休日出勤と、それから
人間には、取り返しがつかなくなったあとで、ようやく大事なものが手に入る瞬間がある。
そういう瞬間は、たいてい最悪のタイミングでやって来る。
その土曜、俺は休日出勤していた。
ほんとうにどうかしている。
右手が熱かった。
昨日までの熱とは少し違う。火傷みたいな鋭さではなく、皮膚の下をゆっくり流れる低温の電流じみた熱だ。手のひらから手首、今日は肘の少し手前まで、うっすらと温度が続いている。
布団の中で右手を見た。見た目は何も変わらない。三十八年間、キーボードと配線くらいにしかまともに使ってこなかった平凡な手だ。
その手で、今日は残り三つの門を繋ぐ。
残りは三つ。
今日で終わる。
ゼルヴェクトは昨夜、当たり前みたいにそう言った。
前日までに七つ揃えればいい。
決行は明日、日曜の正午。
そして、昨日まで伏せていた話もした。
起動鍵は明日の朝に流す。
それまではゲートは設置済みの“空回路”にすぎない。
だが一度起動鍵が入れば、現実設備と異界側の核が噛み合い、自律同期が始まる。
つまり。
今日のうちに壊して回ればいい、という話ではないらしい。
前日までのゲートは、まだ完全に閉じてもいない代わりに、完全にも殺せない。下手に触れば再同期される。強引に壊せば、偽装先の現実設備が先に壊れる。駅の制御盤、商業施設の電源系統、水族館の空調制御。そんなものを土曜のうちに雑に止めれば、異界より先に人間側で事故が起きる。
しかも、起動鍵が入るまでは停止コードが噛まない。
施工者権限で触れるのは、現地の点検モードだけ。
つまり、明日になって起動鍵が流れたあと、現地で一つずつ止めるしかない。
インフラ屋としては、嫌になるほど筋が通っていた。
「……面倒だな」
起き抜けにそう呟いて、俺は布団から出た。
人間は、東京侵略の前日でも休日出勤する。
ほんとうに救いがない。
会社に着くと、土曜のオフィスは平日よりずっと静かだった。
照明は一部しか点いていない。人もまばらだ。平日にはうるさい複合機も、今日は妙におとなしい。出勤している人間はみんな、それなりの理由があって来ている顔をしていた。つまり、余計な会話をしたがらない顔だ。
その空気はありがたかった。
だが、フロアへ入ってすぐに、そのありがたさの半分くらいは消えた。
朝比奈さんがいた。
企画部の島で、ノートPCを開いている。薄いグレーのカーディガンに、少しラフな休日出勤仕様の服装。平日より少し力の抜けた格好なのに、なぜか平日より目に入る。
俺は一瞬だけ立ち止まりそうになって、どうにかそのまま自席まで歩いた。
休日出勤している後輩を見て心拍が乱れる三十八歳は、たぶんあまり褒められた生き物ではない。
『落ち着かぬな』
頭の中でゼルヴェクトが言う。
「朝からうるさい」
『人間の雌がいるだけで動揺するとは、ずいぶん安い器だ』
「黙れ。今日は忙しいんだろ」
『その通りだ。無駄な感情に時間を使うな』
魔王に感情整理を指導される筋合いはない。
始業扱いになる時間を少し過ぎたころ、モニターの隅に赤い点が三つ浮かんだ。
残り三つ。
『昼までに一つ、夕方に二つ』
ゼルヴェクトが告げる。
「平日と同じこと言ってるな」
『休日出勤の人間は数が少ない。むしろ動きやすい』
その理屈にも、腹が立つほど納得できた。
最初の第五ノードは、会社から徒歩圏内の複合商業ビル地下。
昼前、フロアの人間が一度ばらけたタイミングで、俺は席を外した。
休日の商業ビルは、平日と違う静けさがある。開店前の搬入口は半分眠っているみたいだった。関係者通路の照明だけが淡くついていて、人の気配は薄い。
仕事で見慣れた通路を抜け、制御設備の裏へ回る。
右手を盤面に当てる。
熱が流れ込む。
今ではもう、接続が始まる瞬間が分かる。盤面の奥で、目に見えない鍵穴へ鍵が入るみたいに、回路がかちりと噛み合う感覚がある。
『第五ノード、接続完了』
五つ。
あと二つ。
