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何も知らずに救われていた後輩


人間は、自分が誰かに救われた瞬間よりも、あとになって「あれもそうだったのか」と気づく瞬間のほうが深く刺さることがある。


朝比奈ひまりが、そういう顔をした日の話をする。


ただし順番としては、まず俺の夜の話からだ。


昨夜、会社を出た俺は、ゼルヴェクトに示された複合ビルへ向かった。


表通りにはまだ人がいたが、裏手へ回ると急に静かになる。搬入口、非常階段、空調の室外機、古いコンクリート壁。夜のビルは、正面の顔を失うと急に無口になる。


保守用入口は、二年前に一度使ったきりだった。


テンキーの前で一瞬だけ指を止める。本当に覚えているのか半信半疑だったが、押してみると短い電子音のあと、錠が開いた。


「……開くのかよ」


『見事だ、村田耕助』


頭の中でゼルヴェクトが満足そうに言った。


「うるさい」


地下へ降りる階段は狭く、やけに湿っていた。下へ行くほど、埃とコンクリートと古い機械の熱が混じった匂いが濃くなる。


こういう場所は落ち着く。誰もいないし、誰にも気を遣わなくていい。


機械室の扉を開ける。


中には配線ラック、制御盤、置きっぱなしの工具、誰も読んでいない点検表。実に見慣れた光景だった。違うのは、俺の右手がじわりと熱を持っていることと、頭の中に魔王がいることくらいだ。


『中央の制御盤だ』


言われるまま近づくと、古びた制御盤の下部に、薄い赤い線が見えた。視界の端にだけ引っかかる、現実と重なった異物の輪郭だった。


「これか」


『触れろ』


「毎回説明が雑だな」


『本質は簡潔だ』


俺はため息をつき、制御盤に右手を当てた。


冷たい鉄板の向こうで、何かが脈打った。


瞬間、指先から熱が流れ込む。盤面の奥に赤い線が広がり、現実の配線図の上に、もうひとつ別の回路が重なって立ち上がった。駅へ、ビルへ、通信塔へ。都市の地下に、細い血管みたいな線が走っていく。


ぞっとした。


だが同時に、少しだけ見とれた。


構造があまりにも綺麗だったからだ。


俺が十五年かけて覚えた人間側の網目に、ゼルヴェクトの回路がぴたりと噛み合っていく。無理やりねじ込むのではない。最初からそこに入る場所があったみたいに、静かに収まっていく。


