ヒロインの恋、魔王の疑念
第四ゲートを止めたあと、俺たちは少しだけその場に留まった。
少しだけ、のつもりだった。
だが朝比奈さんは、俺の胸元の破れを見てからというもの、完全に「休ませる側」に回っていた。
「動かないでください」
「……はい」
「深呼吸してください」
「……はい」
「右手、震えてます」
「気のせいです」
「気のせいじゃないです」
言い切られた。
しかも今回は、やさしい声ではなく、少し本気で怒っている人の声だった。三十八歳にもなって年下の女性に叱られているのだが、不思議と嫌ではなかった。嫌ではないどころか、少し安心していた。
安心している場合ではないのだが。
右手の中には、まだ三つの点が残っている。
第五、第六、そして第七。
水族館に入る前に一つ。水族館の外周ラインに一つ。最後の一つは正午直前。
時間はまだ残っている。
だが余裕は、もうあまりない。
朝比奈さんがハンカチを押さえながら、じっと俺を見ていた。
「……村田さん」
「はい」
「本当に猫ですか」
来た。
さすがに来る。
猫みたいなのが飛びかかってきて、赤い線が走って、俺が怪我をした。どう並べても話が繋がらない。自分が聞く側なら絶対に信じない。
「……たぶん」
「たぶん」
「暗かったんで」
「暗かったら、赤い線は見えるんですね」
鋭い。
今日いちばん鋭い。
朝比奈ひまりは普段やわらかい。だが、やわらかい人間が本気で確かめに来るときは、むしろ逃げ道が少ない。
「いや、それは……」
「見間違いかもしれないです」
朝比奈さんが、自分でそう言った。
助かった、と思った次の瞬間、続きが来た。
「でも、村田さんが私を庇ったのは、見間違いじゃないです」
逃げ道が、別の方向から塞がれた。
朝比奈さんは少しだけ目を伏せて、それからまたこちらを見た。
「何があったのか、全部は分かりません」
そう言って、ハンカチを押さえる手にほんの少し力を入れる。
「でも、悪いことじゃないっていうのは分かります」
心臓がもたない。侵略ゲートの停止より、この人の言葉のほうが確実に俺を殺す。
何をどう見たら、半地下の通路で訳の分からない現象を起こしている男に対して「悪いことじゃない」と判断できるのか。判断基準を一度説明してほしい。いや、説明されたらされたで、たぶんもっと困る。
「……そういうの、普通は分からないでしょう」
「私、そういうの分かるんです」
「どういうのですか」
「村田さんが、悪い人じゃないってことです」
真正面から来た。
三十八年間、他人から向けられる評価といえば「村田さんが一番詳しいので」とか「村田さんに聞けば分かるかも」くらいだった。技術者としての信頼はあっても、人間としての信頼を正面から言葉にされたことは、たぶん一度もなかった。
それが今、侵略ゲートを四つ止めた直後の、ビル裏の通路で来る。
しかも、その言い方がやけに静かだった。軽口ではない。気休めでもない。本気でそう思っている声だった。
俺が返事に詰まっていると、朝比奈さんはふっと目をそらした。少しだけ耳が赤い。
「……あんまり見ないでください」
「いや、見てないです」
「見てます」
「見てないです」
「村田さん、その言い方のときは見てます」
なんなんだ、この人は。観察精度が異常に高いうえに、俺の言動パターンをだいたい把握している。
しかも自分で言ってから、朝比奈さんは少しだけ照れたみたいに笑った。その笑い方が、第四ゲートのあとに見るにはあまりにも平和で、逆に胸が痛くなった。
こんな顔のまま、正午を迎えさせるわけにはいかない。
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少し落ち着いたところで、朝比奈さんが小さく言った。
「……でも」
「はい」
「さっき、下がって、って言いましたよね」
「言ったかもしれないです」
「言いました」
「……はい」
「ちょっと、かっこよかったです」
息が止まった。
本日何回目か分からない致命傷だった。
「いや」
「はい」
「そういうのじゃないんで」
「ふふ。出ました」
何が“出ました”なのか。たぶん俺の定型句だろうが、本人に自覚がないので言われても困る。
