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第9話 『実習の終わりと、始まり』


 二月最終日。基礎看護学実習Ⅱの最終カンファレンスを終えたとき、ナースステーションの時計は午後四時を回っていた。

 一週間、朔の思考のすべてを占拠していた三〇五号室の田中さんと、その娘、和代さんの存在。それが「実習終了」という事務的な号令一つで、日常から強制的に切り離されようとしていた。


「山島くん、最後。挨拶、済ませてきなさい」


 指導看護師の中野が、電子カルテの画面から目を離さずに言った。その声には、一週間、朔の未熟な立ち居振舞いに耐え抜いた指導者としての、微かな、しかし明らかな「労い」が混じっていた。


「……はい。ありがとうございました」


 朔は中野に深く頭を下げ、最後の巡回に向かった。

 三〇五号室のカーテンを開けると、そこには西日が差し込み、部屋全体が血のようなオレンジ色に染まっていた。

 田中さんは、昨日よりも一層深く、死の淵へと沈み込んでいるように見えた。その呼吸は弱々しく、一定のリズムを刻むことすら忘れてしまったかのようだ。

 和代さんは、いつもの椅子に座っていなかった。彼女は窓際に立ち、沈みゆく太陽をじっと見つめていた。その背中は、完璧に仕立てられたツイードのスーツ越しにも分かるほど、孤独に強張っていた。


「……本日で実習が終了します。田中さん、一週間、ありがとうございました」


 朔の声に、和代さんがゆっくりと振り返った。

 彼女の顔から、あの不自然な「献身的な娘」の仮面は剥がれ落ちていた。白粉の浮いた肌には、拭いきれなかった涙の跡が、乾いた川筋のように残っている。


「……今日で終わりなのね。」


 和代さんの声は、驚くほど低く、掠れていた。彼女はベッドの横に歩み寄り、田中さんの骨張った手に、自分の指を絡めた。


「昨日、あなたが父の足を洗っているのを見て……。私、思い出したの。子供の頃、この人が私の手を引いて、近所の公園まで歩いてくれた時のこと。……あんなに憎んでいたのに、その温度だけが、どうしても捨てられなくて」


 彼女の指が、田中さんの皮膚に食い込む。

 それは愛でも、復讐でもない。自分を縛り付けてきた「過去」という名の鎖を、必死に確認しているような、無残な仕草だった。


「山島さん。……あなたは、お母様を大切になさいね。私みたいに、手遅れになる前に」


 その言葉は、慈愛に満ちた助言などではなかった。それは、自分と同じ地獄に落ちてくるなという、敗北者の呪詛に近い警告だった。

 朔は、自分の内側にある母・瑠美への「拒絶」が、和代さんのこの姿を鏡として、醜く反射しているのを感じた。


「……失礼します」


 朔は何も答えず、深く一礼して部屋を出た。

 田中さんの、あの微かな足裏の熱。和代さんの、あの湿った告白。

 それらをこの部屋に残し、朔は「清潔な廊下」へと踏み出した。

 ステーションの前を通るとき、再び高倉部長とすれ違った。

 中野や主任たちが一斉に姿勢を正し、無言の敬意を捧げる。高倉は、その静寂の中心を、一筋の冷たい風のように通り過ぎていく。

 彼女は、朔の前を通り過ぎる直前、一瞬だけその歩みを止めた。

 

 視線は合わない。

 しかし、彼女の放つ圧倒的な「個」の重圧が、朔の実習服に染み付いた三〇五号室の澱みを、物理的に剥ぎ取っていくような錯覚を覚えた。


「自分の傷を癒すために患者を使うのは、看護ではなく搾取よ」


 小さくも鋭い言葉が耳を貫いた。ただ、その一言が、朔の魂を震わせた。

 朔は高倉の姿を見ることも姿勢を正すこともできなかった。ただ、ただその場に立ち尽くしてしまった。


 更衣室。

 朔は、一週間着古した実習服を脱ぎ、鞄に詰め込んだ。

 ロッカーの鏡に映る自分の顔。そこには、実習初日のような悲壮な高揚感はもうなかった。

 ただ、他人の人生の「膿」を覗き見、自分の傷を再確認しただけの、疲れ果てた一人の男が立っていた。

 病院を出ると、二月の終わりの風は、頬を刺すほど冷たかった。

 しかし、その冷たさが、今の自分には心地よかった。

 

 駅のホーム。

 朔は、スマートフォンを取り出し、母・瑠美の連絡先を表示させた。

 発信ボタンに指をかける。

 ……が、やはり押すことはできなかった。

 

 自分はまだ、あの「足浴の湯」の中に、自分自身の憎しみを溶かす準備ができていない。

 

 電車が滑り込んでくる。

 ドアが開くときのプシューッという排気音。

 それが、病院の自動ドアの音と重なって聞こえた。

 

 看護とは、なんだろうか。

 それは、終わりのない何かなのだろうか。

 朔には答えが出なかったが、まるで他人の絶望を、家族の醜悪さを、そして自分自身の欠損を、一枚ずつ、丁寧に剥ぎ取っていく作業に思えた。

 

 電車に乗り込み、暗い窓ガラスに映る自分の影を見つめた。

 耳の奥では、あのナースシューズの「キュッ、キュッ」という音が、明日からの日常を侵食するように、鳴り止むことなく響き続けていた。

 

 一年目の実習は終わった。

 しかし、「朔」としての物語は、この白亜の檻の記憶を糧にして、より深く、より暗い場所へと、根を伸ばし始めていた。


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