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13/13

彼女の日常を守るために


月曜の朝、世界は何事もなかった顔で始まった。


電車は混んでいた。

駅員は疲れた顔でホームを見ていた。

コンビニではおにぎりが補充されていた。

会社のエレベーターは相変わらず一台だけ微妙に遅かった。


東京は滅ばなかった。


昨日の正午、水族館近辺の保守建屋で、異界の最終ゲートは止まった。

朝比奈ひまりは笑って帰った。

それでも月曜の朝は、何事もなかった顔で始まるらしい。


黒崎課長も、変わらず出社していた。


世界というものは、そういうものらしい。

魔王の侵略計画が潰れても、部長は会議に遅れるし、営業はコピー機の前で紙詰まりに負けるし、総務は観葉植物にだけ異様に親切だ。


俺は自席に座って、モニターを立ち上げた。


メール、チャット、申請、障害票。

見慣れた地獄が、今日も寸分の隙なく並んでいる。


少しだけ安心した。

おかしな話だが、安心したのだ。

何もかもが壊れたあとの朝ではなく、いつもの月曜の朝だったから。


右腕はまだ少し重い。

頬の傷は絆創膏で隠してある。

ゼルヴェクトの気配は薄い。完全に消えたわけではないが、昨日までのような圧はなかった。


ただ、ひとつだけ昨日までと決定的に違うことがあった。


企画部の島から、朝比奈ひまりがこちらを見つけた。


そして、ふっと笑った。


それだけで心臓が跳ねた。

侵略ゲートより、この人の笑顔のほうがよほど心臓に悪かった。


「村田さん、おはようございます」


「……おはようございます」


声は一応、普通に出た。

普通に出たはずだ。

だが自分の耳には少しだけ固く聞こえた。


朝比奈さんは何でもない顔で席に着いた。

だがその「何でもない顔」が、昨日までとは違う。


昨日の水族館の続きが、そのまま蛍光灯の下まで来ている。

大水槽の前で言われた「好きです」が、月曜の朝になっても消えていない。


それが分かるから、こっちはまったく普通でいられなかった。


三田村がコーヒー片手にやってきた。


「村田さん、おはようございます。あれ、顔どうしたんすか」


「少しぶつけた」


「日曜に?」


「……日曜に」


「日曜に顔ぶつける三十八歳、だいぶ不器用っすね」


「うるさい」


「うわ、今日は返しが早い」


三田村はそこでにやっとした。


「なんかいいことありました?」


「ない」


「即答」


「ない」


「二回言いましたね」


こいつは時々、無駄に勘がいい。

いや、勘がいいというより、人の顔色を読んで茶化すことに長けているだけかもしれないが、今はどちらでも困る。


「……朝から元気だな、お前」


「いやでも、村田さんのほうが今日はなんか変っすよ。ちょっとこう、死にかけから半分生き返った人みたいな」


「最悪の表現だな」


「でも伝わりますよね?」


伝わるのが腹立たしかった。


---


午前中は、妙に仕事がはかどった。


リンクは弱まっている。

昨日までのような異様な認識精度はない。

だが、完全に元に戻ったわけでもなかった。


画面を見れば、どこに違和感があるかは分かる。

ログを追えば、何が変かも分かる。

それが魔王の力の残滓なのか、昨日まで散々使い倒した感覚が身体に染みついただけなのか、自分でも判別がつかなかった。


結局のところ、自分がどこまで元からできて、どこからが魔王由来だったのか。

その境界は、たぶん一生分からないままだろう。


だが、ひとつだけはっきり分かっていることがある。


朝比奈さんが、仕事の合間にこちらを見る回数が、明らかに増えた。


見る。

目が合う。

少し笑う。

俺が視線を外す。


この一連の流れが、月曜の午前だけで四回はあった。

数えたくないが、数えてしまった。

彼女いない歴三十八年の男は、自分に向けられる好意的な視線に対して極端に脆弱である。


昼休み、人気の少ない休憩スペースへ逃げ込んだ。


缶コーヒーを開けたところで、声がした。


「逃げました?」


朝比奈さんだった。


危うく缶コーヒーでむせるところだった。


「……逃げてないです」


「逃げてます」


言い切られた。

昨日からずっとこの人の言い切りに敗北し続けている。

たぶん一生勝てない。


朝比奈さんは俺の向かいに座ると、コンビニのサンドイッチを机に置いた。


会社の昼休みだ。

水族館ではない。

クラゲもいない。

なのに、昨日の続きの空気がそこにあった。


「顔、大丈夫ですか」


「……まあ」


「“まあ”は痛いときの返事ですよね」


「……はい」


「素直でよろしいです」


少し笑われた。


少し沈黙があった。


休憩スペースの向こうでは、誰かがカップ麺にお湯を入れている。

コピー機の音が遠くから聞こえる。