朝比奈さんはハンカチをたたみ直しながら、少しだけ視線を泳がせた。
「私、今日、楽しいです」
その言葉に、右手とは別のところがぎゅっと縮んだ。
楽しい。
デート中に侵略ゲートを四つ止めて、魔王に監視されて、猫ではない何かに襲われて、先輩が怪我をして、その結果が「楽しい」なのだから、この人の感性は時々すごい。
だがもちろん、その“楽しい”の中身はそういうことではない。
村田耕助と一緒にいる今日が、楽しいのだ。
それが分かるから困る。
分かったうえで、何を返せばいいのか分からない。「俺も楽しいです」と言えればいいのだろうが、そんなのは慣れた人間の台詞だ。彼女いない歴三十八年の男に要求する水準ではない。
「……それは、よかったです」
ようやくそれだけ言うと、朝比奈さんは少し驚いた顔をして、それからうれしそうに笑った。
たぶん今日初めて、まともな返事をした。
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右手が、また熱を持った。
第五ゲートの同期窓が近い。
場所は、水族館へ向かう途中の大型歩道橋の脇にある通信・電源複合ボックス。一般客からはただの管理設備にしか見えない。だが俺には、そこに異界側の回路が噛んでいるのが分かる。
水族館までに、あと一つ止める。
「あの」
俺は歩きながら言った。
「少し遠回りしてもいいですか」
朝比奈さんが、もう笑いを堪えもしない顔でこちらを見た。
「またですか?」
「……またです」
「今度は何があるんですか。景色ですか。ベンチですか。日曜の商業施設ですか」
前科を指摘された。
「……歩道橋が」
「歩道橋」
「見晴らしが」
「いいんですか?」
「たぶん」
「またたぶんなんですね」
完全におもちゃにされていた。
だが朝比奈さんは、笑いながらもついてきてくれた。
「分かりました。今日はもう、村田さんの“たぶん”に賭けます」
その言い方の裏に、全部は分かってないけど信じている、が透けて見えた。
賭けるな。そんな危険なものに。
だが、その信頼を裏切れない自分がいることも、もう認めるしかなかった。
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歩道橋へ向かう道は、水族館のメイン導線から少し外れている。人通りはまだあるが、家族連れが多く、大人二人は少し紛れやすい。
設備ボックスは歩道橋脇の植栽の裏。同期窓は短い。急ぐ必要があった。
ちょうど歩道橋の手前で、走ってきた子どもが朝比奈さんにぶつかりかけた。
「あっ」
朝比奈さんの身体が少しよろける。
反射的に、手が伸びた。
腕を掴む。
柔らかい。
いや違う。そこではない。
「……大丈夫ですか」
「は、はい」
朝比奈さんが固まっていた。こっちも固まっていた。手を掴んだままだった。
人生で初めてデート中に女性の腕を支えた三十八歳社畜は、その後どうすればいいのか知らない。
「……あの」
朝比奈さんが小さく言う。
「村田さん、近いです」
「っ、すみません!」
慌てて手を離した。
子どもは親に回収されて去っていった。世界は平和だった。平和なのに、こっちだけ心拍数が災害級だった。
朝比奈さんは耳を赤くしながら、でも少しだけ笑っていた。
「今日、村田さん、ほんとに余裕ないですね」
「……ないです」
「そこは否定しないんですね」
否定できない。余裕は本当にない。ゲートの残りと心臓の残弾数が同時に減っている。
『女に触れたくらいで動揺するな、村田耕助』
ゼルヴェクトが頭の中で言った。
「うるさい」
また口に出た。
朝比奈さんが目を丸くする。
「えっ、うるさいですか」
「いや、違います! 朝比奈さんに言ったんじゃないです」
そこは、かなりはっきり言えた。
朝比奈さんは少しだけ首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。助かった。
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歩道橋の階段を上がるところで、俺は一瞬だけ設備ボックス側へ身体を滑らせた。
