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第13話 『シリコンの肌』


 二年生の五月。五月晴れの眩しさが、実習室のワックスの匂いと混ざり合い、妙に鼻につく季節。

 朔たちは「成人看護学演習」の真っ只中にいた。一年次の「基礎」という免罪符は剥がれ、今や一挙手一投足に解剖生理学的な根拠を求められる。今日の課題は、高機能シミュレーターを用いた『全身清拭と寝衣交換』。

 目の前に横たわっているのは、人間そっくりに作られたシリコン製のモデル人形だ。心音も呼吸音も再現でき、瞬きさえする最新鋭機だが、その肌はどこまでも冷たく、無機質な弾力を持っている。


「山島くん、始めて。制限時間は二十分。露出を最小限に、かつ手際よく。患者の安楽を第一に考えなさい」


 担当教員の河野が、ストップウォッチを片手に告げる。朔は「失礼します」と人形に声をかけ、四十五度の温湯に浸したタオルを絞った。


「……山島くん、今日ちょっと顔色悪い? 根詰めすぎじゃない?」


 隣のベッドで、同じように演習の準備をしていた松本さんが、小声で心配そうに声をかけてきた。彼女とは一年生の実習でも同じグループだったが、二年生になってからどこか張り詰めている朔を、彼女なりに気にかけてくれているようだった。


「大丈夫。……手順を確認してるだけだから」


 朔は短く答え、タオルを広げて人形の胸元を拭き始めた。

 しかし、窓の外から差し込む鮮烈な西日が、カーテンの隙間から人形の首筋に落ちた瞬間、指先が凍りついた。

 その、不自然なまでに滑らかなシリコンの質感が、網膜を通して、ある忌まわしい記憶を強烈に引き摺り出した。


 泥酔して帰宅し、化粧も落とさずにソファーで眠りこける母である瑠美。

 その首筋。

 だらしなくはだけた寝衣の隙間から覗く、あの、白粉と脂で塗り固められた「女」の生々しい肌。

 幼い自分を所有物として扱い、その背中に爪を立てて「あんたは私がいなきゃ死ぬのよ」と囁いた、あの指先の温度。


「山島くん、手が止まっているわよ。手際が悪ければ、患者さんは湯冷めする。それは看護ではない、ただの作業よ」


 河野教員の声が、朔の思考の混濁を切り裂く。

 自分の呼吸が乱れているのを悟られないよう、必死に無表情という仮面を被り、機械的にタオルを動かした。拭いても、拭いても、シリコンの肌は消毒液で清潔になるだけで、朔の指先に残る「あのしつこい脂の感触」は、一向に消えてはくれない。


 演習終了後、誰もいなくなった実習室で備品の片付けをしていたとき、松本さんが再び寄ってきた。


「山島くん、さっきはごめんね。集中してたのに声かけちゃって」


 松本さんはモップを動かしながら、少し困ったような、それでいて真っ直ぐな目で朔を見た。


「……いや、こっちこそ。余裕なくて」


「なんだか、二年生になってからの山島くん、すごく『完璧』になろうとしてる気がして。……でも、そんなに全部一人で背負い込まなくてもいいんじゃないかな。私たち、まだ学生なんだし」


 彼女の言葉は、混じりけのない善意だった。けれど、その優しさが今の朔には、土足で心の中に踏み込まれるような不快感を伴って響いた。


 完璧にならなければ、自分は崩れてしまう。


 母である瑠美のあの甘ったるい匂いや、家庭という名の澱みに飲み込まれないためには、自分は「完璧な装置」という名の殻に閉じこもるしかないんだ。


「……ありがとう。でも、俺はこうしてないと、やっていけないんだ」


 そう言い残して、逃げるように実習室を後にした。

 帰り道、夕闇に包まれる街を歩きながら、自分の手のひらを何度も、何度もズボンの布地で擦った。

 二年生になり、知識や技術を詰め込まれるほど、朔は「人間」という存在そのものが怖くなる。肉体という精巧な器の中に、どれほど醜悪な記憶が詰まっているのか。それを暴いていくことの、抗いようのない重圧。


 実家の玄関を開けると、再びあの、甘ったるい匂いが鼻を突いた。

 リビングからは、瑠美の甲高い笑い声が聞こえてくる。


「ねえ、聞いて。あいつ、看護師になるんですって。あんなに可愛げのない子が、人の世話なんてできるのかしらね」


 新しい男に媚を売る、その声。


「……ただいま」


 短く言って、朔は彼女の顔を見ることなく、自分の部屋のドアを固く閉ざした。

 

 朔は、暗闇の中で聴診器を握り締めた。

 耳の奥では、あの「キュッ、キュッ」というナースシューズの音が、逃げ場のない運命を刻むように、重く、低く、鳴り続けていた。

 

 朔は、このシリコンのような冷徹さを、完全に手に入れなければならない。

 母という名の「不潔」に、二度と自分自身の魂を侵食させないために。


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