水族館と最終ゲート
水族館へ向かう電車に乗る前、俺は人生でもかなり上位に入る種類の緊張を抱えていた。
一つは、朝比奈ひまりと休日に二人で出かけているという事実。
もう一つは、その途中で湾岸方面の通信塔に寄って、第六ゲートを止めなければならないという事実である。
前者だけでも三十八歳の社畜には荷が重い。
後者だけでも普通の人間には荷が重い。
その二つを同時に処理しろというのだから、運命とかいうものはだいぶ性格が悪い。
しかも朝比奈さんは、何も知らずに楽しそうだった。
「水族館、思ったより遠いんですね」
「……そうですね」
「でも、海沿いってちょっと特別感あります」
「……ありますね」
「今のはちゃんと会話として成立してます」
「それはよかったです」
「上から言われた気がします」
だいぶいつもの調子に戻ってきていた。
戻ってきているのはありがたい。ありがたいが、こっちは戻っていない。諸々ミッションで受けた傷と朝比奈さんからの心臓のドキドキが止まらない致命傷――いや、致命傷ではないが――とにかく、さっきの「もう、憧れとかじゃないです」がまだ胸の奥に刺さったままだった。
彼女いない歴三十八年の男は、ああいう言葉を受け取ったあと、どういう顔で次の電車に乗ればいいのか知らない。
知らないまま、右手の中では第六が脈を打っている。
湾岸方面へ向かう通信塔の保守区画。
第7を支える最後の外部ノード。
第6を止めてからでないと、水族館近辺の第7を切るときに起動圧が跳ね上がる。
それに、第6の方が先の同期する。順番としては、第6が先だ。
問題は、どうやってデートの途中で通信塔方面へ連れていくか、である。
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駅を出ると、海風が少し強かった。
水族館の最寄りエリアは休日らしい人出でにぎわっている。家族連れ、カップル、観光客。空が広く、ビルに囲まれた都心とは空気の流れが違う。
朝比奈さんは少しだけ上を見て、楽しそうに言った。
「天気よくてよかったです」
「……ですね」
「村田さん、今日は短く返すか変なこと言うかの二択ですね」
「そんなことないです」
「今ので三択になりました」
油断すると全部見抜かれる。
そのとき、右手がずきりと脈打った。
第6の同期窓が少し深くなった。近い。思っていたより近い。もう寄り道では済まない。今動かないとまずい。
「あの」
俺は意を決して言った。
「先に、ちょっとだけ海沿いのほう行きませんか」
朝比奈さんがすぐにこちらを見る。
「海沿い」
「……見晴らしが」
「また景色ですか」
前科を指摘された。
「今度は本当に景色です」
「村田さん、今日ずっと本当にって言ってる人みたいですね」
「普段言わないぶん、今日まとめて言ってるんです」
「なんですかそれ」
少し笑ってから、朝比奈さんは首をかしげた。
「でも、いいですよ。まだ少し時間ありますし」
助かった。
本当に助かった。
この人は、俺の不可解な提案をどこまで受け入れるつもりなのだろう。将来とんでもない詐欺に遭わないか心配になるレベルだ。いや、今まさに最大級の虚偽説明を受けている相手に対して言うことではないが。
「ありがとうございます」
「そうやって素直に言われると、ちょっとびっくりします」
「……すみません」
「謝らないでください」
難しい。
感謝するとびっくりされ、謝ると止められる。
恋愛というものは、障害対応手順書より難解だった。
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通信塔の見える海沿いの遊歩道は、水族館のメイン導線から少し外れていた。
人通りは減る。代わりに風が強い。遠くに鉄骨の細い塔が見える。一般人からすれば景色の一部だが、俺には保守区画の位置まで見えてしまう。
第6が、あそこにある。
朝比奈さんは海を見て、小さく息をついた。
「きれいですね」
「……そうですね」
「今のは見て言いました?」