「朝比奈さん、先に上がっててください」
「え?」
「すぐ行きます」
「またですか?」
「……またです」
もはや信頼を消費して生きている。
朝比奈さんは少し呆れたように笑ったが、「分かりました」と言って階段を上がっていった。その背中に、今日何度目かの感謝と申し訳なさが同時に湧く。
設備ボックスの前に立つ。
右手を当てる。
第五ゲートは外部設備と浅く噛んでいるぶん、停止はしやすいはずだった。
だが、今回は違った。
盤面に触れた瞬間、内側から引っ張られた。
押し返しではない。吸い込まれる感覚だ。手が盤面に吸着され、剥がせなくなる。ゲート自体の抵抗ではない。これはゼルヴェクトの意志だ。魔王が、回路の向こう側から直接干渉している。
「っ……!」
痛い。手のひらが焼けるように熱い。さっきまでの押し返しとは質が違う。拒絶ではなく、捕獲だ。
『五つ目か』
頭の中の声が、低く落ちた。
『本当に最後まで行くつもりらしいな』
「……行くよ」
『あの女のためだけでは、もうないか?』
その問いに、一瞬だけ手が止まりかけた。
朝比奈さんだけのため。最初は、そうだった。
だが今は違う。
歩道橋の上には家族連れがいる。その向こうには水族館へ向かう人の流れがある。朝比奈さん以外にも、今日を普通の日曜だと思っている人間が大勢いる。
「……今さらだろ」
引き込みに逆らって、停止コードを押し込む。
ゼルヴェクトの干渉が回路の中で暴れる。手が引きちぎられそうな感覚がある。だが止める。止めなければ、この街のどこかで門が開く。
第五の点が、消えた。
同時に、右腕に深いしびれが走る。今度は肩甲骨のあたりまで熱と痺れが広がった。危うく膝をつきかけたが、設備ボックスの角を掴んで耐えた。
残り二つ。
あと二つで、全部だ。
だがその二つが、いちばん重い。
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歩道橋の上へ戻ると、朝比奈さんが手すりのところで待っていた。
風が少し強い。海側から吹いてくる潮の匂いがある。
「遅いです」
「……すみません」
「何してたんですか」
「設備を」
言いかけて止まった。危なかった。疲労で注意力が落ちている。あと二文字で「設備を止めてました」と言うところだった。
「……景色を見てました」
「設備を?」
聞こえていた。
「景色を、です」
「今、設備って言いかけましたよね」
「言ってないです」
「言いかけてました」
「景色です」
「村田さん、今日は景色の見方が特殊ですね」
やめてほしい。正論で殴るのを。
だが朝比奈さんはやっぱり少し笑っていた。呆れているのに、離れない。不思議な人だと思う。
歩道橋の上から、遠くに水族館の建物が見えた。
白い壁面。青い看板。休日の人波。
第七ゲート。
最後の門。
正午直前に開く、最大の起点。
あそこに、最後の一つがある。
だがその前に、もう一つ。
第六ゲートが、水族館の外周ラインに噛んでいる。
ここでようやく、全体像がはっきり見えた。
第六を止めなければ、外周側から侵食が始まる。
第七を止めなければ、館内深部から本起動する。
水族館そのものが、巨大な最後の陣地になっていた。
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歩道橋を降りる途中で、朝比奈さんが不意に言った。
「私、たぶん」
「……はい」
「もう、憧れとかじゃないです」
足が止まった。
階段の途中。手すりに手をかけたまま、俺は動けなくなった。
「えっ」
声が出た。間抜けな音だった。
朝比奈さんは前を向いたまま、少しだけ耳を赤くしていた。
「……なんでもないです」
「いや、今のは」
「なんでもないです」
「なんでもなくは」
「なんでもないです」
押し切られた。
だが、耳は赤いままだった。
理解するまでに一拍かかった。理解した瞬間、世界の音が少し遠くなった。
右手の熱も、ゲートのことも、ほんの一瞬だけ後ろへ下がった。
こんな言葉、自分の人生で本当に向けられると思っていなかった。
