魔王軍幹部になるはずだった男
人間は、自分の能力を正しく評価されると弱い。
問題は、その最初の評価者が異界の魔王だった場合だ。
昨夜、俺は第二ノードの候補地点へ向かった。
駅近くの雑踏を抜け、表通りから一本入った細い路地へ入る。チェーン居酒屋の裏口、駐輪場、色あせた避難経路図。東京は一歩裏へ回るだけで、急に人の目が届かなくなる。
今回の接続候補は、古い通信中継盤の点検スペースだった。表向きは設備会社しか近づかない場所。実際には、誰も気にしていない死角でもある。
フェンスを抜け、中へ入る。
前回と大差ない手順だった。
だからこそ、自分の動きが前より滑らかになっていることに気づいて、少し嫌になった。
慣れ始めている。
侵入に慣れるというのは、人間としてだいぶまずい兆候である。
『手際がよいな』
ゼルヴェクトが頭の中で満足そうに言う。
「褒めるな。余計に嫌になる」
設備スペースの中は、第一ノードの機械室とよく似ていた。むき出しの配線、古い通信盤、積もった埃。人が常駐する場所ではない。
だが盤面を見た瞬間、違いに気づいた。
赤い輪郭が、前よりはっきりしている。
第一ノードのときは薄い線だった。今は、骨組みに近い太さで現実の盤面に重なって浮かんでいる。
「濃くなってるな」
『一つ繋がれば、次はより容易い』
理解できてしまうのが嫌だった。
基幹が通れば枝は伸ばしやすい。インフラとしては当たり前の話だ。
それを異界の門でやられると、まったく笑えない。
俺は右手を盤面に当てた。
熱が流れ込む。前回より速い。赤い線が一気に広がり、都市の地下に新しい経路が走る。視界の奥で、見えない地図が組み上がっていく。
十秒もかからなかった。
『第二ノード、接続完了』
ゼルヴェクトの声には、はっきり満足が混じっていた。
『やはりお前を選んだ我の目に狂いはなかった』
その言葉に、胸の奥がわずかに熱くなる。
腹が立つことに、うれしかった。
誰にも評価されなかった人間は、こういう言葉に弱い。分かっている。甘言だと分かっている。それでも刺さる。
「選んだとか言うな」
『事実だ。貴様でなければ、ここまで滑らかには進まん』
「……おだてても何も出ないぞ」
『すでに出ている。結果がな』
言い返せなかった。
言っていることが正しい上司ほど厄介なものはない。しかも相手は魔王だ。労基にも相談できない。
点検スペースを出ると、駅前のざわめきが壁一枚向こうで鳴っていた。改札の電子音、アナウンス、人の波。その真下で門の回路が一本増えたことを、誰も知らない。
そこで終わると思っていた俺に、ゼルヴェクトが言った。
『次へ向かうぞ』
「……は?」
『今夜はもう一つ繋ぐ』
「聞いてないぞ」
『聞かれなかった』
魔王は時々、会議体をすっ飛ばして結論だけ持ってくる。上司として最悪である。
「今からか?」
『まだ二十三時前だ。人間どもの感覚では“もう遅い”のだろうが、門の設置にとっては早い』
理屈としては腹が立つほど正しい。
俺は小さく舌打ちし、それでも足を止めなかった。
第三ノード候補は、商業施設の屋上設備だった。
閉店後の搬入口から保守用エレベーターに乗り、機械フロアへ上がる。夜の商業施設というのは妙に静かで、昼間の喧騒が嘘みたいだった。売り場の照明は落ち、非常灯だけが薄く床を照らしている。人の気配がなくなると、建物は急に巨大な箱に戻る。
『右だ』
ゼルヴェクトが告げる。
屋上手前の保守区画。空調機器と電源盤が並ぶ一角に、また赤い骨組みが浮いていた。
「……本当に都合のいい場所ばっかり選んでるな」
『都合のよい場所を選ぶのが計画というものだ』
その返しに妙な説得力があるのが嫌だった。
第三ノードは、第二よりさらに早かった。
右手を盤面に当てた瞬間、回路がほとんど抵抗なく噛み合う。第一、第二で通した線が、今度は先回りしてこちらを待っていたみたいだった。
『第三ノード、接続完了』
「早すぎるだろ……」
『門は門を呼ぶ』
「だからその言い方やめろ。気味が悪い」
だが気味が悪いだけではなかった。
少しずつ、俺の側もこの作業の手触りを覚え始めている。
最短経路、接触位置、流し込む熱量。
一度なら偶然で済ませられる。二度でもまだ言い訳できる。
