人生初デートと第一ゲート
日曜の朝、俺は六時に目が覚めた。
アラームより二時間も早い。
ふだんの休日なら、昼近くまで死体みたいに寝ている人間である。それが今日に限って六時に目が覚め、しかも二度寝ができない。
理由は二つあった。
一つは、右手が熱いこと。
昨日までの熱とは違う。設置のときのような、じわじわ流れ込む低温ではない。もっと鋭い。細い針を何本も皮膚の下に差し込まれたみたいな、落ち着きのない熱だ。手のひらから手首、肘の先まで、間断なく何かが走っている。
起動鍵の配布が始まったのだと、触れなくても分かった。
ゼルヴェクトは昨夜言っていた。
日曜の朝六時、全ゲートへ起動鍵を流し始める。
ただし、その時点ではまだ完全起動ではない。各ゲートは現実設備との噛み合わせに応じて、順番に同期窓を開く。
その窓のあいだだけ、施工者権限で安全停止できる。
逆に言えば、それ以外の時間に無理やり切れば、先に現実設備が壊れる。
駅の制御盤。
商業施設の電源系。
水族館の空調と循環設備。
そこを雑に落とせば、異界より先に人間側で事故が起きる。
しかも七つの門は、全部揃わないと動かないわけではない。
七つあれば東京全域を一気に侵食できる。
六つでもかなり危険だ。
五つでも局地的には十分すぎる。
数が減るほど、範囲と安定性と流入量が落ちるだけで、一つ消したら全停止という甘い構造ではなかった。
インフラ屋として、嫌になるほど筋が通っていた。
つまり今日はもう、昨日までとは違う。
設置ではない。
停止だ。
しかも、窓が開くタイミングに合わせて現地で一つずつ。
理由のもう一つは、言うのも情けないが、朝比奈ひまりと十時に駅前改札で待ち合わせているということだった。
人生で初めてのデートである。
三十八年間、誰にも誘われず、誰を誘うこともなく、休日といえば布団とコンビニとチェーン店の飯屋くらいで完結していた人間が、突然デートをするのである。眠れなくもなる。
しかもその行き先には、自分が仕込んだ侵略ゲートがある。
起動を始めた東京侵略計画と、人生初のデート。
この二つを同じ日に処理させる運命の采配は、どう考えても正気ではない。
起き上がって、服を選ぶ。
ここで重大な問題が発生した。
私服がない。
正確に言えば、ないわけではない。あるにはある。だが、三十八歳独身社畜が休日に異性と出かけることを想定して所持している服ではなかった。
くたびれたシャツ。
くたびれたTシャツ。
くたびれたチノパン。
色の判断を放棄したパーカー。
人生がそのまま繊維になって畳まれているみたいだった。
「……どうしろっていうんだよ」
『情けないな、村田耕助』
頭の中でゼルヴェクトが言った。
「うるさい」
『人間の雌と会うのだろう。その程度の装いも整えられぬか』
「魔王が服装に口出すな」
『我ならば、もっと王にふさわしい装いをする』
「比較対象がおかしいんだよ」
結局、いちばん無難そうな紺のシャツと黒のパンツを選んだ。
無難、というのは便利な言葉で、大抵は何の加点もないことを意味する。
鏡の前に立つ。
三十八歳。寝不足。少し猫背。
平日のスーツ姿よりはましだが、だからといって休日デート仕様かと言われるとかなり苦しい。
「……帰りたい」
『まだ始まってもいない』
「始まる前がいちばん帰りたいんだよ……」
それでも家を出る。
駅へ向かう途中、右手の熱が少しずつ輪郭を帯び始めた。七つの点が、指の奥で脈打っている。
だが、その全部が今すぐ止められるわけではない。
第一ゲートの同期窓は十時台前半。
第二は十時台後半。
第三と第四は十一時台。
水族館近辺の第七ゲートが、正午直前。
頭の中に、自分で施工した工程表みたいにそれが並んでいた。
窓が開くまで待つしかない。
そしてその最初の窓が、よりによって朝比奈さんとのデート導線のすぐ近くにある。
最悪の段取りだった。
だがインフラ屋は、最悪の段取りの中で最善の手順を組むのが仕事だ。
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改札前には、すでに朝比奈さんがいた。
