第12話 『手で洗っても落ちないもの』
二年生、最初の関門。それは「実技試験」という名の公開処刑だった。
一年生の頃の「見守り」という免罪符は剥がれ、今や朔たちは、一挙手一投足に「根拠」を求められる。清潔、不潔、安全、安楽。その四文字が、呪文のように自分の思考を縛り付けていた。
「山島くん、準備は?」
演習室。ベッドに横たわる「模擬患者」を前に、教員がストップウォッチを構える。その冷徹な視線は、指先のわずかな震えさえも逃さない。
今日の課題は『無菌操作を用いた導尿(尿道カテーテル挿入)』。
一ミリの不潔も許されない、文字通り「侵襲」を伴う技術だ。
「……始めます」
滅菌手袋を装着した。
ゴムが皮膚に吸い付く独特の感触。その瞬間、朔は自分の「手」が、自分のものでなくなったような錯覚に陥る。
この手は、患者のプライバシーを侵し、痛みを伴う管を体内に滑り込ませるための、冷酷な器具だ。
ピンセットを握る。消毒液の匂いが鼻腔を突く。
シミュレーターの無機質な外陰部。そこに、躊躇いなく綿球を当てる。
――汚い。
昨夜、リビングで知らない男と酒を酌み交わし、崩れた笑顔を見せていた母・瑠美の姿が、不意に脳裏を掠めた。
彼女の、母の「美しさ」は、不潔な欲望の上に成り立っている。
それに対し、目の前のこの「処置」は、排泄という人間の最も卑近な部分を、徹底した「清潔操作」で管理しようとする、滑稽なまでの闘いだ。
「山島くん。今、カテーテルの先端がシーツに触れなかった?」
教員の鋭い指摘。
朔は息を止めた。
「……いえ、触れていません」
「そう。なら続けなさい。でも、確信がないのなら、それは『不潔』とみなしなさい」
歯を食いしばった。
確信。看護において、それは生命線だ。
「だろう」という甘えが、患者を敗血症に追い込み、死へと導く。
朔は自分の内側にある「瑠美への嫌悪」という私情が、プロフェッショナルとしての判断を濁らせていることに、激しい自己嫌悪を覚えた。
演習が終わった後の廊下。
冷え切った自分の指先を見つめていた。
合格はした。しかし、教員からのコメントは「技術は正確だが、患者への配慮が機械的すぎる」というものだった。
「……機械的。それでいいじゃないか」
朔は独り言をこぼした。
感情を入れれば、あの和代さんのような「歪んだ愛」に呑み込まれる。
感情を殺さなければ、母・瑠美のような「剥き出しの欲望」に汚染される。
自分は、透明な、感情のない「導管」になりたいのだ。
そのとき、廊下の向こうから、特別講義を終えた高倉部長が歩いてくるのが見えた。
彼女は、立ち止まって窓の外を眺めていた。その横顔は、春の西日に照らされ、鋭い稜線を描いている。
朔は、彼女に会釈をして通り過ぎようとした。
しかし、彼女が不意に口を開いた。
「山島くん。……あなたは、自分の手を信じているの?」
足を止める。
彼女は朔の方を見ず、ただ遠くの景色を見つめたままだった。
「……信じようと、努力しています」
「そう。でも、技術で隠そうとしても、あなたの『迷い』は患者に伝わるわよ。……手を洗っても落ちないものは、自分自身で切り開いて、捨てるしかないわ」
高倉は、それだけ言うと、音もなく歩き去った。
彼女は、朔の家庭事情を知っているのだろうか。
それとも、実技演習での「過剰なまでの清潔への執着」が、自分自身の「不潔な背景」からの逃避であることを、見抜いていたのかもしれない。
更衣室。
朔は、自分の手を石鹸で執拗に洗った。
泡が立ち、皮膚が赤くなるまで。
鏡に映る自分の顔を見つめた。
そこには、瑠美に似た目元が、不気味に、しかし確かに存在していた。
朔は、その目を否定するように、強く、まぶたを閉じた。
耳の奥では、あの「キュッ、キュッ」というナースシューズの雑音が、逃れられない運命を刻むように、重く、低く、鳴り続けていた。