だが三度目ともなると、もう身体が覚え始めていた。
それが嫌だった。
『もう一つだ』
「待て」
今度ははっきり足を止めた。
「三つ目だぞ」
『四つ目だ』
「細かいな」
『計数は大事だ』
そういうところだけ妙に実務的で腹が立つ。
『あと一つで今夜は終わる。基幹の形が見える』
基幹。
その言葉に、インフラ屋としての嫌な理解が走った。
たしかに四本通れば、あとは末端へ枝を伸ばす段階に入る。
東京侵略計画が「構想」から「起動待ちのシステム」へ変わるラインだ。
つまり、ここでやめなければ、本当に戻りにくくなる。
……にもかかわらず、俺はそのまま三つ目の現場へ向かった。
第四ノード候補は、オフィス街の外れにあるビル管理系統の設備室だった。
さすがに足が重くなっていた。
深夜のビル群は窓の明かりがまばらで、ところどころに残業の島が浮いている。俺はその裏を抜け、管理会社の保守用通路へ入った。ここも一度仕事で来たことがある。非常時用の電源切替盤があり、普段は誰も気にしない場所だ。
「……俺、本当にこういう場所ばっか覚えてるな」
『それを才覚と呼ぶ』
「もっと普通の褒め方しろよ……」
『十分普通だ』
魔王の“普通”は信用できない。
第四ノードは、四つの中でいちばん嫌だった。
なぜなら、もう迷いがほとんど作業速度を落とさなかったからだ。
怖い。
まずい。
やめた方がいい。
そう思っているのに、盤面の前へ立つと身体が先に動く。
接触。
流入。
接続。
『第四ノード、接続完了』
その声を聞いた瞬間、設備室の奥で低い振動が走った。実際の機器には異常はない。アラームも鳴らない。だが見えないところで、何か大きな骨組みが組み上がった感覚だけがあった。
四つ。
これで四つだ。
俺は盤面から手を離し、しばらく黙っていた。
『見事だ、村田耕助』
ゼルヴェクトが満足そうに言う。
『今夜だけで三つ。実に良い。やはりお前は幹部候補に相応しい』
幹部候補。
その言葉が、以前よりも具体的な重さを持って響いた。
たんなる口約束ではなく、本当に俺をその位置へ押し上げるつもりなのだと分かる声音だった。
「……そんなにうれしそうに言うな」
『うれしいとも。有能な部下は貴重だ』
「部下って言い方はやめろ」
『ならば右腕でもよい』
「もっと重くなってるだろうが」
ゼルヴェクトは楽しそうに笑った。
こっちはまったく楽しくない。
だが、完全に嫌悪だけでもないのが最悪だった。
夜風の中へ出ると、さすがに少し足元がふらついた。
肉体的な疲れというより、頭の奥が熱を持っている感じに近い。
『今夜はここまでだ』
珍しくゼルヴェクトのほうから切り上げた。
「……助かる」
『器を壊しては意味がない』
魔王に体調管理をされる筋合いはないが、実際少し助かったのは事実だった。
俺はそのまままっすぐ帰った。
まっすぐ帰れたことに、少し安心した。
人間は、自分がまだ普通の帰宅ルートを歩けると確認するだけで、わずかに正気を取り戻す。
翌朝。
会社に着くと、最初に聞こえたのは朝比奈さんの声だった。
「村田さん、おはようございます」
「……おはようございます」
やわらかい挨拶をされるだけで、右手とは別の場所が熱くなるのは、そろそろ真面目に困る。
朝比奈さんは少しだけ俺の顔を見て、首をかしげた。
「昨日も遅かったですか?」
「まあ、少し」
「やっぱり」
何が“やっぱり”なのか聞き返したかったが、聞くと危ない気がしてやめた。
午前中、黒崎課長が珍しく大きめの案件を持ち込んできた。
他部署と合同で使っている共有サーバーの権限設定が一部壊れ、誰がどこまで触れるのか分からなくなっているらしい。
「村田くん、これ今日中に見てほしいんだけど」
“今日中に”という便利な言葉で、だいたいの無茶は包めると思っている人種がいる。
俺は画面を開いた。
設定ファイル、アクセスログ、グループポリシー、例外権限。通常ならかなり面倒な部類の障害だった。
だが今日は違った。
見た瞬間、原因箇所が浮かび上がった。
先週入れた管理ツールの更新で、一部の継承設定だけ古いテンプレートに巻き戻っている。権限の競合ではない。単純な更新漏れだ。
これはリンクの力か。
