守るつもりなんてなかった
第三ゲートを止めた時点で、もうかなりきつかった。
右手のしびれがまだ残っている。指先の感覚が薄い。紙コップを持つたびに、ちゃんと掴めているのか一瞬分からなくなる。フードコートで朝比奈さんが買ってくれたアイスコーヒーを、こぼさずに飲み切ったことだけが、この三十分間の唯一の偉業だった。
それでも表面上は何でもない顔をして歩かなければならない。
朝比奈さんは、そんな俺をちらちら見ていた。
「村田さん」
「……はい」
「本当に、無理してませんか」
「してないです」
「その返事、今日何回目ですか」
「……覚えてないです」
「私は覚えてます。四回目です」
数えるな。
だが、数えられていて当然かもしれない。こっちは今日一日、不審な挙動しかしていない。飲み物を買いに行って手ぶらで戻り、自販機が休日で混んでいたという意味不明な言い訳をし、寄り道までしている。
朝比奈さんは少しだけ困ったように笑って、それから歩幅をほんの少しゆるめた。
俺に合わせたのだと、すぐに分かった。
そういうことを、この人は呼吸みたいにやる。合わせていると気づかせないように合わせる。
たぶん俺は、そういうところに落ちている。
落ちている場合ではないのだが。
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水族館へ向かう道沿いに、小さなビルが並ぶ通りがあった。
飲食店とオフィスが混在する、都市のどこにでもあるような区画だ。日曜の午前は人通りがまばらで、平日のざわめきが嘘みたいに静かだった。
その一角に、第四ゲートがある。
小規模商業ビルの設備区画。地下ではなく、ビル裏手の半地下スペースに制御盤が収められている。
右手が熱を持ち始めた。第四ゲートの同期窓が近い。
だが今回は、導線をずらす小細工はやめた。さっきまでの俺は「こっち通りませんか」を連発しすぎた。もう次は不自然だ。
それに、身体もきつい。
第三ゲートのあと、右手だけでなく足元にも鈍い重さが来ている。内側から消耗しているのが分かる。
「あの」
俺は少しだけ声を落として言った。
「すみません。少しだけ、座ってもいいですか」
朝比奈さんがすぐにこちらを見た。
「もちろんです。やっぱり無理してましたよね」
「……少しだけ」
「少しだけ、の範囲が村田さんの場合だいぶ広いんですけど」
否定できなかった。
ビル沿いの通路を少し入ったところに、観葉植物とベンチが置かれた小さな休憩スペースがあった。ビル利用者向けの半端な空間で、日曜のこの時間には人がいない。
ベンチに座ると、朝比奈さんは周囲を見回した。
「飲み物、買ってきますね」
「いや、さっき――」
「さっきのはさっきです。座ってて下さい」
有無を言わせない声だった。
「動かないでくださいね」
その言い方が、少しだけやさしくて、少しだけ近かった。
朝比奈さんが通りのほうへ歩いていく。小さな背中が角を曲がって見えなくなる。
その瞬間、俺は立ち上がった。
第四ゲートの設備区画は、この休憩スペースのさらに裏手だ。走るほどの距離ではない。だが窓は待ってくれない。
右手が脈打つ。同期窓が開いている。
ビル裏手の半地下スペースへ降りる階段を下り、金属扉の前に立つ。電子錠の型は見慣れていた。リンクの認識精度を使えば、コードは指先の熱で読める。
扉を開け、制御盤の前に立つ。
右手を盤面に当てた。
押し返しが来る。
第三までよりさらに重い。壁を押しているのではなく、壁自体が生きていて、こちらを跳ね返そうとしている感覚だ。
停止コードを押し込む。位相をずらす。同期を裂きにかかる。
肩まで熱い。右腕全体が焼けるようだった。
そのとき、天井のほうで何かが動いた。
最初はネズミかと思った。だがネズミにしては動きが妙だった。滑るように移動している。足音がない。
換気ダクトの影に、黒いものが貼りついていた。
猫くらいの大きさ。だが猫ではない。脚が多い。目が赤い。輪郭がテレビの受信不良みたいにノイズ混じりに揺れている。
右手は盤面から離せない。離したら窓が閉じる。
その状態で、天井に正体不明の黒い生き物が貼りついている。
最悪だった。
『来たか』
ゼルヴェクトが頭の中で言った。
声にうっすら笑いが混じっていた。
『完全起動前でも、同期窓に小虫の一匹くらいは通せる。本隊は無理だが、監視には足りる』
なるほど。
ご丁寧に説明してくれるのはありがたい。いや、ありがたくない。
黒い小型魔物が、ぬるりと天井から降りた。床に着地した動きが軽すぎる。骨がないみたいだった。