十時の五分前。
薄いベージュのトップスに、ネイビーのスカート。小さなバッグを片手に持っている。派手ではない。だが、人混みの中で周囲が少しずつ背景になっていく感じがした。
会社で見る朝比奈さんしか知らなかった。
休日の朝比奈ひまりは、反則だった。
しかも、こっちに気づいて笑った。
「村田さん」
それだけで心臓が限界を超えた。
「……おはようございます」
ひどい声が出た。
朝比奈さんは少し首をかしげて、それからふっと笑った。
「おはようございます。来てくれたんですね」
「いや、行くって言ったんで」
「はい。だから、うれしいです」
そういうことを真正面から言うな。
こっちはまだ朝の十時で、すでに致死量に達している。
朝比奈さんの髪は、会社にいるときより少しだけ柔らかく整って見えた。たぶんそれが普通の休日の装いなのだろうが、平日しか知らない人間にとっては情報量が多すぎた。
「どうしました?」
「……いや、なんでもないです」
「顔、赤いです」
「気のせいです」
「そういうときの村田さん、だいたい気のせいじゃないです」
観察精度が高すぎる。
改札を抜け、並んで歩き出す。
朝比奈さんはちゃんと話してくれていた。天気のこと。混み具合のこと。水族館の企画展示のこと。
問題は俺のほうだった。
「……はい」
「そうですね」
「なるほど」
返事が三種類しか出てこない。
三田村が見たら、たぶん「会話が死んでる」と言うだろう。だが仕方がない。人生初デートであるうえに、目的地には起動待機中の第七ノードがある。まともな会話ができるほうがおかしい。
『無様だな』
ゼルヴェクトが頭の中で言う。
「黙れ」
思わず口に出た。
朝比奈さんがびくっとして足を止める。
「え?」
しまった、と思った。
「いや、その……独り言です」
「独り言」
「……ちょっと、緊張してて」
言ってから死にたくなった。
何を正直に言っているのか。
だが朝比奈さんは、少し目を丸くしたあと、やわらかく笑った。
「私もです」
その一言が、思いのほか深く刺さった。
私も。
つまりこの人も、今日のことをちゃんと特別だと思っている。
俺だけが一方的に処理落ちしているわけではない。
それがうれしくて、同時にもっと緊張した。
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駅を出たところで、右手が強く脈打った。
びく、と肩が揺れる。
七つの点のうち、一つが急に輪郭を増す。
近い。
第一ゲートの同期窓が開き始めたのだ。
第一ノード。
最初に仕込んだ複合ビル地下の制御設備。
ここから歩いて五分もかからない。
『最初の門だ』
ゼルヴェクトの声が低く響いた。
『同期窓が開く。位相が固定へ入るぞ』
息が詰まった。
今ならまだ止められる。
だが、今しか安全には止められない。
つまり、朝比奈さんを連れたまま、どうにかして第一ゲートを殺さないといけない。しかも怪しまれずに。
頭の中でルートを組む。
この先の複合ビル一階に案内カウンターがある。
人通りがある。
待たせるならそこだ。
口実は――
「あっ」
朝比奈さんが小さく声を上げた。
「どうしました」
「スマホのストラップ、どこかで引っかけたかも……」
朝比奈さんがバッグの脇を見ている。細いチャームが見当たらないらしい。
その瞬間、頭の中で回路が繋がった。探しに行く口実ができた。
「……見てきます」
「え?」
「たぶん改札の近くか、さっきの道だと思うんで。朝比奈さん、あそこの案内カウンターの近くで待っててください」
「私も一緒に――」
「すぐ戻ります」
自分でも驚くくらい、声がはっきり出ていた。
本気モードに入ると、急に言葉が整理される。
それが今、自分でも分かった。
朝比奈さんは少し戸惑った顔をしたが、やがて小さくうなずいた。
「……分かりました。気をつけて」
「すみません。すぐ」
言い終わる前に、俺は踵を返していた。
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走る。
休日の街を、人混みを縫うように走る。
右手が熱い。
