない段階で。


心臓が壊れそうだった。右手の痛みとは別方向で、胸のあたりがどうにかなりそうだった。


『面白いな』


ゼルヴェクトが笑う。


『ようやく自覚したか、あの女』


「黙れ」


今度はかなり本気で言ってしまった。


朝比奈さんが足を止めて、こちらを見る。


「……えっと、私、何かしました?」


「いや、違います!」


反射的に言った。


「朝比奈さんに言ったんじゃないです」


「じゃあ、誰にですか」


そこまで聞かれて、口が止まった。


「……独り言です」


朝比奈さんは少しだけ首をかしげて、それから困ったように笑った。


「今日の村田さん、独り言多いですね」


「……すみません」


少し安心したように笑う。


違う意味で安心していないでほしい。こっちは全然安心していない。魔王と恋と侵略ゲートが同時に処理を要求してきている。人間の脳はその三つを並行処理するようにはできていない。


---


歩道橋を降りてから、水族館までの道は思ったより短かった。


海沿いの遊歩道に出ると、潮の匂いがはっきりした。左手に海、右手にレジャー施設が並ぶ道を歩く。日曜の昼前、家族連れとカップルが行き交う。


その中を、俺たちも歩いている。


朝比奈さんは、さっきの台詞のあとも普通に歩いていた。普通に見える。だが歩幅が少しだけ小さくなっていて、ときどきこちらをちらりと見る。その視線の温度が、朝とは明らかに違っていた。


朝は「先輩との休日」だった。


今は、もう違う。


それが分かるから、こっちもまともに歩けない。


水族館の外周通路が近づいたところで、右手がまた脈打った。


第六ゲート。


場所は、水族館の外周通路手前にある管理設備。一般客の動線にかなり近い。空調と排水の複合制御盤が収められた小さな建屋で、「関係者以外立入禁止」のプレートが貼ってある。


同期窓が、開き始めている。


水族館のエントランスが見えてきた。朝比奈さんが少しだけ足を速める。


「もうすぐですね」


「……はい」


その“もうすぐ”が、デートの目的地としてか、侵略の起点としてか、俺の中では二重に響いた。


エントランスの手前で、朝比奈さんがスマホを取り出した。


「あ、ちょっと写真撮ってもいいですか。建物、きれいなので」


チャンスだった。


「どうぞ。俺、先にチケット確認してきます」


「え、私も行きます」


「列、混んでるかもしれないんで。先に見てきます」


「……分かりました」


朝比奈さんがスマホを構えてエントランスの外観に向かう。その背中が離れた瞬間、俺は管理設備の建屋側へ滑り込もうとして――止まった。


右手の熱が、今までと違う。


窓は開いている。

だが浅くない。

第六は、第七の補助ラインとして第七にかなり強く引かれている。


ここで無理に触れば、今の消耗では一気に持っていかれるかもしれない。


『六つ目だ、村田耕助』


ゼルヴェクトの声が、今までで最も低く響いた。


『ここからは、もう戻れんぞ』


建屋の手前で、俺は息を止めた。


第六は、湾岸方面へ向かう通信塔の保守区画。

第七は、水族館近辺の制御系設備。


右手の中には、残り二つ。


第六。

そして第七。


第六の窓はまだ開いていない。だが右手が告げている。あと二十分もすれば来る。


朝比奈さんは、少しうれしそうに笑っている。


「クラゲ、楽しみです」


「……はい」


楽しみにしてほしい。


その笑顔のまま、クラゲを見てほしい。


そのために、俺はあと二つ、止めなければならない。


正午まで、あと少し。


とにかくまずは、第六だ。時間がない。


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