デートの裏で爆弾処理
第一ゲートを止めたあとも、デートは普通に続いた。
普通に続いてしまうのが、いちばん怖かった。
朝比奈さんは、水族館までの道すがら見つけたパン屋の話をした。駅前の工事がいつまで経っても終わらない話をした。今日の企画展示はクラゲ特集らしい、と少しうれしそうに言った。
俺はその隣を歩きながら、表面上は相槌を打ち、内側では残り六つのゲート位置と同期窓の時刻を必死に組み直していた。
デートと爆弾処理を同時にやる人間の脳は、たぶんあまり長くは持たない。
「村田さん」
「……はい」
「さっきから、はい、と、そうですね、しか言ってないです」
言われて初めて気づいた。
「……そんなにですか」
「そんなにです。数えました」
数えるな。
朝比奈さんは、責めるでもなく、ただ少し心配そうに笑った。
「やっぱり緊張してます?」
「してないとは言えないです」
「ふふ」
笑われた。
だが、その笑い方がやさしい。三田村ならたぶん「マジでガチガチじゃないですか」と言う。朝比奈ひまりはそういう言い方をしない。ただ笑って、こっちのペースを待ってくれる。
そのやさしさに、少しだけ救われる。
救われたくない場面で、救われる。それが一番困る。
---
右手が、また熱を帯び始めた。
第二ゲートの同期窓が近い。
ゼルヴェクトが教えてくるわけではない。そんな親切な敵であってたまるか。
分かるのは、俺の右手が施工者としての反応を返しているからだ。指の奥にある六つの点のうち、一つだけが急に輪郭を増して、脈打ち始める。第二ゲートだ。
場所は駅ナカの設備系統。改札内の通信制御盤の裏側にある。一般客の動線に近いぶん、雑に動けない。しかも今は朝比奈さんと並んで歩いている。
最悪だった。
「あ、これ、かわいいですね」
朝比奈さんがショーウィンドウの前で足を止めた。
見れば、ペンギンのマグカップが三種類並んでいる。水族館とのコラボ商品らしい。正直、可愛いかどうかを評価する心の余裕はまるでなかったが、足を止める口実としてはありがたかった。
「……そうですね」
「村田さん、今たぶん見てないで言いました」
「見てます」
「じゃあ、どれがかわいいですか」
難問が来た。
三十八歳独身社畜に、ペンギンのマグカップ三種から“かわいいもの”を選ばせるな。
「……左」
適当に答えたら、朝比奈さんが吹き出した。
「一番顔が怖いやつです」
見ていなかったのが即バレした。
そのあいだにも、右手の熱は強まっていく。第二窓は長くない。
「あの」
俺はショーウィンドウから視線を外しつつ言った。
「こっち、通りませんか」
「こっち?」
朝比奈さんが首をかしげる。
指したのは、商業区画の奥へ続く少し細い通路だった。普通に水族館へ行くなら、そこを通る必要はない。かなりない。
「いや、その……たぶん、こっちのほうが空いてるんで」
「水族館、逆方向ですよ?」
「……景色が」
「駅ナカにですか?」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
朝比奈さんは一瞬だけぽかんとしたが、すぐに小さく笑った。
「ふふ。分かりました。村田さんがそう言うなら」
通った。
信じるのか、そこで。
ありがたい。ありがたいが、信頼の置き場所を少し見直してほしい。
細い通路へ入る。
第二ゲートの輪郭が一気に近づいた。
窓が開く。
「……すみません、飲み物買ってきます」
「え、私も――」
「すぐ戻ります」
本気モードの声が出た。
朝比奈さんが少しだけ目を丸くする。
「……分かりました。じゃあ、そこのベンチで待ってます」
「すみません」
俺は自販機のほうへ向かうふりをして、そのまま従業員通路の角を曲がった。
---
第二ゲートは、第一より厄介だった。
改札系統に近いぶん、現実設備との噛み合わせが深い。盤面へ触れた瞬間、押し返される力が第一のときより明らかに重かった。壁を押しているのではなく、壁のほうから押してくるような圧力だ。
「……っ」
右手に逆流する熱が、手首の奥を焼く。同期窓の中で、核が位相固定へ入ろうとしている。
止める。
だが設備は落とせない。
日曜の午前に駅ナカ全体を巻き込む通信障害なんて起こしたら、それこそデートどころではない。
『二つ目か』
ゼルヴェクトの声が低く響いた。
『偶然にしては手際がよい』
「仕事だからな……!」
『仕事で我が門を殺すのか』
「必要な点検だよ」
『その必要を誰が決めた』
口の減らない魔王だった。
だが今は言い返している余裕がない。