会社へ戻ると、朝比奈さんがちょうど給湯室の前にいた。紙コップを持って、少し驚いたようにこっちを見る。
「村田さん」
「……お疲れさまです」
「今日も来てたんですね」
「朝比奈さんこそ」
「私は月曜の会議の資料が終わらなくて」
そう言って、小さく笑う。
休日出勤のフロアでその笑顔は反則だった。平日の“仕事の顔”から少しだけ離れた表情は、見慣れていないぶん余計に効く。
「村田さん、今日ちょっと顔色悪いです」
「いつもです」
「それ、開き直っていいことじゃないです」
言い返せず、紙コップのコーヒーに視線を落とす。
朝比奈さんは少しだけ首をかしげた。
「また無理してませんか」
「してないです」
「それ、だいたい嘘です」
休日出勤の静かな給湯室で、そういうことを柔らかく言われるのは困る。こっちは数十分前に侵略ゲートを一つ増やしてきたばかりだというのに、そんな顔で心配されると、何をどう返していいのか分からない。
「……大丈夫です」
ようやくそれだけ言うと、朝比奈さんは少しだけ安心した顔をした。
「じゃあ、よかったです」
よくない。
だがその言葉は、やっぱり胸に残った。
午後は仕事をしながら、残り二つの設置タイミングを計った。
休日出勤日は、静かなぶん人の動きが読みやすい。誰が何時に席を外し、誰が何時に帰るかが平日よりはっきり見える。認識精度が上がった今の俺には、それがなおさら分かりすぎた。
それは便利で、最悪だった。
夕方、フロアの人数がさらに減ったころ、ゼルヴェクトが言った。
『行くぞ』
第六ノード候補は、湾岸方面へ向かう通信塔の保守区画だった。
土曜の夕方の街は、平日よりも少しだけ輪郭が柔らかい。スーツ姿より私服が多く、ビル風の音もどこか軽い。そんな中で、俺だけが仕事の延長みたいな顔をして湾岸へ向かっている。
通信塔の足元の保守設備に入り、盤面へ触れる。
熱。
接続。
脈動。
『第六ノード、接続完了』
これで残りは一つ。
その瞬間、六つの点が頭の中でほとんど円を描いた。最後の一点を待つ巨大な環。東京の地下に、別の回路都市があと一歩で閉じる。
足が少し重くなった。
疲労だけではない。六つ繋がったことで、自分の中を通る“何か”の量が増えたのが分かる。右腕の熱は、もう肘の少し上まで来ていた。
『止まるな』
ゼルヴェクトが言う。
「……止まってない」
『迷いが出ている』
「出てない」
『声が遅い』
図星だったので腹が立った。
最後の第七ノード候補は、水族館近辺の制御系設備だった。
夕方から夜へ変わる湾岸エリアは、水と風の音がよく通る。昼間は家族連れやカップルでにぎわう水族館の周辺も、この時間になると急に広く見えた。
そこへ門を仕込む。
最低だ、と少し思った。
少し、でしかないのがもっと最低だった。
保守用の制御盤の前で、俺は一瞬だけ動けなかった。
今日で終わる。
これを入れたら、もう七つ全部だ。
明日の朝、起動鍵が流れ、正午に門が開く。
「……これで終わりか」
『そうだ』
「明日、正午」
『そうだ』
「東京は開く」
『そうだ』
短い問答だった。
だが次の瞬間には、もう右手を盤面に当てていた。
熱が、今まででいちばん強く流れ込む。
赤い線が一気に走る。六つのノードが最後の一点を中心に噛み合い、巨大な環が閉じた。都市の地下を走る通信網、駅の制御盤、商業ビルの設備室、通信塔の保守区画、そして水族館。全部が一本の回路として結び直される。
見えた。
東京の下に、もうひとつ別の東京が、赤い輪郭で立ち上がるのが見えた。
『第七ノード、接続完了』
頭の中で、ゼルヴェクトの声が深く響いた。
『これでよい、村田耕助。見事だ』
その瞬間、右手の熱がすっと引いた。
七つ、全部。
全部、終わった。
俺は盤面から手を離し、その場に立ち尽くした。
達成感はなかった。
あったのは、底の見えない静けさだけだった。
『明朝、起動鍵を流す』
ゼルヴェクトが告げる。
『そこから先は門が自律同期に入る。各地の核が噛み合い、正午には完全起動だ』
「……」