いつもの会社だ。

なのに、俺の中だけ妙に落ち着かなかった。


先に口を開いたのは俺だった。


「……昨日のことなんですけど」


朝比奈さんが顔を上げる。


「はい」


「少し、考えたんです」


ここで逃げたら、一生逃げることになる。

だから言うしかなかった。


「その……年齢、離れてるじゃないですか」


朝比奈さんは何も言わなかった。

ただ、まっすぐ聞いていた。


「俺、三十八ですし」


「はい」


「朝比奈さんは二十五で」


「はい」


「けっこう、離れてると思うんです」


ようやくそこまで言うと、朝比奈さんは少しだけ首をかしげた。


「知ってます」


「……ですよね」


「村田さん、そこ昨日から変わりました?」


正論で殴られた。


「いや、変わってはないですけど」


「ですよね」


「でも、昨日はその、勢いもあったんで」


「勢いで告白したみたいに言わないでください」


「いや、そういう意味じゃ」


「私、けっこう前から好きでした」


やめてほしい。

そういう直球を、昼休みの会社の休憩スペースで、コンビニのサンドイッチを前に放り込むのはやめてほしい。

こっちは動悸と血糖値の両方が危険域にある。


「だから」


朝比奈さんは静かに続けた。


「年齢のことは、私も最初に考えてます」


「……はい」


「考えた上で、言いました」


逃げ場がなかった。


いや、正確には、逃げ場を作らないように言ってくれているのだ。

やさしいのに容赦がない。

この人は本当にそういう人だった。


「それでも、気になりますか」


聞かれて、少し黙った。


気になる。

当然、気になる。

三十八と二十五だ。

こっちは肩も腰も定期的に痛いし、私服のセンスは壊滅しているし、デートの売店で何を買えばいいかも昨日初めて知った。


だが。


「……気になります」


正直に言った。


朝比奈さんはうなずいた。


「分かりました」


そこで終わるのか、と思った瞬間。


「じゃあ、気にしたまま来てください」


「は?」


完全に間抜けな声が出た。


朝比奈さんは少しだけ笑う。


「気にならなくなるまで待つと、たぶん村田さん、一生来ないので」


「いや……」


「来ないですよね?」


「……否定しづらいです」


「ですよね」


また言い切られた。


そして少しだけ、目をやわらかくする。


「気にしていいです」


「……はい」


「悩んでいいです」


「……はい」


「でも、いなくならないでください」


その一言が、静かに深く刺さった。


いなくならないでください。


恋愛の台詞というより、生存確認みたいな重さがあった。

たぶん昨日のことが、そのまま残っているのだ。

保守建屋の前で座り込んでいた俺の姿が。

戻ってくるか分からなかった数分間が。


「……それは」


ようやく言う。


「たぶん、もう無理です」


朝比奈さんが少し目を見開く。


「無理?」


「昨日のあとで、いなくなるのは……」


喉が少し詰まった。


「それは、たぶん、もう無理です」


言うと、朝比奈さんはほんの少しだけ笑って、それから「よかったです」と言った。


その言葉が、月曜の昼休みの休憩スペースに静かに響いた。


---


午後、席に戻ってモニターを開く。


メールが十二件。

チャットが八件。

障害票が一件。

世界を救った翌日の仕事量としては、なかなかの量だった。


黒崎課長が横を通りかかる。


「村田くん、悪いんだけど、このログの件、今日中でまとめられる?」


「……はい」


条件反射で答えかけて、止まった。


昨日までの俺なら、そのまま飲んでいた。

だが今日は一拍入った。


黒崎課長が怪訝そうに眉を上げる。


「村田くん?」


その瞬間だった。


モニターの端が、一瞬だけノイズを走らせた。


赤い、細い線。

見間違いかと思うくらい短かったが、見覚えのある揺れだった。


頭の奥に、冷たい声が落ちる。


『……働いているな、村田耕助』


止まった。


ゼルヴェクトだ。


圧は弱い。

昨日までのように頭の中を占拠する力はない。

だが確かにいる。

薄く、遠く、けれど消えてはいない。


「……村田くん?」


黒崎課長の声で、意識を引き戻す。


「すみません。そのログ、明日の朝イチまででいいですか」


黒崎課長が少し不満そうな顔をする。

だが、たぶん俺の顔色がまだだいぶ死んでいたのだろう。

少しだけ間を置いてから、「……分かった。じゃあ朝イチで」と言って去っていった。


去っていく背中を見送りながら、頭の中で低い笑いがした。


『人間の上司と交渉する姿も、なかなか興味深い』


「うるさい」


小さく返す。


隣の三田村がぎょっとした顔でこっちを見た。


「え、誰にですか」


「独り言だ」


「今日も多いですね」