それとも、元々見えていたものに処理が追いつくようになっただけなのか。
正直、分からなかった。
だが手は動いた。
確認、修正、反映、再読込。動作検証まで含めても十分とかからない。いつもなら三十分以上かかる工程が、自分でも驚くほど滑らかに終わった。
三田村が横から目を丸くする。
「え、もう終わったんすか」
「終わった」
「早……」
黒崎課長まで少しだけ感心した顔をした。
「助かるよ、村田くん」
その“助かる”は、たぶん五分後には忘れる種類の言葉だった。
だが少し前までなら、それでも足りていたのかもしれない。
今はもう、比べる相手ができてしまった。
――やはりお前を選んだ我の目に狂いはなかった。
最悪である。
魔王の評価のほうが上司より胸に残る。
昼前、朝比奈さんが資料を持ってこちらへ来た。
「村田さん」
「はい」
「さっきの、すごかったです」
「何がですか」
「権限のやつです。三田村さんが“村田さんもう直した”ってびっくりしてました」
三田村、お前はそういうことをすぐ言う。
「いや、見れば分かるやつだったんで」
「私には全然分かりませんでした」
「分からなくて普通です」
「じゃあ、村田さんがすごいんですよ」
言い切るので困る。
俺が返事に詰まっていると、朝比奈さんは少し笑った。
「この前から思ってたんですけど」
「はい」
「村田さんって、みんなが困ってから動くんじゃなくて、困る前に気づいてますよね」
その言葉に、少しだけ息が詰まった。
困る前に気づく。
たしかに、それは俺の仕事の癖だった。障害は起きてから直すより、起きる前に潰すほうが傷が浅い。
だが朝比奈さんは、それを仕事の癖ではなく“人”の側から見ている。
「……仕事なんで」
いつもの防壁で返す。
「またそれですか」
「それしかないでしょう」
「ありますよ」
「何がですか」
朝比奈さんは一瞬だけ考えて、それから少し照れたように笑った。
「ちゃんと見てる人は見てる、です」
心臓に悪いのでやめてほしい。
本当にやめてほしい。
つまりそれは、「私は見てます」と言っているのと、ほとんど同じだった。
俺が固まっているあいだに、朝比奈さんは「じゃあ、資料まとめてきます」と言って戻っていった。
『ほう』
頭の中で、ゼルヴェクトが面白がる気配がした。
「うるさい」
『見られているな、村田耕助』
「だから何だ」
『悪くない気分だろう』
反射的に否定しかけて、少しだけ黙った。
悪くない、というより危ない。
朝比奈さんに見られることは、うれしくて、怖い。
うれしいのは、長く透明だった人間が初めて誰かの視界に入ったからだ。
怖いのは、その視界の中の俺が、本当の俺ではないからだ。
朝比奈さんが見ている村田耕助は、「黙って人を助ける地味な先輩」だ。
実際の村田耕助は、昨夜、東京の地下と屋上と設備室に異界の門を三つ仕込んできた男だ。
午後。
仕事が速くなっているだけではなかった。周囲の小さな変化まで、前より目に入る。
三田村が雑に作った資料の粗。
黒崎課長が責任を投げる前に声色を変える瞬間。
朝比奈さんが限界に近いとき、右肩だけ少し上がる癖。
最後のは、知りたくなかった。
『認識精度は対象を選ばん』
ゼルヴェクトが言う。
「便利だけど最悪だな、それ」
夕方。
朝比奈さんが黒崎課長に呼び止められているのが見えた。距離は少しあったが、声の調子で流れが分かる。あれはよくない。
「今日の先方説明、朝比奈さんからも一言入れてくれる?」
「はい……」
「数字の話、もし聞かれたら責任の切り分け曖昧にしないでね」
曖昧にしていたのはお前のほうだろう、と思ったが口には出さない。
出せるなら十五年前に出している。
だが次の瞬間、朝比奈さんがわずかに息を止めたのが見えた。右肩が少し上がる。さっき知ったばかりの癖だ。
見えてしまったからには、もう知らないふりができない。
俺はチャットを開いた。
> 村田
> さっきの件、説明用の差分ログまとめてあります
> 必要なら送ります
送信してから、少しだけ間を置く。余計なことをしている自覚はある。これは俺の仕事ではない。
だが、見えてしまったものを放置するのは気持ち悪かった。
すぐに返事が来た。
> 朝比奈
> 本当ですか!