「ケケッ」
笑った。
「旦那ぁ、変なことしてますぜ」
右手は盤面の上にある。停止コードの途中だ。ここで手を離せば、第四ゲートの窓が閉じる。だがこのまま放っておけば、そいつは好きに動く。
しかも朝比奈さんは、すぐ近くで飲み物を買っている。
「……お前はなんだ」
「グレムですぜ。末端ですぜ。下っ端ですぜ。出世の見込みは薄いですぜ」
「知らねえよ」
「旦那も似たようなもんでしょう?」
「うるさいな」
「ケケッ、親近感ですぜ」
こんな状況で妙な連帯感を出すな。
『さて、どうする?』
ゼルヴェクトの声が愉快そうに響く。
『右手を離すか? 門は助かるぞ。だが次の窓はもうない』
「……っ」
『離さないか? なら、その小物は自由だ』
グレムが胸を張った。小さいくせに妙に偉そうだった。
「小物言うなですぜ。傷つくですぜ」
「傷つく心があるなら帰れ」
「無茶言うなですぜ。仕事中ですぜ」
「こっちもだよ」
「旦那、仕事で魔王軍の門壊してるの面白すぎるですぜ」
面白くない。本人はかなり必死だ。
『グレム、いつまで無駄話をしている』
「ゆべしぃ、すまんこってさぁ、魔王さまぁ」
「ゆべしってなんだ」
グレムのアホさに思わず、突っ込んでしまった。
グレムが赤い目を細めた。
「で、どうするですぜ? そのまま動けないんですかぁ?」
「……うるさい」
「ケケッ。じゃあ上のほう、覗いてきますぜ。さっきのいい匂いの人間――」
背筋が凍った。
「――動くな」
低く言った。
グレムが一瞬、動きを止めた。だがすぐに、にやりと笑い直した。
「旦那、怖い顔ですぜ。でも右手、離せないでしょう?」
その通りだった。
グレムが床を蹴った。階段のほうへ向かう。朝比奈さんのいる地上へ。
俺は左手を振った。
何かが出来ると思ったわけではない。ただ、止めなければならなかった。
左手の指先から、何かが走った。
薄い、赤い、線。いや、線というより、空気に一瞬だけ走った亀裂みたいなものだった。
グレムの脚元の床を、それが掠めた。
「ギッ!?」
グレムがつんのめった。脚が一本、動かなくなっている。
「な、なんですぜ今の! 聞いてないですぜ!」
「俺も聞いてないよ」
自分でも何をしたのか分からなかった。
リンクの力が、左手から漏れた。設置でも解除でもない。ただ「止めろ」という意志だけで、一瞬だけ干渉線が弾けたのだ。
『ほう』
ゼルヴェクトが言った。
今度は笑っていなかった。
『左手からも出るか。……そこまで馴染んでいたとはな』
驚いている。
だが、その意味を考える余裕はなかった。右手の停止コードが最終段階に入っている。
グレムが床で体勢を立て直そうともがいている。脚は一本使えないが、残りで動ける。
「旦那、反則ですぜ!」
「お前が先に反則だろ」
「こっちは同期窓の例外運用ですぜ!そういうのは事前報告が必要ですぜぇ!」
「言うか!俺も知らなかったわ」
あと数秒。
右手に全意識を集中する。
位相をずらす。同期を裂く。現実設備は落とさない。門だけを殺す。
盤面の奥で、赤い回路がひび割れる感触がした。
第四の点が、右手の中から消えた。
同時に、右肩から指先まで一気に感覚が飛んだ。
四つ目。負荷が段違いだった。膝が折れかける。左手で壁を掴んで、かろうじて立つ。
だが止まった。
残り三つ。
グレムは床で身体を引きずりながら、こちらを睨んでいた。
「旦那……ほんとに変ですぜ……」
「うるさい」
息を切らしながら言い返す。
そのとき、地上から声が聞こえた。
「村田さん?」
凍った。
朝比奈さんの声だった。
階段の上。近い。
「村田さん、どこですか?」
足音が階段を降り始めている。
まずい。
半地下スペースに、傷ついたグレムがいる。俺は設備盤に手をついて息を切らしている。状況としては最悪だった。
グレムの赤い目が細くなった。
「ケケッ……来ましたぜ」
「黙れ」
低く言ったが、遅かった。
グレムの身体が翻った。残った脚で階段のほうへ跳ぶ。
朝比奈さんのいるほうへ。
思考が消えた。
身体だけが動いた。
右手はまだ痺れている。感覚がほとんどない。足元もふらついている。第四ゲートの代償で、身体のあちこちが悲鳴を上げている。
だが、走れた。
階段を三段飛ばしで駆け上がり、通路の角で朝比奈さんと鉢合わせた。
「朝比奈さん、下がって!」
自分でも驚くくらい通る声だった。
でも。、ダメだ。グレムの方が早い。追い付けない。
と思ったら、グレムは飛んだ瞬間、上にある看板にぶつかった。
ガン!