停止コードを押し込み、位相をずらす。設備側の負荷を逃がしながら、異界側の核だけを浮かせる。一秒ズレれば、設備系統にノイズが飛ぶ。
盤面の奥で、赤い線が軋んだ。
『第二ゲート、位相不全……』
ゼルヴェクトの声の温度が、はっきり落ちた。
『……貴様』
「文句は後で聞く」
最後に一段深く押し込む。
第二の点が、右手の中から消えた。
二つ目。
残り五つ。
だがその代償みたいに、視界が一瞬揺れた。壁に手をつく。第一のときは額に汗だけだった。第二は視界に来た。一つ止めるごとに、確実に身体が削られている。
『二つ止めたな』
ゼルヴェクトが静かに言う。
『もう誤差では済まんぞ』
「そうだな」
『女のためか』
返事をしなかった。
返事をしなかったことで、たぶん答えたのと同じだった。
『よい。ならば見せてもらおう』
魔王の声が、妙に落ち着いていた。
『お前が、どこまで一人の女に値を置くのかを』
それは脅しではなかった。
もっと嫌なものだった。
観察だった。
---
急いで戻る。
ベンチのところで、朝比奈さんはちゃんと待っていた。少しだけ不安そうに周囲を見ていたが、俺の姿を見つけるとすぐに表情がゆるんだ。
「よかった」
その一言で、さっきまでの焦りが一瞬だけ別の方向へ飛んだ。
「……すみません。売り切れてました」
「自販機がですか?」
「休日なんで」
また最低の言い訳だった。
朝比奈さんは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「村田さん、自販機をなんだと思ってるんですか」
「……便利な箱です」
「それはそうですけど」
笑われた。
助かった。
いや、助かってはいない。
ただ朝比奈ひまりが優しいだけだ。
「でも、ありがとうございます」
「……何がですか」
「気を遣ってくれたのかなって思って」
違う。侵略ゲートを一つ殺して戻ってきた直後である。
だがその言葉の温度に、否定の声が喉の手前で止まった。
「……そういうわけじゃ」
「はいはい」
全然分かっていない顔で、朝比奈さんはうれしそうに笑った。
こっちの行動を、どうしてそこまで都合よく解釈できるのか。
朝比奈ひまりの中の村田耕助は、たぶん実物よりだいぶ良い人だ。
「村田さん、なんだかさっきから大変そうですね」
「……まあ」
「本当に大丈夫ですか?」
大丈夫ではなかった。
侵略ゲートを二つ止めて、魔王に監視されながら、人生初デートを続けている人間が大丈夫なわけがない。
だが、そうは言えない。
「大丈夫です」
言うと、朝比奈さんは少しだけ黙った。
その沈黙が短かったのは、たぶんこの人が優しいからだ。踏み込みたい。でも無理には踏み込まない。朝比奈ひまりという人は、そういう距離の取り方をする。
「じゃあ、信じます」
その一言が、妙に重かった。
俺はうなずくしかなかった。
---
水族館へ向かう電車の中で、右手の中の点がまた動いた。
第三と第四が近い。
どちらも商業施設寄り。
デートの導線と重なる。
最悪は続く。
朝比奈さんは窓の外を見ていた。ときどきこちらを見て、「大丈夫ですか」と目で聞いてくる。口に出さないだけで、かなり見られている。
その横顔を見ながら、俺はひどく場違いなことを考えていた。
あと五つ。
第二ゲートで視界が揺れた。
この先、三つ目、四つ目と進むたびに身体はさらに削られる。
もし。
途中で動けなくなったら。
五つ全部は止められなかったら。
ゲートは全部揃わなくても起動する。五つでも局地的には十分な侵食が起きる。つまり全部止めなければ意味がないのに、全部止められる保証はどこにもない。
そのとき――
ひまりだけでも、助けられないか。
その考えが、頭をよぎった。
一瞬だった。
だが一瞬で十分だった。
『考えたな』
頭の中で、ゼルヴェクトが言った。
どきりとした。
「……何をだよ」
『抜け道をだ』
魔王の声が低く笑う。
『一人だけ助ける道を』
心臓が、嫌な音を立てた。
図星だった。
全部は無理でも、ひまりだけなら。ひまりだけでも助かればいい。そんな考えが、身体の消耗に比例するみたいに頭の中を這い上がってきた。
最低だと思った。
だが完全には否定しきれなかった。
『言ってみろ、村田耕助』
ゼルヴェクトが囁く。
朝比奈さんは窓の外を見ている。こちらの声は聞こえていない。
俺はほんのわずかに口を開いた。
「……ひまりを」
フルネームを電車の中で口にするわけにはいかなかった。だが魔王には十分通じる。
「……ひまりを、お前の側に入れることはできるのか」
言った瞬間、自分で吐き気がした。
何を聞いている。
何を考えている。
守りたい相手を、魔王の側へ?