その感覚が怖かった。


『第一ノード、接続完了』


頭の中で低い声が告げた。


機械室の空気が一瞬だけ重くなる。壁の向こうで、建物全体が小さく息を吸ったような気がした。


俺は反射的に手を離した。


「……これ、やばいだろ」


『今さらだな』


「今さらでもやばいものはやばいだろ」


『まだだ。七つの門を設置する』


あと六回、これをやるのか。


機械室を出て、夜の街へ戻る。


地上の空気は乾いていて、人の話し声と車の音が遠くから混ざっていた。ついさっき地下で門の土台を仕込んだとは思えない。東京は腹の中で何をされても、顔色を変えない。


帰宅して、風呂に入り、歯を磨き、布団に入る。


人間は、世界征服の準備をした日でも歯を磨く。そこが少し怖い。


翌朝。


出社すると、朝比奈さんがこちらを見て軽く会釈した。


「村田さん、おはようございます」


それだけの言葉が、昨夜から冷えていた胸を少しだけ温めた。


魔王軍の第一ノードを設置した男に向かって、二十五歳の後輩がそう言っている。彼女は知らない。俺が昨夜、何をしていたのかを。


知らないから笑える。


その無垢さが、やけに眩しかった。


昼休み。


俺は自販機の前で缶コーヒーを買い、人気のない休憩スペースの隅で飲んでいた。そこへ珍しく、三田村が缶ジュースを持ってやってきた。


「村田さん」


「何」


「朝比奈さん、昨日めっちゃ助かったって言ってましたよ」


俺は缶コーヒーを持ったまま固まった。


「……何の話だよ」


「昨日の資料のデータ。朝までにちゃんと復旧してたやつ。あれ村田さんっすよね」


「たまたま見ただけだ」


「またそれだ」


三田村は笑ったが、そのあと少し声を落とした。


「前もありましたよね。朝比奈さんが黒崎課長に詰められてたとき」


「……何が」


「例の企画書の数字ズレてた件。あのあと急にログ揃ったじゃないですか。あれ、村田さんですか?」


質問の形をしていたが、半分は確信の目だった。


俺は何も答えなかった。


たしかにそんなことはあった。企画部の数字が元データと合っていないと黒崎課長が騒ぎ、朝比奈さんがかなりまずい顔をしていた日だ。俺は夜中にログを見直し、連携側のバッチ処理が古いデータを掴んでいたことを確認した。翌朝には、彼女のミスではない形で説明できるよう整えた。


理由は、データの不整合が気持ち悪かったからである。


少なくとも、俺の中ではそういうことになっている。


「村田さんって、ああいうの言わないっすよね」


三田村が言う。


「別に言うことじゃないだろ」


「まあ、そうっすけど。でも普通、やったら言いません?」


「言うほうが面倒だろ」


「それはそう」


三田村はうなずき、それから少しだけ真面目な顔になった。


「朝比奈さん、あれ以来ちょいちょい村田さんのこと見てますよ」


俺は危うく缶コーヒーを噴き出しそうになった。


「は?」


「いや、変な意味じゃなくて」


絶対に変な意味である。


「なんか、『村田さんって実はすごいですよね』みたいなこと、前に言ってました」


「やめろ」


「なんでですか」


「やめろ」


二回言ったのは、本気でやめてほしかったからだ。


だが、その言葉が胸の奥に落ちていくのは止められなかった。


朝比奈さんが、俺を見ている。


透明でいることに慣れすぎた人間には、それだけで十分事件だった。


三田村が去ったあと、俺はぬるくなった缶コーヒーを飲み干した。心臓はまったくぬるくなっていなかった。


自席へ戻る途中、企画部の島が見えた。


朝比奈さんはモニターに向かっていた。髪を耳にかけ、真剣な顔で資料を見ている。通り過ぎるだけのはずだった。


そのとき、黒崎課長の声が飛んだ。


「朝比奈さん、この数値、先方説明用に今日中で直せる?」


朝比奈さんの肩が、ほんの少しだけ強張った。


「……確認します」


「確認じゃなくて、間に合わせてほしいんだよね。村田くんのほうで昨日復旧してるなら、あとは企画側で詰められるでしょ?」


巻き方が雑なのである、この人は。


俺は一瞬だけ立ち止まった。


首を突っ込む理由はない。ないのに、自席に着いた時点で、もう指が動いていた。


昨日の障害対応ログ。共有領域。朝比奈さんの案件番号。関連バッチの更新時刻。処理順に違和感がある。ひとつ前の夜間ジョブが、企画部の参照データだけ古いテンポラリを掴んでいた。


「……これか」


管理ツールを開き、更新済みの参照先を朝比奈さんの作業領域に流し込む。差分ログも出す。説明に使える形に整える。三分もかからなかった。


頭の中でゼルヴェクトが低く笑った。


『また動くのか』


「データのズレが気持ち悪いだけだ」


『よく聞く理由だな』


反論しなかった。


企画部のほうで小さな声が上がった。


「……あ、直ってる」


朝比奈さんの声だった。


黒崎課長が「ん? じゃあそれで進めて」と軽く言って去っていく。解決した瞬間だけ足取りが軽いのは、あの人の特技らしい。


数秒後、社内チャットが光った。


> 朝比奈

> 村田さん

> また助けていただきましたか?