三十八年間、誰からもそんな感情を向けられたことはなかった。学生時代にも、社会人になってからも、自分に対して誰かが恋をするなんて事象は、村田耕助の人生の外側にあるものだった。
それが今、侵略ゲートを五つ止めた直後の歩道橋の階段で来る。
タイミングが最悪すぎて、逆に本物だと分かった。作り話なら、もう少しましな場面を選ぶ。
うれしい、と思った。
思ったのに、同時に怖かった。
そんなものを、自分が受け取っていいのか分からなかった。
こんな状況で。
こんな嘘まみれのまま。
こんな、いつ死ぬか分からない段階で。
心臓が壊れそうだった。右手の痛みとは別方向で、胸のあたりがどうにかなりそうだった。
『面白いな』
ゼルヴェクトが笑う。
『ようやく自覚したか、あの女』
「黙れ」
今度はかなり本気で言ってしまった。
朝比奈さんが足を止めて、こちらを見る。
「……えっと、私、何かしました?」
「いや、違います!」
反射的に言った。
「朝比奈さんに言ったんじゃないです」
「じゃあ、誰にですか」
そこまで聞かれて、口が止まった。
「……独り言です」
朝比奈さんは少しだけ首をかしげて、それから困ったように笑った。
「今日の村田さん、独り言多いですね」
「……すみません」
少し安心したように笑う。
違う意味で安心していないでほしい。こっちは全然安心していない。魔王と恋と侵略ゲートが同時に処理を要求してきている。人間の脳はその三つを並行処理するようにはできていない。
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歩道橋を降りてから、水族館までの道は思ったより短かった。
海沿いの遊歩道に出ると、潮の匂いがはっきりした。左手に海、右手にレジャー施設が並ぶ道を歩く。日曜の昼前、家族連れとカップルが行き交う。
その中を、俺たちも歩いている。
朝比奈さんは、さっきの台詞のあとも普通に歩いていた。普通に見える。だが歩幅が少しだけ小さくなっていて、ときどきこちらをちらりと見る。その視線の温度が、朝とは明らかに違っていた。
朝は「先輩との休日」だった。
今は、もう違う。
それが分かるから、こっちもまともに歩けない。
水族館の外周通路が近づいたところで、右手がまた脈打った。
第六ゲート。
場所は、水族館の外周通路手前にある管理設備。一般客の動線にかなり近い。空調と排水の複合制御盤が収められた小さな建屋で、「関係者以外立入禁止」のプレートが貼ってある。
同期窓が、開き始めている。
水族館のエントランスが見えてきた。朝比奈さんが少しだけ足を速める。
「もうすぐですね」
「……はい」
その“もうすぐ”が、デートの目的地としてか、侵略の起点としてか、俺の中では二重に響いた。
エントランスの手前で、朝比奈さんがスマホを取り出した。
「あ、ちょっと写真撮ってもいいですか。建物、きれいなので」
チャンスだった。
「どうぞ。俺、先にチケット確認してきます」
「え、私も行きます」
「列、混んでるかもしれないんで。先に見てきます」
「……分かりました」
朝比奈さんがスマホを構えてエントランスの外観に向かう。その背中が離れた瞬間、俺は管理設備の建屋側へ滑り込もうとして――止まった。
右手の熱が、今までと違う。
窓は開いている。
だが浅くない。
第六は、第七の補助ラインとして第七にかなり強く引かれている。
ここで無理に触れば、今の消耗では一気に持っていかれるかもしれない。
『六つ目だ、村田耕助』
ゼルヴェクトの声が、今までで最も低く響いた。
『ここからは、もう戻れんぞ』
建屋の手前で、俺は息を止めた。
第六は、湾岸方面へ向かう通信塔の保守区画。
第七は、水族館近辺の制御系設備。
右手の中には、残り二つ。
第六。
そして第七。
第六の窓はまだ開いていない。だが右手が告げている。あと二十分もすれば来る。
朝比奈さんは、少しうれしそうに笑っている。
「クラゲ、楽しみです」
「……はい」
楽しみにしてほしい。
その笑顔のまま、クラゲを見てほしい。
そのために、俺はあと二つ、止めなければならない。
正午まで、あと少し。
とにかくまずは、第六だ。時間がない。