だが、その問いは一瞬だけ本気だった。
ゼルヴェクトはすぐには答えなかった。
それから、ひどく愉快そうに笑った。
『よい質問だ』
その一言で、背筋が冷えた。
『器として差し出すなら考えてやる』
「……は?」
『人格も記憶も、今のお前が執着している部分は何一つ残らんがな』
目の前が、一瞬白くなった。
「ふざけるな」
気づけば、そう返していた。
声は出ていなかった。唇だけが動いていた。
『ふはは。何を怒る。助かるのだぞ』
違う。
そんなものは、ひまりじゃない。
人格も記憶も消えて、魔王の器になることのどこが助かるだ。笑い方も、心配する声も、「信じます」と言ってくれる目も、全部消えて、それで助かったと言えるわけがない。
今、一瞬でもそんなものを考えた自分に、吐き気がした。
『愚かだな、村田耕助』
魔王が言う。
声から笑いが消えていた。
『一人だけでも残したいのなら、それが最も確実だ。だがお前はそれを選ばん』
一拍置いて、さらに続ける。
『選ばんのなら――全部止めるしかあるまい?』
それは慰めでも激励でもなかった。
追い詰めていた。
お前は七つ全部を止めるか、諦めるかの二択しかないのだと、魔王が冷静に教えている。
ゼルヴェクトとの小声の会話は、電車の走行音や車内アナウンスがのおかげで、幸い朝比奈さんには聞こえずに、何も知らず窓の外を見ている。
その横顔を見た瞬間、さっきまでの自分の発想が、ひどく汚く思えた。
そうじゃない。
こっち側のまま、生きていてほしい。
あの笑い方のまま。
あの心配の仕方のまま。
あの声のまま。
その思いだけが、逆にはっきりした。
---
電車を降りてから、デートは続いた。
朝比奈さんは、少し前より距離が近かった。歩く速さも、言葉の間も、朝よりやわらかくなっている。たぶん本人は無意識なのだろうが、そのたびにこちらの処理能力が削れる。ゲートに削られ、朝比奈さんにも削られる。二方向から同時に摩耗していく人間の寿命は、たぶん短い。
「村田さん」
「……はい」
「さっきから、たまにすごく遠い顔します」
「遠い顔」
「難しいこと考えてるときの顔です。会社でもたまにしてます」
会社でも見られていたのか。
「いや……ちょっと仕事の癖で」
「日曜なのにですか?」
「そういうの抜けないんで」
「ふふ。村田さんらしいです」
らしい、と言われるたびに困る。自分らしさなんて、そんなに人に見えるものなのか。壁紙みたいに生きてきたつもりなのに、この人にだけは柄まで見えているらしい。
---
第三ゲートの同期窓が開き始めたのは、乗り換え駅近くの商業施設に入る少し前だった。
右手が脈打つ。
近い。
俺が案内板を見上げるふりをしていると。
「何か気になるお店ありました?」
朝比奈さんが何気なく聞いてきた。
「ええ……ちょっとだけ、そうだ、こっち通りませんか」
「え、でも水族館ってあっちですよね?」
「少し早いんで。中、見ていくのも」
「途中でですか?」
「……日曜の商業施設、面白いかなって」
自分で言っていて意味が分からなかった。
朝比奈さんは一瞬だけぽかんとしたが、やがて笑った。
「村田さん、今日ちょっと変です」
「知ってます」
「自覚あるんですね」
「かなり」
「じゃあ、行きましょうか。面白い日曜の商業施設」
なんで通るんだ。
いや助かるけど。
商業施設の中は、家族連れとカップルで混んでいた。
第三ゲートはフードコート裏。
この人混みの中で自然に離脱する方法を考えていると、朝比奈さんが言った。
「ちょっと飲み物買ってきますね」
「では、お願いします」
朝比奈さんが列へ向かうのを見届けた。
今しかない。俺は反対側の通路へ滑り込んだ。
だが今回は、そこからが楽ではなかった。
フードコート裏の設備通路へ入る直前で、清掃スタッフがワゴンを押して出てきたのである。
「失礼しまーす」
心臓が止まりかけた。
俺は咄嗟に壁際へ寄って、スマホを見ているふりをした。
休日の商業施設の従業員通路前で、三十八歳の男が一人スマホを見ている。かなり不審だが、走ってくる男よりはましだ。
ワゴンが通り過ぎる。
まだ入れない。
右手の熱が強くなる。
同期窓が縮んでいく。
ようやく通路へ滑り込んで、第三ゲートの制御核へ辿り着いたときには、もう窓の後半だった。
右手を盤面に当てる。
押し返しが来る。
第二より、さらに重い。
停止コードを押し込む。
位相をずらす。
同期を外す。
そのとき、スマホが震えた。
朝比奈さんからの通知だった。
> どこですか?
