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第10話 『春の断層』


 三月。実習が終わり、学校の講義も一段落した春休み。

 解放感に浸るクラスメイトたちがSNSにアップする、春の行楽の色彩豊かな投稿。それらは、今の自分の網膜を素通りし、どこにも定着することなく消えていった。

 本来なら、一ヶ月近くも拘束された病院から解放され、羽を伸ばすべき時期だ。しかし、指先には、まだあのビニール手袋の感触や、田中さんの皮膚の薄紙のような脆さが、幻肢痛のようにこびりついている。

 自室の机に向かい、教科書を閉じる。そこにあるのは、解剖生理学の無機質な図解と、実習で使い古して端が擦り切れたノートだけだ。


「……朔、いるの?」


 不意に、背後でドアが開く音がした。

 振り返らなくても分かる。母・瑠美だ。

 彼女の纏う、あの重く甘ったるい香水の匂いが、狭い部屋の空気を一瞬で塗りつぶした。三〇五号室で、和代さんの首元から漂っていた「死を覆い隠すための虚飾」と同じ系統の匂い。


「……何」


 朔は椅子から動かずに答えた。

 瑠美は、私の背後に立ち、机の上に置かれた実習ノートを、汚物でも見るような目で見下ろした。彼女の指先は、相変わらず完璧なマニキュアで彩られ、生活の臭いを一切排除した気味の悪い美しさを保っている。


「……休みに入ったのに、まだそんなもの見てるの? 病院なんて、あんなに汚くて、年寄りばかりで、不潔な場所。本当によく耐えられるわね。」


 瑠美の声は、朔の内側にある「看護」という名の、まだ柔らかい殻を無慈悲に踏みにじった。

 朔は、田中さんの、あの温湯に浸された足裏の重みを思い出した。

 瑠美が「不潔」と切り捨てるその場所で、朔は、彼女が決して触れようとしない「人間の剥き出しの真実」に触れてきたのだ。


「……不潔じゃないよ。あんたが塗り固めてるその化粧より、ずっと、潔い場所だった」


 朔の言葉に、瑠美の呼吸が止まった。

 彼女の指が、朔の肩に触れようとして、空中で止まる。かつて、朔を「自分の分身」として抱きしめ、その背中に爪を立てた、あの白く細い指だ。


「……生意気ね。誰のおかげで、そんな大層な学校に行けてると思ってるの」


 瑠美は冷笑を浮かべ、踵を返して部屋を出て行った。

 バタン、というドアの閉まる音。

 それは、ナースステーションで聞いた、あの「拒絶」の音と同じ響きだった。

 外へ出ても、朔の感覚は病棟の規律に縛られたままだった。

 春の陽光が降り注ぐ街角で、すれ違う人々の歩き方や顔色を、無意識のうちに「観察」してしまう。

 あの人は歩行が不安定だ、あの人は貧血気味ではないか。

 

 学生である以上、病院の外で朔にできることは何もない。アルバイトも禁じられ、ただの「無力な若者」として街に放り出されている。その空白が、たまらなく不安だった。

 

 ふと立ち寄った書店のガラス窓に、自分の姿が映った。

 実習着を脱ぎ、私服に着替えたはずなのに、鏡の中の朔は、まだあの白亜の檻の中にいるような、無機質な表情をしていた。

 ふと、廊下の向こうから一人で歩いてきた、看護部長・高倉志津江の姿を思い出す。

 彼女は、実習最終日に朔に言った。


『自分の傷を癒すために患者を使うのは、看護ではなく搾取よ』


 その言葉が、春のぬるい風に乗って、再び朔の胸を抉る。

 自分は、母への憎しみを燃料にして、看護という聖域に逃げ込もうとしていたのではないか。

 

 夜。暗い部屋で、自分の手のひらを見つめた。

 病院の中にいなければ、朔は何者でもない。ただの、壊れた家庭の、壊れた息子だ。

 

 しかし、あの「キュッ、キュッ」というナースシューズの音だけが、自分の心臓の鼓動と重なって、暗闇の中で鳴り続けている。

 

 今の朔にとって看護とは、自分という個を一度殺し、他人の痛みを受け止めるための「器」へと作り替えていく、残酷な再編作業に思えた。

 

 朔は、駅への階段を下りる夢を見る。

 そこには、再びあの白亜の扉が待ち構えている。

 

 四月になれば、自分は二年生になる。

 より深く、より逃げ場のない、地獄の核心へと進んでいく。

 

 その恐怖が、今の朔にとっての、唯一の確かな「生」の予感だった。


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