「うるさい」


「二連続で食らった」


放っておく。


ゼルヴェクトは、頭の奥で静かに言った。


『門は止まった。だが接続が完全に消えたわけではない』


「だろうな」


『各地に残滓がある。微弱な反応だ。いずれ歪みとなる』


モニターの隅に、一瞬だけ地図みたいなものが浮かんだ。

東京の一点。

それも、会社からそう遠くない場所だった。

小さな残滓ゲート反応。

まだ生き残っている回路の切れ端。


『どうする、村田耕助』


ゼルヴェクトの声が、少しだけ面白がるように響く。


『また定時後に働くか』


「……働くんだろうな」


自分でも呆れるくらい、すんなり出た答えだった。


『愚かだな』


「知ってる」


『昨日までなら、喜んで我が側へ来たものを』


「昨日までと今日は違う」


『何が違う』


その問いに、少しだけ目を上げる。


企画部の島で、朝比奈さんが資料を抱えて廊下を歩いている。

途中でこちらに気づいて、小さく笑った。

何でもない午後の、何でもない笑顔だった。


それを見てから、少し間を置いた。


「……守るものが増えた」


ゼルヴェクトが一拍黙った。


『それは理由か』


「俺にとっては、十分だ」


窓の外の東京。

昼休み明けのオフィス。

コピー機。

営業の声。

観葉植物。

カップ麺の匂い。

鞄の中には、水族館で買ったペンギンの絵葉書がまだ入っている。


守りたいものが増えると、面倒が増える。

昨日、嫌というほど思い知った。

だが面倒が増えたということは、生きている理由が増えたということでもあった。


『……面倒な男になったな、村田耕助』


「元からだろ」


『違いない』


そこで気配が少しだけ遠のいた。


完全には消えない。

だが昨日までの王ではない。

今のゼルヴェクトは、薄いノイズの向こうにいる残響みたいなものだった。


それでも、いずれまた何かを仕掛けてくるのだろう。

終わってはいない。

ただ、形が変わっただけだ。


---


定時後。


朝比奈さんが帰り支度をしているのが見えた。


少しして、こちらへ来る。


「村田さん」


「……はい」


「今日は、あんまり無茶しないでくださいね」


ぎくりとする。


「してないです」


「それ、信用できないやつです」


もう完全に見抜かれていた。


朝比奈さんは少しだけ笑って、それから小さな声で言った。


「次、ちゃんとありますから」


また心臓に悪いことを言う。


次。

次がある。

この人は「次」を途切れさせない人だった。


「……はい」


「約束です」


「はい」


朝比奈さんはそれで満足したらしく、「お先に失礼します」と言って帰っていった。


その背中を見送ってから、俺はゆっくり立ち上がる。


鞄を持つ。

モニターを落とす。

右腕はもうだいぶ動く。

頬の傷も、昨日ほどは痛まない。


頭の中のノイズは薄い。

だが、残滓の位置だけは分かっていた。


会社を出る。


夕方の東京は、昨日と何も変わらない顔をしていた。


人が歩いている。

信号が変わる。

電車が走る。

誰も、今日もどこかで世界の残り火が消されようとしていることなんて知らない。


それでいい。


そのくらいの距離が、たぶんちょうどいい。


駅へ向かいかけたところで、スマホが震えた。


朝比奈さんからだった。


> 朝比奈

> 無茶してないですか


思わず立ち止まる。


早すぎる。

まだ会社を出て三分も経っていない。

この人は監視システムか何かなのか。


返信を打つ。


> 村田

> してないです


数秒で返ってくる。


> 朝比奈

> じゃあ、たぶんしてますね

> (顔見たら分かります)


思わず笑ってしまった。


「なんなんだよ……」


すると、頭の奥でゼルヴェクトが低く笑った。


『フハハ。見事に見張られているな、村田耕助』


「お前は黙ってろ」


『よいではないか。悪くない監視役だ』


「最悪の言い方だな」


『事実だ』


魔王と後輩に同時に監視される三十八歳社畜。

人生設計図のどこにも記載のない状況だった。


そこでまたスマホが震えた。


> 朝比奈

> 帰ったら連絡ください

> 約束です


胸の奥が、静かにあたたかくなる。


残滓ゲート。

薄い魔王。

定時後の保守。

年齢差十三歳。

黒崎課長の朝イチのログ。

問題は山ほどある。


それでも。


たぶん、やっていける気がした。


夕方の街へ足を踏み出す。


世界を壊す側へ行くはずだった社畜おじさんは、今日も定時後に、東京の片隅で小さな異界の残り火を消しに行く。


ただし今は、帰宅報告の義務つきである。


これはたぶん、魔王より厄介だった。




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