> いただけると、すごく助かります
その一文だけで、送ってよかったと思ってしまうのだから現金なものである。
差分ログを整理して送る。ついでに、先方に聞かれそうな質問と想定回答を三つほど付けた。完全に余計なお世話だ。
だが数分後、
> 朝比奈
> これ、すごいです!
> 先に聞かれそうなことまで入ってる……
> ありがとうございます。
と返ってきたので、少しだけ報われた。
先回りが癖だと、朝比奈さんは昼に言った。
その通りだった。
困る前に潰す。聞かれる前に用意する。
それが俺の仕事のやり方で、生き方で、たぶん唯一の取り柄だった。
その取り柄を、昼は朝比奈さんのために、夜は魔王のために使っている。
考えると少し気分が悪くなった。
定時を少し過ぎたころ、モニターの端で赤い点がまた脈打った。
残りは三つ。
『今夜は控えろ』
ゼルヴェクトが言った。
「は?」
『今夜だけで三つ繋いだ。器を休ませろ。昼間も余計に使っただろう』
「……気づいてたのか」
『当然だ。貴様の出力は常に見ている』
魔王に勤怠管理をされるとは思わなかった。
「急がなくていいのかよ、侵略計画」
『明日で足りる。前日までに七つ揃えばよい』
前日までに。
その一言が、妙に具体的な重さで胸に落ちた。
残り三つ。
明日で終わる。
『その日、お前は人間ではなくなる』
不意に、ゼルヴェクトが言った。
俺は少し黙った。
「……どういう意味だよ」
『門が開けば、お前はもはや人間どもの側には戻れんということだ』
さらりと、とんでもないことを言う。
だがそれは、最初から薄々分かっていたことでもあった。
七つ揃えて、東京を開く。
そこまでやっておいて、翌週も何食わぬ顔で出勤するわけにはいかない。
朝比奈さんの「おはようございます」も、もう聞けなくなる。
村田耕助三十八歳は、いま崖の縁に立っている。
『案ずるな。悪い話ではない』
「……そう思えるのがあんたの怖いところだよ」
思いがけず空いた夜に、俺は会社を出て、駅前でしばらく立ち止まった。
いつもなら次のノードか、次の障害か、どちらかへ向かう時間だ。何もない夜が、逆に落ち着かない。
風が少し冷たかった。
スマホが震えた。
朝比奈さんからチャットだった。
> 朝比奈
> さっきの説明、うまくいきました
> 村田さんのおかげです
> ありがとうございました
駅前の雑踏の中で、俺はその画面をしばらく見ていた。
少し間を置いて、もう一件来た。
> 朝比奈
> いつかちゃんとお礼したいです
> 本当に
俺は人混みの中で立ち尽くした。
“いつか”には未来がある。
“ちゃんと”には意志がある。
“本当に”には念押しがある。
つまりこれは、思いつきではない。
いや待て。飛躍するな。
礼をしたいと言っているだけだ。それ以上を読むのは三十八歳独身社畜の悪い癖である。ログを正確に読め。拡大解釈をするな。
……と自分に言い聞かせたが、心臓はまったく言うことを聞かなかった。
返事を打つ。消す。打つ。消す。
最終的に送れたのは、たった一行だった。
> 村田
> 気にしなくて大丈夫です
送ってから、いや全然大丈夫ではないだろう、と自分で思った。
すぐに返事が来た。
> 朝比奈
> 気にします
短い一文だった。
なのに、今日いちばん効いた。
朝比奈ひまりという人は、引くべきところでは引くが、引かないと決めたら引かない。
その強さが、怖くて、まぶしかった。
俺はスマホの画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
『分からぬか』
不意に、ゼルヴェクトの声が戻った。
「……何がだよ」
『貴様が何者になりつつあるかだ』
俺は夜の駅前を見た。
光る看板。流れる人波。帰っていく人たち。
この街を壊す側へ、俺はたしかに足を踏み入れている。
しかも明日で、全部終わる。
だが同時に、落ち着かなくなる理由も増え始めていた。
朝比奈さんの笑顔。
「ちゃんと見てる人は見てる」という言葉。
「気にします」という文字。
それらは全部、俺が壊そうとしている側の世界にある。
「……分かったら苦労してない」
『フハハ』
魔王は笑った。
俺は笑えなかった。
通知を閉じてスマホをポケットにしまう。
夜の駅前に立つ三十八歳の男の手には、魔王の契約の熱と、二十五歳の後輩の言葉の温度が、同時に残っていた。
残りは三つ。
明日で終わる。




