世界は滅ばず、デートは続く
朝比奈ひまりは、まっすぐこちらへ歩いてきた。
青い光の名残をまとったまま。
少しだけ息を上げて。
泣きそうな顔をしているのに、足取りだけは迷っていなかった。
普通なら、少し引く場面だと思う。
だが朝比奈さんは、引かなかった。
俺の前まで来ると、しゃがんだ。
「……怪我してるじゃないですか」
第一声が、それだった。
何を見たのか。
どこまで見たのか。
何が起きていたのか。
そのどれでもなく、まず怪我だった。
「……少しです」
「少しじゃないです」
やわらかい声で、でもきっぱり言い切られた。
今日何度目か分からないが、朝比奈ひまりの「言い切り」は毎回逃げ場を塞いでくる。
朝比奈さんはバッグからハンカチを出しかけて、途中で止めた。
たぶん、さっき使ったものだと気づいたのだろう。
代わりに小さなポーチを開けて、中から絆創膏とウェットシートを取り出した。
「顔、こっち向けてください」
「いや、大したこと――」
「大したことあります」
また言い切られた。
三十八年間、「大したことない」でだいたいの場面を押し流してきた人間にとって、この人の「大したことあります」はかなり強い。
しかも今は、反論するだけの体力が残っていない。
少しだけ顔を向ける。
朝比奈さんの指先が、頬の傷の近くへ来る。
ウェットシート越しなのに、妙に近い。
距離にして数センチ。
それだけで別の意味の心臓が危なくなるのだから、こっちの身体は今日ずっと忙しい。
「しみますか」
「……まあ」
「“まあ”って、しみるときの返事ですよね」
「……そうですね」
素直になるしかなかった。
朝比奈さんは少しだけ唇を引き結んで、丁寧に汚れを拭った。
その手つきが、ひどく慎重だった。
怒っているのではない。
たぶん、怖かったのだと思う。
俺が怪我をしていることが。
さっきまでいなかった場所から、こんな顔で出てきたことが。
その怖さを押し殺して、手だけはぶれないようにしている。
そういう人だった。
「……すみません」
小さく言うと、朝比奈さんの手が一瞬止まった。
「何に対してですか」
答えに詰まる。
何に対して、か。
待たせたこと。
心配させたこと。
嘘をついたこと。
巻き込みかけたこと。
今日一日のほぼ全部に対して。
「……いろいろです」
「ずるい言い方です」
「そうですね」
否定できなかった。
朝比奈さんは、それ以上は問い詰めなかった。
ただ、傷に絆創膏を貼って、それからまっすぐ俺を見た。
「戻ってきましたね」
その言い方は、確認ではなかった。
待っていたものが、ちゃんと戻ってきたときの声だった。
俺は少しだけうなずいた。
「……はい」
「約束、守ってくれたんですね」
胸の奥が、少し遅れて熱くなった。
約束。
あれを、この人はちゃんと約束として受け取っていた。
「戻ります」と俺が言った一言を、その場しのぎの返事ではなく、本当に守るべきものとして持っていてくれた。
「……守るつもりで行きました」
言ってから、自分でも少し驚いた。
今のは、わりと本音だった。
加工していない、素の声だった。
朝比奈さんは少しだけ目を見開いて、それからふっと笑った。
笑ったが、目の赤さは消えなかった。
「そういうの、後から言うんですね」
「……すみません」
「そこも含めて村田さんですけど」
助かるような、助からないような、絶妙な距離の言い方だった。
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少し休んでから、立ち上がった。
正直に言えば、右腕はまだかなり重い。
感覚も半分しか戻っていない。
視界も時々揺れる。
だが歩けないほどではなかった。
朝比奈さんは俺が立つとき、何も言わずに左腕のほうへ回ってくれた。
支えるほどではない。
けれど、もしふらついたらすぐ手を出せる距離にいる。
そういう気遣いを、この人は説明なしでやる。
「……水族館、戻れそうですか」
朝比奈さんが聞いた。
言葉は控えめだった。
でもその中に、「無理なら今日はここで終わりでもいいです」という逃げ道と、「できれば一緒に戻りたいです」という本音が両方入っていた。
俺は少しだけ考えて、それから言った。
「戻りたいです」
朝比奈さんの目が、少しだけやわらかくなった。
「私もです」
その一言に、海風とは別の何かが胸に入ってきた。
世界は滅ばなかった。
それなのに、いちばん「終わった」という実感をくれたのは、朝比奈さんの「私もです」だった。
二人で水族館のほうへ歩き出す。
海沿いの光は何も変わっていない。
風も、空の色も、遠くで聞こえる子どもの声も、さっきまでと同じだった。
なのに、自分の中だけが少し変わっていた。
今までなら、こういう日曜の光景は、ただの背景だった。
人がいて、家族がいて、笑っていて、楽しそうで、自分とは関係ない側の世界だと思っていた。
今は違う。
あの中に、守ったものがある。
その認識はかなり重かった。
重いのに、不思議と嫌ではなかった。
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館内へ戻るころには、クラゲホールの特別演出はちょうど終わったところだった。