俺はしばらく、その文面を見ていた。


また、である。


つまり彼女は、もう一回や二回ではないと分かっているのだ。


俺はキーボードに手を置いた。


> 村田

> たまたま見えただけです


送信する。


数秒後、返事が来た。


> 朝比奈

> その「たまたま」、もう信じませんよ


俺は画面の前で固まった。


信じない。つまり、意図的だと思っているということだ。


違う。データのズレが気持ち悪かっただけだ。業務影響を最小化しただけだ。俺はただ、目の前の問題を処理しただけで――


そこまで考えて、少し黙った。


チャットのウィンドウを閉じても、その一文は頭に残った。


午後、資料を取りにコピー機の前へ行くと、朝比奈さんと鉢合わせた。


「村田さん」


「……はい」


朝比奈さんは、しばらく俺を見てから言った。


「前から、何度かありましたよね」


コピー機の前には、逃げ道がない。


「私が困ってるときに、ちょうどいいタイミングで何かが直ること」


俺は答えなかった。


朝比奈さんの目は、責めていなかった。ただ静かに確かめようとしていた。


「村田さんって、いつも黙ってやりますよね」


「……言うほどのことじゃないんで」


「でも、言わないと分からないです」


「分からなくていいです」


そこだけは、少し強く言ってしまった。


分かられると困る。見られると困る。俺がやっていることの半分は仕事の延長だが、もう半分には、たぶん別の名前がつく。


朝比奈さんは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにやわらかく笑った。


「じゃあ、私だけ分かってればいいです」


心臓に悪いのでやめてほしい。


本当にやめてほしい。


俺が何も言えないでいるうちに、コピー機が間の抜けた電子音を鳴らした。紙が出てくる。現代文明は時々、人の命を救う。


朝比奈さんは資料を取り、会釈した。


「ありがとうございます。今度、ちゃんとお礼させてください」


「いや、だから」


「たまたまじゃないお礼です」


そう言って去っていく背中を、俺はしばらく見送るしかなかった。


『ほう』


頭の中で楽しそうな声がする。


「うるさい」


『礼を言われるだけでそこまで動揺するとは』


「動揺してない」


『声が危なかったぞ』


「お前のせいでもあるだろ。頭の中に魔王がいる状態で、後輩にまっすぐ感謝されるほうの身にもなれ」


『知らんな。我に部下への感謝はない』


「最悪の上司だな」


その日の仕事を終えるころには、右手の熱と胸の落ち着かなさで、体の中がひどく騒がしくなっていた。


だが夜になれば、また別の現実が待っている。


退勤後、モニターの端に赤い点が六つ残っていた。


第一ノードは起動済み。残り六つ。


俺は昨日とは別の方向へ歩き出した。今夜の目的地は、駅近くの設備スペース。表向きは古い通信中継盤の点検口。実際には第二ノードの接続候補だ。


駅へ向かう途中、ガラス張りのビルに自分の姿が映った。


くたびれたスーツの男。右手だけが少し熱い。魔王軍の現地担当。そして、なぜか二十五歳の後輩に「たまたまじゃないお礼」を予告されて動揺している男。


誰だよ、こいつは。


『急ぐぞ、村田耕助』


ゼルヴェクトが言う。


『人間どもの恋情に足を取られるな』


「恋情じゃない」


『ほう』


「違う」


『では何だ』


俺は少し黙って、それから答えた。


「……分からないから困ってるんだろ」


ゼルヴェクトは、珍しくすぐには笑わなかった。


その沈黙が終わる前に、俺は駅前の雑踏へ足を踏み入れた。


人の波。電光掲示板。改札の音。足早に過ぎていくスーツ姿。誰もが自分の夜を生きている。


その地下で門が開こうとしていることも、俺がそれに手を貸していることも、まだ誰も知らない。


朝比奈さんも、知らない。


彼女は俺を「いつも黙って助けてくれる人」だと思っている。

実際には、その同じ手で、東京を壊す準備をしている。


来ないほうがいい、と思った。

彼女がそれを知る日は。


そう思っている自分に、少しだけ救われて、ひどく苦しくなった。


俺は右手を握り、第二ノードのある地下設備へ向かった。


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