第11話 『二年生』
四月。桜の花びらがアスファルトにへばりつき、雨に打たれて腐食していく季節。
朔は看護学校の二年生になった。
一年生という「客分」の皮を脱ぎ捨て、より専門的で、より容赦のない「各論」の領域へと引きずり込まれる。教科書の厚みは増し、講義の内容はもはや「生命の神秘」などという甘い言葉では括れない、物理的で凄惨な「機能の崩壊」についての記述で埋め尽くされていた。
「二年生の皆さんに、最初にお伝えしておきます」
講堂の壇上。教務主任が、眼鏡の奥の冷徹な瞳で朔たちを見下ろした。
「一年生の実習は、ただの『体験』でした。しかし、二年生からは、あなたたちの判断一つが、患者の生命維持に直結する。無知は、この世界では『罪』です」
その言葉は、春のぬるい空気を切り裂き、背筋に一筋の冷たい汗を流させた。
隣の席では、実習を共にした渡辺美穂が、一年生の頃のあの天真爛漫な笑顔を完全に消失させ、何かに取り憑かれたような形相でノートを取っている。彼女もまた、あの白亜の檻(病院)に魂の一部を喰われた一人だった。
講義が終わった後の図書室。
朔は、循環器系の複雑な解剖図と格闘していた。心臓の拍動、弁の開閉、血流の逆流。それらは、母・瑠美が私に浴びせかける罵倒の言葉と同じように、不規則で、制御不能な暴力性を持って迫ってくる。
「……山島くん、まだ残ってるの?」
声をかけてきたのは、実習で一緒だった松本だった。彼女は、少しだけ大人びた――あるいは、少しだけ「擦れた」表情で朔を見た。
「二年生になると、実習の難易度が跳ね上がるって噂だよ。今度は、ただ拭くだけじゃ済まない。アセスメントが書けなきゃ、病棟から追い出されるって」
「……わかってる」
朔は、ペンを置かずに答えた。
追い出される。その言葉が、今の朔には「生存権の剥奪」と同じ意味に聞こえた。
病院の中にいないときの自分は、ただの「瑠美の付属品」でしかない。あの消毒液の匂いの中にいるときだけが、自分は「山島」という一人の自立した個体として存在を許されるのだ。
その日の夜、実家に戻ると、玄関には見慣れない男の靴が置かれていた。
リビングからは、瑠美の嬌声と、安っぽいアルコールの匂いが漏れてくる。
朔は、自分の部屋へ駆け込もうとしたが、廊下で瑠美と鉢合わせになった。彼女は、肩を剥き出しにしたドレスを纏い、頬を赤く染めている。
「あら、朔。遅かったじゃない。……ねえ、かーくんに挨拶していきなさいよ。今度、私の店を支援してくれるんだって。私の大切な人なんだから」
瑠美の手が、朔の腕を掴んだ。
その指先。マニキュアの下に隠された、剥き出しの欲望。
朔は、彼女の手を振り払いたい衝動を必死に抑えた。ここで感情を爆発させることは、彼女と同じ土俵に降りることを意味する。
「……忙しいんだ。明日の小テストの勉強があるから」
「ふん、相変わらず可愛げのない子。……そんなに勉強して、結局は人の下の世話をするだけでしょ? 本当、誰に似たのかしらね」
瑠美の嘲笑が、背中に突き刺さる。
部屋に鍵をかけ、暗闇の中で激しく呼吸を整えた。
――汚いのは、自分じゃない。
鞄から実習で使った聴診器を取り出し、自分の胸に当てた。
ドクン、ドクン。
不規則に波打つ鼓動。それは、朔の内側に潜む「瑠美の血」が、必死に朔の理性を食い破ろうとしている音のようだった。
翌朝。一睡もできぬまま登校した私は、校門の近くで、一台の黒いセダンが止まるのを見た。
後部座席から降りてきたのは、看護部長の高倉志津江だった。
今日は外部講師としての来校だろうか。彼女は、病院で見せる白衣姿とは違う、隙のないグレーのスーツを纏っていた。
彼女は、校門をくぐる際、偶然にも朔と視線が重なった。
一秒、あるいはコンマ数秒。
彼女は何も言わず、ただ、その冷徹な観察眼で朔の「隈の浮いた目」を一瞥した。
それは、励ましでも、心配でもなかった。
ただ、『お前はまだ、その程度の私情で消耗しているのか』という、無言の断罪だった。
朔は、彼女の背中を追うようにして、講堂へと向かった。
二年目の実習、各論、そして国家試験へのカウントダウン。
朔は、ペンを握り直した。
指先の震えは、まだ止まらない。
しかし、その震えこそが、自分が「瑠美の息子」から「看護師」へと変貌するための、産みの苦しみであることを、朔は確信していた。