朝比奈さんが目を見開く。その手に、紙袋とペットボトルが二本。
だがすぐに、グレムが体制を立て直して、背後から飛んでくる。
俺は朝比奈さんの前に出た。
考えるより前に。
計算するより前に。
リスクを計るより前に。
ただ、この人の前に出ていた。
左手を振る。
さっきと同じ干渉線が走った。今度は少しだけ太い。少しだけはっきりした赤い軌跡が、空中を薙いだ。
グレムの身体に、直撃した。
「ギ、ァッ……! 労災ですぜぇぇ――!」
黒い輪郭が崩れる。塵みたいなものが散って、数秒で消えた。
だが、その爪が一瞬だけ届いていた。
俺の胸元を掠めた。シャツの布地が裂ける感触があった。浅いが、熱い痛みが走る。
静寂が落ちた。
半地下への階段の前。日曜の午前の、人通りのない通路。
俺は肩で息をしながら、ゆっくり振り向いた。
朝比奈さんは、二歩ほど後ろで立ち尽くしていた。
目を見開いている。ペットボトルを握ったまま、動けないでいる。
当然だ。
目の前で何が起きたのか、まともに処理できるはずがない。
まずい、と思った。説明がつかない。まったくつかない。
「……朝比奈さん」
声がかすれた。
朝比奈さんは数秒、何も言わなかった。
その目が、俺の後ろの空間を一瞬だけ見た。グレムがいた場所。もう何も残っていない。だが、何かがあったことだけは、この人の目に映ったはずだ。
それから、視線が俺の胸元に落ちた。
爪で裂けたシャツ。そこに滲む浅い血。
朝比奈さんの顔色が変わった。
「村田さん、怪我……!」
そこだった。
黒い何かが消えたことより、空中に赤い線が走ったことより、俺が怪我をしたことのほうが先に来る。
この人は、そういう人だった。
朝比奈さんはすぐに駆け寄ってきた。ペットボトルを紙袋ごと足元に置いて、両手が俺のシャツに伸びる。
「何があったんですか」
「……猫、みたいなのが」
「猫……?」
その声に、微かな疑問が混じった。だが追及はしなかった。
今はそこを問い詰める場面ではないと判断したのだ。
「座ってください。今、見ます」
「いや、大したことないです」
「大したことあります」
言い切られた。
朝比奈さんがバッグからハンカチを取り出して、俺のシャツの破れを確かめる。
その手が、震えていた。
それを見た瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
怒っているのではない。泣きそうなのをこらえている。
この人は、俺が怪我をしたことに対して、泣きそうになっている。
朝比奈さんの手が、ハンカチ越しに傷口を押さえる。
「痛いですか」
「……まあ」
「まあ、じゃないです」
やさしい声で怒られた。
危なかった。けど、グレムがアホで助かった。
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『……なるほど』
ゼルヴェクトが、頭の中で静かに言った。
もう怒鳴っていなかった。
『そこまでか、村田耕助』
返事をしなかった。
だがもう、はっきりしていた。
守るつもりなんて、なかった。
最初は、ただゲートを止めればいいと思っていた。朝比奈さんが巻き込まれる場所を潰せばいい。それだけだった。
ひまりだけ助かればいいとすら、一瞬考えた。魔王の側に入れてくれと、電車の中で頼みかけた。
世界のことなんてどうでもよかった。
なのに今、グレムが朝比奈さんへ飛んだ瞬間、身体が先に動いていた。
考えるより前に。
計算するより前に。
リスクを計るより前に。
ただ、この人の前に出ていた。
守るつもりなんてなかった。
でも、身体はもう決めていた。
朝比奈さんがハンカチを押さえたまま、顔を上げた。
「村田さんって、いつもそうやって一人で無茶するんですか」
「……そんなつもりは」
「あります」
また言い切られた。
そして少しだけ目を伏せて、続ける。
「でも、助けてくれたんですよね」
違う、と言いかけて、やめた。
違わない。
もう違わない部分のほうが、多すぎた。
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『次もやるのだろう?』
ゼルヴェクトが言う。
声は静かだった。静かすぎて、逆に怖い。
『ならば見せてもらおう。貴様が、どこまで壊れていくのかを』
ゼルヴェクトは、楽しんでいるかのように言った。
第四ゲートの代償で、右腕の感覚はまだ半分戻っていない。左手の干渉線も、今のところ制御できているわけではない。次も同じように出せる保証はない。
だが、もう引き返す場所はなくなっていた。
右手の中に残る点は、三つ。
第五の窓は、まだ開いていない。だがもうすぐだ。
朝比奈さんは、まだ俺のシャツを押さえている。
「……ありがとう」
小さく言った。
朝比奈さんが、少しだけ驚いた顔をした。
「……村田さんが、ありがとう、って言ったの初めてかもしれないです」
そうかもしれない。
「どういたしまして」
少し照れたみたいに、朝比奈さんが笑った。
その声が、今日いちばん近かった。
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残り三つ。
水族館まで、あと二つ。
最後の一つは、正午直前。
時間はほとんどない。
だが、もう迷いは前より少なかった。