「今回は見て言いました」
「今回は」
また笑われた。
だが、その笑い方は前より近い。
水族館へ向かうだけの時間が、もう完全に“普通の休日”じゃなくなっているのが分かる。朝比奈さんが俺を見る目の温度が、会社の後輩のそれじゃなくなっている。
それだけで十分に危険なのに、右手は別の危険を訴えていた。
今しかない。
「朝比奈さん」
「はい」
「すみません。ちょっと、その……トイレ」
朝比奈さんが一拍置いてから、口元を押さえた。
「またですか?」
「……またです」
「村田さん、緊張すると近くなるタイプなんですか」
「知りたくなかったです、その分析……」
「ふふ。すみません」
笑っている。
完全に笑っている。
だが許してくれた。
「じゃあ、あそこのベンチで待ってますね」
「すぐ戻ります」
「今日はそれ、何回目の“すぐ”ですか」
「……カウントしないでください」
「善処します」
しない人の言い方だった。
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通信塔の保守区画は、遊歩道の脇のフェンスの内側にあった。
関係者以外立入禁止。
古い電子錠。
配線の露出した保守盤。
見慣れた、見慣れすぎて嫌になる景色だった。
右手を盤面に当てる。
第6は、第5より明らかに深い。
熱ではなかった。
今度は冷たさだった。体温が抜かれていく。指先から腕の奥へ、何かが逆流してくる。第7へ半分足を突っ込んだノードだけあって、起動圧が違う。
「っ……!」
『遅いぞ、村田耕助』
ゼルヴェクトの声が響く。
『もうその塔も、我が回路の一部だ』
「うるさい……!」
停止コードを押し込む。
だが第6は、ただ断てばいいだけではない。ここを乱暴に切ると、第7が一気に立ち上がる。
だから壊すのではなく、鈍らせる。
同期を遅らせる。
第7に渡るはずの圧力を散らす。
そのとき、頭上の鉄骨の影から、聞き覚えのある嫌な声がした。
「ケケッ……旦那、また休日出勤ですぜぇ」
見上げる。
いた。
グレムだった。
前よりノイズがひどい。半身の輪郭が乱れて、左脚を少し引きずっている。それでも口だけは達者そうだった。
「……お前、また来たのか」
「また来ましたぜぇ。仕事熱心ですぜぇ」
「その熱心さを別の方向に使え」
「旦那も日曜に働いてるでしょうが」
「それ言うな」
「ケケッ、図星ですぜぇ」
腹立たしいほど元気だった。
『グレム。足止めしろ』
ゼルヴェクトが短く命じる。
「了解ですぜ。ですが旦那、前より殺気あるですぜぇ」
「褒めてないだろ、それ」
「現場では褒め言葉ですぜぇ」
「最悪の職場だな」
グレムが鉄骨の上をちょこまか動く。
「しかし旦那、よくやるですぜ」
「何がだ」
「デートの途中で門止め。社畜の鑑ですぜ」
「そんな鑑いらない」
「しかも女の人、だいぶ脈ありですぜ」
「うるさい」
「ケケッ、そっちは図星すぎましたかぁ」
「殺すぞ」
「その台詞、前より温度が高いですぜ。恋の力ですぜぇ」
「お前、ほんとに邪魔だな……!」
右手は盤面から離せない。
グレムはそれを分かっていて煽っている。
「旦那、そんなに余裕ないなら、こっち来るですぜぇ?」
「行けるなら行ってる」
「行けないですぜぇ?」
「うるさい」
「ケケッ、仕事できない二人の会話ですぜぇ」
「一緒にするな」
「魔王様も似たようなこと言ってたですぜ」
「あの上司、部下の悪口共有するのか……」
「風通しのいい職場ですぜぇ」
「最悪だな」
喋りながらも、グレムはちゃんと機を見ていた。
次の瞬間、低い軌道で飛び込んでくる。
速い。
前回より左手の干渉線を警戒している。
左手を振る。
赤い干渉線が走る。
グレムは半身をよじって避ける。
「おっとですぜ」
「腹立つな……!」
「ありがとうございますぜ!」
その一瞬で見えた。
第6の継ぎ目。
第7へ圧を渡している細いライン。
そこだけを鈍らせればいい。
右手に全神経を集中する。
断裂ではなく、位相遅延。
殺すんじゃない。眠らせる。
『……ほう』
