第14話 『レモンの温もり』
五月も終わりに近づき、実習室の窓から見える銀杏の葉が、目に眩しいほどの濃い緑へと染まりつつあった。
先日の演習でシリコンの人形に「母の影」を見て以来、朔の精神は薄氷の上を歩くような危うさを孕んでいた。講義中、講師が語る「患者への共感」や「人間理解」という言葉が、今の自分には、剥き出しの傷口を粗い砂で擦られるような苦痛を伴って響く。
そんなある日の放課後。朔は一人、図書室の片隅で、神経解剖学の分厚い図譜を開いていた。
視神経、迷走神経、仙骨神経。複雑に絡み合うその「線の集合体」として人間を捉えようとすればするほど、自分の心は安らいだ。人間を、感情を持たない「精緻な配線図」だと思い込めれば、あの瑠美の悍ましい指先の感触も、病棟で浴びせられる死の予感も、すべてはただの「信号の誤作動」として処理できるはずだった。
「……また、そんな難しい顔して。脳みそが沸騰しちゃうよ?」
不意に、隣の席にカサリとカバンが置かれた。顔を上げなくても、その少しおっとりとした、それでいて芯の強い声でわかった。
松本さんだ。彼女は、朔の返事も待まわずに、お気に入りのキャラクターがついた筆箱を机に広げた。
「……試験範囲だろ。今のうちに整理しておかないと、実習が始まったら時間がなくなる」
朔はペンを置かずに答えた。冷たく突き放したつもりだったが、彼女は「そうだね」と短く笑って、自分のノートを開いた。
沈黙が流れる。図書室の古いエアコンが吐き出す乾燥した風の音と、ページを捲るかすかな音。
いつもなら、この沈黙すらも「他者の侵入」として拒絶したくなる自分だったが、松本さんの放つ空気は、不思議と朔の棘を逆立てることはなかった。彼女は、ただそこに、朔と同じ「学生」として存在していた。
「ねえ、山島くん。……昨日の演習の後、河野先生に呼び出されてたでしょ。大丈夫だった?」
松本さんが、声を潜めて聞いてきた。昨日の放課後、朔は教員から「技術は高いが、対象への『畏怖』が足りない」と、不可解な指摘を受けていた。
「……別に。いつもの小言だよ。俺のやり方が、学校の理想とする『白衣の天使』像にそぐわないだけだ」
「天使かあ。……そんなの、このクラスに一人もいないと思うけどな」
松本さんは、消しゴムのカスを指先で集めながら、窓の外に目を向けた。
「みんな、何かしら抱えてるよね。……私も、時々、自分が誰の役に立てるのか分からなくなって、怖くなるよ」
彼女の吐露は、意外だった。いつも周囲を気遣い、安定しているように見えた彼女もまた、この「看護」という巨大な濁流の中で、必死に自分の足場を探している。
「……山島くんは、すごく自分に厳しいよね。でも、自分を追い詰めすぎて、心が硝子みたいにパリンって割れちゃったら、患者さんのことも支えられなくなっちゃうよ。……たまには、深呼吸しなよ」
松本さんはそう言うと、カバンの中から小さな飴玉を一つ、朔の教科書の上に置いた。
「これ、糖分補給。私のおまじない」
彼女の指先が、一瞬だけ朔の教科書に触れた。その拍子に、彼女の袖口から、微かに「日向に干した洗濯物」のような、清潔で、どこか懐かしい匂いがした。
瑠美の、あの執拗にまとわりつく香水とは正反対の、呼吸を楽にする匂い。
朔は、黙ってその飴を手に取った。口の中に入れた途端、安っぽいレモンの甘酸っぱさが広がり、自分の強張っていた喉の奥が、少しだけ解けていくのを感じた。
「……悪くない」
ポツリと呟くと、松本さんは「でしょ?」と嬉しそうに目を細めた。
そのときだった。
「……ちょっと、二人で何いい雰囲気になってるのよ。私を置いてかないでよ」
低い、けれどどこか縋るような声と共に、渡辺美穂が対面の席に滑り込んできた。彼女は手にした重い参考書を机に叩きつけるように置くと、大きくため息をついた。
一年生の頃の彼女なら、もっと快活に笑っていただろう。だが今の彼女の目の下には、隠しきれない隈が浮いている。
「渡辺さん。……試験勉強?」
松本さんが尋ねると、渡辺は前髪を乱暴にかき上げた。
「勉強っていうか、もはや呪文の暗記に近いわね。……ねえ、山島くん。さっき河野先生のこと言ってたけどさ。私なんて昨日、『あなたの看護には血が通っていない』って言われたんだから。意味わかんない。血を流さないために勉強してるのに」
渡辺の言葉は、投げやりで、それゆえに本音だった。彼女もまた、あの実習の現場で「生身の人間の重圧」に一度叩き潰され、そこから必死に這い上がろうとして、自分を無機質な理論で武装しようとしていた。
「……俺も、同じようなことを言われた」
朔は、初めて渡辺の目を見て答えた。
「『畏怖が足りない』って。……でも、怖がってたら、何もできないだろ」
「そうでしょ!?」
渡辺は身を乗り出した。
「怖いのよ、みんな。怖くてたまらないから、教科書の文字に逃げ込んでるの。……あんたみたいに、鉄仮面被って完璧にやろうとするのも、本当は怖いからじゃないの?」
渡辺の真っ直ぐすぎる問いに、朔は息を止めた。
そうだ。
自分は、瑠美という「汚濁」に飲み込まれるのが怖くて、その対極にある「清潔な技術」という檻に自分を閉じ込めていた。
「ほら、美穂にもあげる。レモン味」
松本さんが、渡辺の手のひらにも飴を乗せた。
「あ、これ好き。……ありがと。ねえ山島くん、あんたがそんな顔して飴舐めてるの見たら、クラスの女子みんなひっくり返るわよ」
渡辺が少しだけ、昔のような意地悪な笑みを浮かべた。
図書室の窓の外、夕闇が静かに降りてくる。
自分たちは、それぞれが抱える「孤独」や「恐怖」を完全に分かち合えるわけではない。朔は瑠美のことを話さないし、渡辺も自分の不眠を詳しくは語らない。
けれど、こうして三人が、消毒液の匂いのしない場所で、同じ飴を舐めている。その事実だけで、朔の内側に張り詰めていた硝子の壁が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
「……もう一個、もらってもいいか」
朔が言うと、松本さんは「あはは、欲張りだなあ」と笑い、渡辺は「私にも!」と手を伸ばした。
朔にとってそれは救いだった。一人では耐えきれない重圧を、同じ志を持つ仲間と、不器用に、けれど確かに、分け合うことだったからだ。
朔は、レモン味の余韻を噛み締めながら、再び図譜に目を落とした。
文字の列が、さっきよりも少しだけ、冷たさを失っているように見えた。
耳の奥では、あのナースシューズの音が聞こえてくる。
けれどそれは、朔を追い詰める足音ではなく、暗闇を共に行く仲間たちの足音と、静かに重なって聴こえた。