青い照明がゆっくり通常モードへ戻っていく。
客も少しずつ流れ始めている。
大水槽の前にはまだ人が多かったが、さっきよりは少しだけ落ち着いていた。
大水槽だ。
朝比奈さんが「大水槽のところにいます」と言っていた場所。
結局そこで待ってもらえなかったのは俺のせいだが、今からでも一緒に見ることはできる。
朝比奈さんは入口の手前で一度だけ立ち止まった。
「村田さん」
「……はい」
「聞かないでおこうと思ってるんです」
少しだけ心臓が止まる。
「何を、ですか」
「さっき、何があったのか」
朝比奈さんは大水槽のほうを見たまま、静かに続けた。
「全部聞いたら、たぶん今の私には受け止めきれない気がします」
その言い方が、すごく正直だった。
分からないふりでもない。
追及しない優しさだけでもない。
自分の限界をちゃんと知ったうえで、今はここまでにしている。
強い人だと思った。
「でも」
少しだけ間を置いて、こっちを見る。
「村田さんが、私を置いてどこかに行ったのは、悪いことのためじゃないっていうのは分かります」
まともに息ができなくなった。
どうして、そうなるのか。
何をどう見たら、こんな不審な行動ばかりの男に対して、そこまで信じられるのか。
「……朝比奈さん」
「はい」
「それ、普通はもっと疑うところです」
「そうかもしれないです」
「じゃあ、なんで」
聞いてから、少し後悔した。
答えを聞くのが怖い質問だった。
でも聞かずにはいられなかった。
朝比奈さんは少しだけ困ったように笑った。
「私、前から見てたので」
「……何をですか」
「村田さんのことです」
あまりにもまっすぐ言われて、返事が消えた。
朝比奈さんは少しだけ視線を逸らして、それからまた戻した。
耳が少し赤い。
「何回も助けてもらいました」
「……」
「何も言わないのに、ちゃんと助けてくれてました」
「……それは」
否定しかけて、やめた。
ここまで来てまだ「たまたまです」で通すのは、さすがに往生際が悪かった。
朝比奈さんはそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
「だから、全部は分からなくても、悪いことじゃないっていうのは分かります」
そこまで言ってから、少し照れたように付け足す。
「好きな人のことなので」
その言い方を真正面から受けて、無事でいられる三十八歳はこの世にいない。
しかも本人にたぶん半分くらい自覚がない。
自覚なく人を追い詰める人間が、いちばん怖い。
「……朝比奈さん」
「はい」
「それ、心臓に悪いです」
言うと、朝比奈さんがきょとんとした。
一秒ほど間があって、意味が伝わったらしく、一気に赤くなった。
「え、あっ、すみません、違っ――違わないですけど、いや、そうじゃなくて」
珍しく言葉が崩壊していた。
そこだけ見れば少し安心する。
この人ばかりが余裕があるわけではないらしい。
「……その」
朝比奈さんは耳まで赤くしながら、小さく息を吸った。
「さっきの続き、言ってもいいですか」
“後で”だ。
歩道橋の階段で、一度聞きかけた言葉。
クラゲホールの前で「ちゃんと後で言います」と言っていた、その続き。
正午はもう過ぎた。
門は開かなかった。
海沿いは普通の日曜のままだ。
だから、うなずけた。
「……はい」
朝比奈さんはしばらく黙っていた。
大水槽の青が、二人の間に揺れている。
イワシの群れが大きく向きを変えて、銀色の光が水槽の壁を走った。
「私」
小さな声だった。
「もう、憧れとかじゃないです」
その言葉は、歩道橋の階段で一度聞いていた。
聞いていたはずなのに、こうして改めて正面から言われると、全然違った。
あのときは横顔だった。
今は正面だった。
逃げ場がない。
ごまかしも利かない。
まっすぐ届いてしまう。
朝比奈さんは、俺から目を逸らさなかった。
「村田さんのこと、ちゃんと好きです」
世界がさっきとは別の意味で静かになった。
水族館の大水槽の前で、二十五歳の後輩が、三十八歳の社畜に向かって、真正面から好きだと言っている。
自分に向けられる「好き」という感情は、村田耕助の人生に最初から入っていなかった。
だから、声が出なかった。
たぶん数秒、固まっていた。
朝比奈さんのほうが先に不安そうな顔になる。
「あの、すみません。今じゃないほうがよかったですか」
「いや」
ようやく声が出た。
喉が変だった。
「今で、よかったです」
言ってから、自分の声に驚いた。
でも嘘ではなかった。
今でよかった。
今日でよかった。
日曜の正午を越えたあとでよかった。
この人が無事で、ここに立っている今でよかった。
朝比奈さんの目が、少しだけ揺れた。
「……それって」
「その」
言葉が続かない。
告白への返答には、社内Wikiにも手順書にも何も載っていなかった。
サーバ障害なら切り分け手順がある。
権限不整合ならログを見ればいい。
だが「好きです」と言われた三十八歳が次に何を言うべきかは、どこにも書いていない。
必死で言葉を探す。
「俺、そういうの、慣れてなくて」
「……はい」
「たぶん、すごく、ちゃんと返せてないです」
朝比奈さんは黙って聞いてくれていた。