『明日、止めようと思うなら止めてみるがいい』
声が少しだけ愉快そうだった。
『ただし前夜までとは違う。起動鍵の入った門は、現地でしか切れん。お前が自ら施工したからこそ、お前の手でしか安全には殺せん』
そこまで言っておいて、さらにゼルヴェクトは続けた。
『遠隔で雑に壊せば、先に現実設備が落ちる。駅でも、水族館でもな』
「分かってるよ……」
嫌になるほど、分かっていた。
壊すなら、明日、起動したあとに現地で一つずつ止めるしかない。
一瞬、迷いが生じた。いいのか?でも、もう遅い。今さら後戻りはできない。
『今夜は休め。明日に備えろ』
そこだけ聞くと、普通の上司みたいで腹が立つ。
俺は水族館の裏手を離れ、会社のほうへ戻った。
全部、終わった。
明日になれば門が開く。東京が壊れる。俺は魔王の側に立つ。
そのはずだった。
会社の前に戻るころには、外はすっかり夜だった。休日出勤の人間もかなり減っている。エントランス前の空気は静かで、ガラス越しのロビーだけが明るかった。
そのとき、背後から声がした。
「村田さん」
心臓が、今日いちばん変な跳ね方をした。
振り向くと、朝比奈ひまりが立っていた。
仕事帰りらしく、肩にバッグを掛けている。社内にいたときより少しだけ柔らかい顔をしていて、でもどこか緊張していた。
「……朝比奈さん」
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
会話がそれで終わりそうになる。
三十八歳独身社畜と二十五歳の後輩が、休日出勤後の会社前で自然に会話を続ける難易度は高い。
朝比奈さんは指先でバッグの持ち手を少しいじって、それから顔を上げた。
「今、帰りですか」
「まあ」
「よかった」
今日二回目の“よかった”だった。
そのたびに、意味を深読みして心臓に悪い影響が出るのでやめてほしい。
朝比奈さんは少しだけ視線を落とし、それから決めたみたいに言った。
「少しだけ、お時間いいですか」
「……はい」
ロビー脇の小さな打ち合わせスペースは、土曜の夜には誰も使っていなかった。ガラス張りで完全な密室ではないが、立ち話をするよりはましだ。向かい合って座ると、それだけで妙に落ち着かない。
朝比奈さんは一度深呼吸した。
「私、前から村田さんにちゃんとお礼したくて」
「いや、そういうのは――」
「それだけじゃないです」
言葉を遮られて、俺は黙った。
朝比奈さんは、まっすぐに俺を見た。
「ずっと、助けてもらってました」
何も言えなかった。
「最初はたまたまだと思ってたんです。でも、何回もあって」
「……」
「村田さん、言わないじゃないですか。自分がやったこと」
その通りだった。
言うつもりもなかった。
たぶん、これからも言わない。
「でも、私には分かるんです」
それは、たぶん勘違いでもあったし、真実でもあった。
朝比奈さんが見てきたのは、サーバーの裏で黙って仕事をする先輩の姿だ。侵略ゲートを仕込む魔王軍幹部候補の姿ではない。
だがそれでも、「分かるんです」という言葉は、三十八年の人生で誰にも言われたことがなかった。
朝比奈さんは少しだけ笑って、でもすぐに真面目な顔へ戻った。
「私、村田さんみたいな人のこと、ちゃんと見てる人がいるって伝えたかったんです」
胸の奥で、何かが鳴った。
「それで、その……もし嫌じゃなかったら」
ここまで来ると、もう分かる。
朝比奈さんの耳が少し赤い。
「明日、、その、、私と、どこか行きませんか」
時間が止まった気がした。
明日。
私と。
どこか行きませんか。
三十八年間、俺に向かってそんな言葉を言った人間はいなかった。
「……え」
ひどい声が出た。
それでも朝比奈さんは逃げなかった。
「あの、水族館、行きたくて」
水族館。
朝比奈さんは、そんな俺の顔色を緊張のせいだと思ったのだろう。少し慌てたように言う。
「あ、あの、忙しいですよね。すみません。嫌なら全然――」
「嫌じゃないです」
ほとんど反射だった。
