表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

第11話 『二年生』


 四月。桜の花びらがアスファルトにへばりつき、雨に打たれて腐食していく季節。

 朔は看護学校の二年生になった。

 一年生という「客分」の皮を脱ぎ捨て、より専門的で、より容赦のない「各論」の領域へと引きずり込まれる。教科書の厚みは増し、講義の内容はもはや「生命の神秘」などという甘い言葉では括れない、物理的で凄惨な「機能の崩壊」についての記述で埋め尽くされていた。


「二年生の皆さんに、最初にお伝えしておきます」


 講堂の壇上。教務主任が、眼鏡の奥の冷徹な瞳で朔たちを見下ろした。


「一年生の実習は、ただの『体験』でした。しかし、二年生からは、あなたたちの判断一つが、患者の生命維持に直結する。無知は、この世界では『罪』です」


 その言葉は、春のぬるい空気を切り裂き、背筋に一筋の冷たい汗を流させた。

 隣の席では、実習を共にした渡辺美穂が、一年生の頃のあの天真爛漫な笑顔を完全に消失させ、何かに取り憑かれたような形相でノートを取っている。彼女もまた、あの白亜の檻(病院)に魂の一部を喰われた一人だった。

 講義が終わった後の図書室。

 朔は、循環器系の複雑な解剖図と格闘していた。心臓の拍動、弁の開閉、血流の逆流。それらは、母・瑠美が私に浴びせかける罵倒の言葉と同じように、不規則で、制御不能な暴力性を持って迫ってくる。


「……山島くん、まだ残ってるの?」


 声をかけてきたのは、実習で一緒だった松本だった。彼女は、少しだけ大人びた――あるいは、少しだけ「擦れた」表情で朔を見た。


「二年生になると、実習の難易度が跳ね上がるって噂だよ。今度は、ただ拭くだけじゃ済まない。アセスメントが書けなきゃ、病棟から追い出されるって」


「……わかってる」


 朔は、ペンを置かずに答えた。

 追い出される。その言葉が、今の朔には「生存権の剥奪」と同じ意味に聞こえた。

 病院の中にいないときの自分は、ただの「瑠美の付属品」でしかない。あの消毒液の匂いの中にいるときだけが、自分は「山島」という一人の自立した個体として存在を許されるのだ。



 その日の夜、実家に戻ると、玄関には見慣れない男の靴が置かれていた。

 リビングからは、瑠美の嬌声と、安っぽいアルコールの匂いが漏れてくる。

 朔は、自分の部屋へ駆け込もうとしたが、廊下で瑠美と鉢合わせになった。彼女は、肩を剥き出しにしたドレスを纏い、頬を赤く染めている。


「あら、朔。遅かったじゃない。……ねえ、かーくんに挨拶していきなさいよ。今度、私の店を支援してくれるんだって。私の大切な人なんだから」


 瑠美の手が、朔の腕を掴んだ。

 その指先。マニキュアの下に隠された、剥き出しの欲望。

 朔は、彼女の手を振り払いたい衝動を必死に抑えた。ここで感情を爆発させることは、彼女と同じ土俵に降りることを意味する。


「……忙しいんだ。明日の小テストの勉強があるから」


「ふん、相変わらず可愛げのない子。……そんなに勉強して、結局は人の下の世話をするだけでしょ? 本当、誰に似たのかしらね」


 瑠美の嘲笑が、背中に突き刺さる。

 部屋に鍵をかけ、暗闇の中で激しく呼吸を整えた。

 

 ――汚いのは、自分じゃない。

 

 鞄から実習で使った聴診器を取り出し、自分の胸に当てた。


 ドクン、ドクン。


 不規則に波打つ鼓動。それは、朔の内側に潜む「瑠美の血」が、必死に朔の理性を食い破ろうとしている音のようだった。


 翌朝。一睡もできぬまま登校した私は、校門の近くで、一台の黒いセダンが止まるのを見た。

 後部座席から降りてきたのは、看護部長の高倉志津江だった。

 今日は外部講師としての来校だろうか。彼女は、病院で見せる白衣姿とは違う、隙のないグレーのスーツを纏っていた。

 彼女は、校門をくぐる際、偶然にも朔と視線が重なった。

 一秒、あるいはコンマ数秒。

 彼女は何も言わず、ただ、その冷徹な観察眼で朔の「隈の浮いた目」を一瞥した。

 

 それは、励ましでも、心配でもなかった。

 ただ、『お前はまだ、その程度の私情で消耗しているのか』という、無言の断罪だった。

 朔は、彼女の背中を追うようにして、講堂へと向かった。

 二年目の実習、各論、そして国家試験へのカウントダウン。

 

 朔は、ペンを握り直した。

 指先の震えは、まだ止まらない。

 しかし、その震えこそが、自分が「瑠美の息子」から「看護師」へと変貌するための、産みの苦しみであることを、朔は確信していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