急かさなかった。
「でも」
息を一つ吐く。
「今日、終わってほしくなかったです」
それが、今の俺に出せる、いちばん正直な言葉だった。
格好いいことは言えない。
気の利いた返しもできない。
「俺も好きです」とさえ、まだうまく言えない。
情けないと思う。
だが、嘘のない言葉はこれだった。
朝比奈さんの目が見開かれる。
それから、ゆっくりやわらかくなった。
「……はい」
小さく笑う。
泣きそうな顔のまま、笑う。
「私もです」
それで十分だった。
たぶん、いま全部を整った形で言えなくても、これで伝わった。
この人には、これで十分伝わる。
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そのあと、ちゃんと水槽を見た。
本当に、ちゃんと見た。
今日初めて、右手の脈動にも、ゼルヴェクトの気配にも、次の窓にも気を取られずに、目の前のものだけを見た。
クラゲだけじゃなく、大水槽のエイの腹も見た。
ペンギンが水面へ飛び込むのも見た。
アシカの解説パネルも読んだ。
朝比奈さんがウミガメの産卵数にまた足を止めかけたので、「さっき読んでましたよね」と言ったら、「復習です」と返された。
真面目な人だ。
売店にも寄った。
ペンギンのマグカップの前で、朝比奈さんが足を止めた。
「あ、これ。前に見たやつですよね」
「……よく覚えてますね」
「覚えてます」
「買うんですか」
「買いません。でも見ます」
その判断基準はよく分からなかったが、朝比奈さんが目を細めてペンギンのマグカップを眺めている横顔は、クラゲホールで見た横顔と同じくらい穏やかだった。
「村田さんは何か買いますか」
「……いえ」
「ほんとに何も買わないですよね」
「必要なものがないので」
「デートの売店は必要なものを買う場所じゃないですよ」
知らなかった。
三十八年間、知らなかった。
結局、朝比奈さんはクラゲの形をしたキーホルダーを一つ買って、俺はペンギンの絵葉書を一枚買った。
必要ではなかったが、今日の記録として何か一つ持っておきたかった。
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帰り道、海沿いの風は少しだけ冷たくなっていた。
午後の光が傾き始めている。
影が少し長くなった。
歩く速度は、自然とゆっくりになった。
どちらからともなく、急がなかった。
急ぐ理由が、もうどこにもなかった。
駅へ向かう途中で、朝比奈さんが小さく言った。
「今日、すごく大変だったですよね」
ぎくりとする。
だが朝比奈さんは、そこで追及しなかった。
「でも」
少しだけ笑う。
「来てくれて、うれしかったです」
その一言に、胸の底が静かに温かくなった。
今日いちばん欲しかった言葉は、たぶんそれだった。
「……俺も」
少しだけ間が空く。
「来て、よかったです」
朝比奈さんがまた笑う。
その笑い方が、朝よりずっと近かった。
少し歩いてから、朝比奈さんがぽつりと言った。
「次は、もう少しちゃんと水族館見たいです」
「……次」
「次です」
その一言に、足が少しだけ止まりかけた。
次がある。
この人は、次があると思っている。
今日がひどく不可解な一日だったはずなのに、怪我も、消失も、嘘も、全部あったうえで、それでも「次」を言っている。
「……はい」
声が少しかすれた。
「次は、ちゃんと最初から最後まで一緒にいます」
朝比奈さんが少しだけ目を丸くして、それからうれしそうに笑った。
「約束ですよ」
「……はい」
また約束が増えた。
増えることが、こんなに怖くて、こんなにうれしいとは思わなかった。
---
駅で別れるとき、朝比奈さんは改札を入る前に振り返った。
「村田さん」
「……はい」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「あと」
少しだけ照れながら続ける。
「今日、言いたいこと全部言えました」
俺はうなずいた。
「……聞けて、よかったです」
朝比奈さんはそれを聞いて、少しだけ目を丸くして、それから本当にうれしそうに笑った。
「じゃあ、また」
「……はい」
改札の向こうへ消えていく背中を見送る。
日曜の夕方の駅だ。
帰宅する家族連れ。
買い物帰りの人。
部活帰りの学生。
朝比奈さんの背中は、その人波に紛れて、すぐに見えなくなった。
見えなくなってからも、しばらく立っていた。
右腕はまだ少し重い。
頬の傷も痛い。
ゼルヴェクトの気配が完全に消えたわけでもない。
遠くに、薄く、まだある。
たぶん、これで全部終わりではない。
それでも。
今日、世界は滅ばなかった。
七つの門は全部止まった。
朝比奈ひまりは笑って帰った。
俺は“後で”を聞いた。
その事実だけで、胸の奥に静かな何かが残った。
重いのに、あたたかい。
あたたかいのに、少し切ない。
名前の分からない感情だった。
だが、名前が分からなくても、確かにここにあった。
生きていてよかった、と思った。
そんなことを、自分の人生に対して初めて思った。
改札を背にして、歩き出す。
夕方の風が、少しだけ冷たい。
右手はまだ重い。
それでも、足は前に出た。