嫌なわけがない。人生で初めて、俺を誘ってくれた人だ。しかも、朝比奈ひまりだ。
「……行きます」
言った瞬間、胸が一気に熱くなった。
朝比奈さんの顔が、ぱっと明るくなる。
「ほんとですか」
「……はい」
「よかった」
その“よかった”は、今までで一番近い温度だった。
朝比奈さんはうれしそうに笑って、それから小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。明日、楽しみにしてます」
その言葉が刺さった瞬間、別の意味で息が止まった。
明日。
楽しみにしている。
水族館。
起動鍵。
正午。
門が開く。
待て。
水族館。
今日、最後に仕込んだ第七ノード。
明日、起動鍵が入る場所。
正午に門が開く場所の一つ。
血の気が引いた。
頭の中で、今まで静かだったものが一気に動き出す。
明日、侵略が始まる。
水族館には第七ノードがある。
他の六つも、もう全部起動待ちだ。
朝比奈ひまりは、俺と一緒に、そのど真ん中へ行こうとしている。
つまり――
「……待って」
思わず口に出ていた。
「え?」
朝比奈さんがきょとんとする。
俺は顔から血の気が引いていくのを感じながら、必死で表情を戻した。
「いや……なんでもないです。ちょっと、嬉しくて」
大嘘だった。
いや、嬉しいのは本当だ。
だが“なんでもない”は嘘だ。
朝比奈さんは、その言葉を信じたように照れくさそうに笑った。
「じゃあ、明日。十時に駅の改札前で」
「……はい」
「おやすみなさい、村田さん」
「おやすみなさい」
朝比奈さんが立ち上がって、ロビーの出口へ向かう。その背中を見送りながら、俺は動けなかった。
自動ドアが開く。
閉まる。
足音が遠ざかる。
聞こえなくなる。
その場に、俺だけが残った。
ガラスの向こうに夜の街が見える。
ビルの灯り。車のヘッドライト。電車の走る音。何百万人が暮らしている街が、いつも通りに呼吸している。
その下に、俺が繋いだ七つの門がある。
明日の朝、起動鍵が入る。
正午には全部が開く。
そして明日の午前十時に、朝比奈ひまりが改札の前で俺を待っている。
人生で初めてのデートの行き先は、自分が仕込んだ侵略ゲートの真上だ。
俺は近くの壁に背を預け、ゆっくり息を吐いた。
右手は冷たい。
ゲートの熱は、もう完全に消えていた。
その代わり、朝比奈さんの「楽しみにしてます」が、まだ耳の奥で鳴っている。
何も守る気がなかった。
三十八年間、何ひとつ守らなかった。守るものも、守りたいものもなかった。自分の人生にも、この街にも、何の執着もなかった。だから魔王の契約に頷けた。
だが今、一つだけ、手の中に落ちてきたものがある。
明日、門が開いたら、朝比奈さんが...死ぬかも。
その一文が頭に浮かんだ瞬間、膝から力が抜けた。
待て。
なぜ今まで、それに気づかなかった。
朝比奈さんはずっとそこにいた。毎朝同じフロアにいて、昼休みにすれ違って、チャットで「気にします」と送ってきて、今日だって給湯室で「無理してませんか」と聞いてきた。東京に住んでいる。この街で暮らしている。門が開けば、巻き込まれる側の人間だ。
そんなことは、最初から分かっていたはずだ。
分かっていて、考えなかった。
四つ目のノードを繋いだ夜も、五つ目を昼休みに仕込んだときも、六つ目で足が重くなったときも。朝比奈さんの顔を思い浮かべながら、その朝比奈さんが暮らす街の地下に門を繋いでいた。矛盾していると気づかなかったんじゃない。気づかないふりをしていたんだ。三十八年間で最も得意な技術を、自分自身に使っていた。
何も感じていないふり。何も考えていないふり。
全部、壁紙のやり方だ。
その場にしゃがみこみ、右手を見た。
もう何も光っていない。ただの、三十八歳の疲れた手だ。
この手で、明日。彼女を守れるのか。
取り返しのつかないことをした手で、取り返しのつかなくなったあとに手に入ったものを守る。それが、明日の仕事だ。