最悪だった。
右手は盤面から離せない。
離したら窓が閉じる。
だが返さなければ、朝比奈さんが列から戻って探しに来るかもしれない。
左手でスマホを取り出して、震える指で打つ。
> 少し離れました
> すぐ戻ります
最低限だけ送って、また盤面へ意識を戻す。
第三ゲートの赤い線が軋む。
手首から先の感覚が、一瞬飛んだ。
指があるのかないのか分からなくなる。
「……っ、切れ……!」
最後に強く押し込む。
盤面の奥で、何かが断ち切れる感触がした。
第三の点が消えた。
残り四つ。
だが代償みたいに、右手の感覚が数秒戻らなかった。
指がしびれたまま動かない。
壁に肩をつけて、深く息を吸う。
一つずつ、確実に削られている。
---
戻ると、朝比奈さんはトレーに飲み物を二つ載せて待っていた。
少し不安そうだった顔が、俺を見るとすぐにゆるむ。
「よかった……」
その一言で、焦りが一瞬だけ別の方向へ飛んだ。
「……すみません」
「大丈夫ですか? ちょっと顔色悪いです」
悪くないわけがない。
だがここで倒れるわけにもいかなかった。
「少し、人が多くて」
「じゃあ座りましょう。休んだほうがいいです」
そう言って、朝比奈さんは俺の分の飲み物を渡してくれた。
「ありがとうございます」
「いえ」
少し照れたみたいに笑う。
その笑顔を見て、さっきの電車の中の自分の考えがもう一度胸を刺した。
こんな人を、魔王の側へ渡せるわけがない。
---
少し休んだあと、朝比奈さんが言った。
「そろそろ行きましょうか。水族館、予約の時間もありますし」
水族館。
第七ゲート。
最後のゲート。
正午直前に窓が開く、最大の爆弾。
「……はい」
立ち上がる。
右手がまだしびれていた。だが歩けないほどではない。
第四ゲートの窓がもうすぐ開く。
水族館へ向かう導線上に第四と第五がある。
途中で二つ、止めなければならない。
しかも、ゼルヴェクトはもう黙っていなかった。
『三つ止めたな、村田耕助』
低い声が響く。
『貴様、本気で我を裏切るつもりか』
「……まだ裏切りとは言ってない」
『三つ“も”止めておいて、よく言う』
その声には苛立ちがあった。
だがそれ以上に、計算があった。
今の段階で俺を切れば、残りゲートの再同期と現地制御に支障が出る。だからまだ切らない。だが泳がせる時間にも限度はある。
『次で決める』
魔王が言った。
『次も貴様が我が門に触れるなら、監視だけでは済まさん』
それは予告ではなく、通告だった。
「……好きにしろ」
返す声は震えなかった。
震えなかったのは、覚悟ができたからではない。もう震える余裕がないだけだった。
第四には、まだ触れていない。
右手の中に残る点は、あと四つ。
朝比奈さんは隣で、何も知らずにストローの袋を小さく折りたたんでいる。几帳面に、丁寧に、ゴミにならないように。こういう仕草を、この人は息を吸うようにやる。
俺はその横顔を見て、静かに息を吐いた。
もう戻れない。
戻れないが、進むしかない。
次の窓は十一時台前半。
あと三十分もない。
残り四つ。
デートは、まだ半分も終わっていなかった。