近づくほど、第一ノードの輪郭が鮮明になる。
複合ビルの搬入口。
関係者通路。
日曜の朝は人がいない。
照明が半分だけ点いた通路を抜け、地下の制御盤の前に立つ。
三日前に、ここへ門を仕込んだ。
今度は、それを殺しに来た。
右手を盤面に当てる。
設置のときは、手を添えるだけでよかった。
解除は違う。
押し返される。
盤面の向こう側から、明確な抵抗が来る。起動鍵の入ったゲートは、もう眠っていない。こちらの手を拒むように回路が脈打ち、位相を維持しようとする。
「……接続、切る」
熱が逆向きに流れた。
起動した核に対して、施工者権限で停止コードをねじ込む感覚。回路が軋む。赤い線が悲鳴を上げる。位相をずらし、同期を破綻させ、現実設備を壊さずに門だけを殺す。
やることは繊細なのに、時間はない。
額に汗が浮いた。
『やる気か、村田耕助』
ゼルヴェクトの声が響く。
「うるさい……!」
『第一窓でいきなりそれか』
声の温度が落ちていた。
最初の違和感を記録する管理者の声だった。
「その一つの上に、朝比奈さんが来るんだよ……!」
口に出ていた。
はっきりと。
理由を。
沈黙が一拍だけ落ちた。
それから、ゼルヴェクトが低く言う。
『……なるほど』
その声が、妙に冷たかった。
『女か、村田耕助』
「黙れ」
『施工者権限で同期を殺しているな。よい、覚えたぞ』
まずい、と思った。
今の一言で、ゼルヴェクトはかなりのところまで掴んだ。
だがもう遅い。
止めないと、朝比奈さんがこの真上を通る。
最後に強く押し込む。
盤面の奥で、回路がひび割れる感触がした。赤い輪郭が一瞬明滅してから暗くなる。
『第一ゲート、位相断裂』
右手の中の七つの点が、六つに減った。
一つだけ、消えた。
止まった。
短い沈黙のあと、ゼルヴェクトが言った。
『一つ潰したところで全体は止まらん。七つが六つになったところで、侵食範囲が狭まるだけだ。』
その声は怒鳴り声ではなかった。
むしろ静かすぎて嫌だった。
『だが、もう偶然では済まさん。次もやれば、対処する』
それは脅しというより、通告だった。
「……好きにしろ」
息を切らしながらそう返して、盤面から手を離す。
腕が重い。
設置のときにはなかった疲労が、肩から指先まで残っている。
解除は設置より身体に来る。
一つでこれなら、残り六つは相当きつい。
しかも魔王は、もう見ている。
だが今は、それより先にやることがある。
朝比奈さんを待たせている。
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地上へ駆け戻る。
日曜の人混みに紛れ、元の場所へ急ぐ。
案内カウンターの近くで、朝比奈さんはちゃんと待っていた。
少し不安そうな顔をしていたが、俺の姿を見つけるとすぐに表情がゆるんだ。
「よかった……」
その一言で、さっきまでの焦りが一瞬だけ別の方向へ飛んだ。
「……すみません。見つかりませんでした」
「いえ、ありがとうございます」
朝比奈さんはそう言って、それから俺の顔をじっと見た。
「走ってくれたんですか?」
「え」
「息、上がってます」
走った理由は全く違う。侵略ゲートを一つ殺して戻ってきた直後である。だが朝比奈さんにとっては、ストラップを探すために走ってくれた先輩でしかない。
「そんなに急いでくれなくてもよかったのに」
「いや、待たせるのは……」
「……ありがとうございます」
朝比奈さんの声が少し低く、やわらかくなった。
そしてその目が、さっきまでとは少し違う光を帯びた。何かを確認したような、何かを決めたような目だった。
「村田さん、やっぱり優しいですね」
違う。
そう言いかけて、やめた。
違わない部分があるのが厄介だった。
「……そういうのじゃないんで」
「ふふ」
朝比奈さんはうれしそうに笑った。
その笑顔のすぐ下で、第一ゲートの回路はもう死んでいる。
そのことを、彼女は知らない。
俺は自分の右手を見た。
熱はまだ残っている。
だが、確かに一つ分だけ軽くなっていた。
残り六つ。
しかも魔王は、もう疑っている。
デートは、まだ始まったばかりだった。