ゼルヴェクトの声が低くなる。
『そこを読むか』
「保守屋なめるな……!」
押し込む。
第6の点が崩れた。
完全消滅ではない。だが第7を支える補助ラインとしては、もう機能しない。
同時に、右腕全体の感覚がごっそり消えた。
膝が折れかける。
左手で盤の角を掴んで、なんとか立つ。
残りは第7、ただ一つ。
グレムが少しだけ本気の声で言った。
「旦那、今のはだいぶ無茶ですぜ」
「……知ってる」
「死ぬと後味悪いですぜぇ」
「心配の仕方が雑なんだよ」
「旦那にだけは言われたくないですぜぇ」
そして館内の方角から、案内放送が流れた。
> まもなく、クラゲホール特別演出を開始いたします。
正午が近い。
「……引くぞ」
「ケケッ、今回は逃げるんですぜぇ?」
「戦略的後退だよ」
「小物の言い訳ですぜぇ」
「うるさい」
グレムは笑いながら鉄骨の影に消えた。
今回は本当に深追いしてこなかった。たぶん第7の方が本命なのだろう。
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遊歩道へ戻ると、朝比奈さんがベンチの横で待っていた。
海風に髪が揺れている。
その姿を見た瞬間、さっきまでの冷たさと別の意味で呼吸が止まる。
「遅いです」
「……すみません」
「大丈夫ですか?」
「たぶん」
「その言葉、もう信用しません」
「ですよね」
少し笑うと、朝比奈さんは俺の袖を見た。
「また破れてます」
「気のせいです」
「禁止です、それ」
やわらかく怒られた。
「……善処します」
「しない人の言い方ですね」
「よく知ってますね」
「村田さんのことなので」
さらっと言うな。
右腕より先に心臓が壊れる。
「じゃあ、行きましょうか」
朝比奈さんが歩き出す。
その横顔を見ながら、俺は思った。
第6は落とした。
残るは第7だけ。
あとは、水族館のど真ん中で、最後の門を止めるしかない。
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水族館に入ると、青い光がさっきより濃く感じた。
家族連れの笑い声。
子どもの歓声。
ガラス越しの水の揺れ。
全部が平和だった。
そしてその奥、クラゲホールへ向かう通路は少し暗い。
朝比奈さんは、館内に入った途端また目を輝かせていた。
「やっぱり中、きれいですね」
「……そうですね」
「村田さん、今のはちゃんと見てました?」
「ちゃんと見てました」
「よかったです」
その“よかった”が、妙に胸に残る。
クラゲホールへ向かう途中、朝比奈さんが少し声を落とした。
「さっきの続きなんですけど」
やめてほしい。
今それをやるのはやめてほしい。
第7が目の前まで来ている。正午が近い。処理能力の残量がもう危ない。
「……何でしょう」
「やっぱり、なんでもないです」
「え」
「顔が面白かったので」
「ひどいな……」
朝比奈さんが笑った。
「でも」
その声が少しやわらかくなる。
「ちゃんと後で言います」
後で。
その“後で”がある前提で、この人は喋っている。
その一言が、胸に刺さった。
後で。
そこまで、生きていたいと思った。
そこまで行って、この人の“後で”を聞きたいと思った。
『愚かだな』
ゼルヴェクトが静かに言う。
『そうやって増えるのだ。守りたいものという重荷は』
「……知ってる」
今度は声に出さなかった。
朝比奈さんが少しだけこちらを見た。
何か言いかけたように見えたが、追及はしなかった。代わりに、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。
俺に合わせたのだ。
何も言わずに。
クラゲホールの入口が見える。
丸い巨大水槽。
青い光。
人のざわめき。
右手の中で、最後の一点が脈打つ。
第7ゲート。
最終窓が、開き始めていた。
隣で、朝比奈さんがクラゲを見上げていた。
青い光が、その横顔を静かに照らしている。
その顔のまま、正午を越えさせる。
そう決めて、俺は最後の一歩を踏み出した。




