鍛錬一一強くなるために
翌朝、宣言通り午前五時。
まだ深い紺色に包まれた庭に、木剣を振り下ろす乾いた音が響いていた。
「いーち、にーい、さーん……」
カストルは大きく息を吸い、木剣を振り上げる。
「しーい、ごーお、ろーく……」
その顔には、まだ余裕があった。
「五千回くらい、楽勝じゃ。ワシを誰じゃ思うとるんじゃ」
だが、七十、百と数を重ねるうち、木剣を振る腕が少しずつ鈍ってきた。
「……まだ四千九百回もあるんか」
「数え間違えないでくださいね」
背後からエルダの声が飛ぶ。
「わかっとるわ!」
カストルは振り返らずに叫んだ。
「五千回くらい、きっちり数えちゃる!」
「なら、振ってください」
「はいっ!」
五百回。
「……ご……ひゃく……」
カストルは木剣を下ろした。
「エルダ」
「何ですか」
「五千って、誰が考えた数字じゃ?」
「私です」
「そうか……」
「はい」
「鬼じゃのう……」
「五百一」
「はいっ!」
千回を越えたころには、呼吸はすっかり乱れていた。
額から汗が落ち、木剣を握る手にも力が入りにくい。
(……なんじゃ、これ)
ユニコーンの姿なら、こんなもの屁でもない。
そこで初めて、カストルは思い知った。
(人間の身体って……こんなに動かしにくかったんか?)
「私は朝食の準備をしてきます」
「えっ」
「五千回、終わったら呼んでください」
「いや待て! ワシ一人で五千回!?」
「一人でできますよね?」
「……できます」
「では」
エルダはあっさり背を向けた。
「……」
カストルは木剣を握り直す。
「……見とらんところでサボったら、意味がないじゃろうが」
それからも、ひたすら振った。
腕が上がらなくなっても。
足が震えても。
何度も木剣を落としそうになっても。
そして――
「……四千九百九十八……」
歯を食いしばる。
「……四千九百九十九……」
木剣を振り上げる。
「五千……っ!」
最後のひと振りが空を切り、木剣が地面に落ちた。
その瞬間、カストルの膝から力が抜け、そのまま地面に倒れ込んだ。
「……はぁっ……はぁっ……」
荒い息を吐きながら、カストルは空を見上げた。
身体中が痛い。
ユニコーンの姿に戻れば、この痛みなどすぐに消える。
だが――戻らなかった。
エルダの隣に立つために。
自分自身の力で、強くなるために。
カストルは地面に落ちた木剣へ手を伸ばした。
震える手で、その柄を握りしめる。
すると、少し離れた木陰から、エルダがこちらを見ていることに気づいた。
「……明日も、朝五時からよ」
「……」
「遅れたら、一万回にするわ」
「……一万……!?」
カストルの顔が引きつった。
エルダは、何事もなかったように朝食の支度へ戻っていった。
――そこからの特訓は、容赦がなかった。
人間の姿では、ユニコーンの身体能力をそのまま使えない。
思うように動かない身体に苦しみながらも、カストルは食らいついた。
朝は素振り。
昼は父親との稽古。
疲労で足がもつれても、翌朝になると、また木剣を握った。
そんな日々が、一月ほど続いた。
ある朝。
素振りを終え、汗を拭っていたカストルの前に、父親が一本の剣を差し出した。
「素振りは終わりだ。今日から打ち合いの稽古をする」
カストルは剣を受け取り、ずしりとした重みに目を見開いた。
「鉄ぇ!? いきなり物騒になっとらんか!?」
「これはフェダーだ。刃は潰してある。だが、木剣とは重さが違う。剣を振るなら、その重さも扱え」
「……なるほど」
カストルは剣を握り直した。
そして始まった、父親との打ち合い。
最初は、まともに剣を合わせることすらできなかった。
だが、カストルは覚えが早かった。
足の運び。重心の置き方。剣を振り抜く軌道。
教えられたことを一つずつ身体に叩き込み、それを次の打ち合いですぐに試していく。
失敗するたびに修正し、少しずつ剣が身体に馴染んでいった。
そして、そこからさらに五か月。
――鍛錬を始めて、半年が過ぎた。
父親の容赦ない打ち込みを、カストルは紙一重で受け流した。
そのまま踏み込み、鋭く剣を返す。
父親がそれを受け止めた。
「……ふむ」
父親が剣を下ろす。
「剣に迷いがなくなったな」
「当然じゃ。ワシを誰じゃと思っとる」
カストルは汗だくの顔で、得意げに笑った。
「明日は特訓を休み、街へ買い出しに行ってこい」
「おっ、休みか!」
「エルダの荷物持ちだ」
「……」
父親の許可が出た買い出しの日。
カストルは久々にシャツのボタンをしっかり留め、プラチナホワイトの髪をきちんと整えた。
「イケメンモード」の解禁である。
「待たせたね、マイ・レディ。さあ、この私の優雅な腕に――」
「邪魔。さっさと歩いて」
街道へ出るなり気取ってみせたカストルだったが、エルダの冷ややかな一蹴で、あっけなく「イケメンモード」は撃沈した。
――そして、その帰り道。
街で買い込んだ巨大な小麦袋や野菜の籠を両手に抱え、カストルはエルダの後ろを歩いていた。
連日の修行で蓄積した疲労に、さすがのカストルにも限界が近づいていた。
(……くっ。さすがに、きついのう……)
一歩、踏み出したところで、足元がふらついた。
どさり。
抱えていた荷物が地面に落ち、カストルはその場に膝をついた。
「ちょっと、どうしたの!?」
エルダが振り返る。
すぐさま駆け寄り、カストルの肩を支えた。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃ」
「嘘。顔色が悪いわ」
カストルは歯を食いしばった。
ユニコーンに戻れば、身体はすぐに楽になる。
だが――戻らない。
「……ふぅ。悪い……ちょっと、立ちくらみがしただけじゃ」
「……バカね。無理して人間に化け続けなくてもいいのに」
「……それじゃあ、意味がないじゃろ」
「何が?」
「……なんでもない」
カストルは立ち上がろうとした。
だが、まだ足元がおぼつかない。
「ほら。肩、貸すから」
「……おう」
エルダの肩に手を置かれ、カストルは歩き出した。
隣を歩くエルダを、ちらりと見る。
肩に添えられた手が、妙に意識された。
さっきまでの疲労とは別の意味で、胸が少しだけ騒がしかった。
その後、家に戻ると、母親が淹れてくれた薬草茶を飲み、カストルは自室のベッドで横になっていた。
しばらくして、身体を起こす。
部屋の隅では、エルダが心配そうにこちらを見ていた。
「……もう大丈夫じゃ」
「そう」
エルダは立ち上がり、空になったカップを片付けようとする。
「エルダ」
「なに?」
「……ワシ、半年前よりは強うなったじゃろ?」
「ええ。ずいぶん変わったわ」
その言葉に、カストルの顔がぱっと明るくなる。
「ほんまか!?」
「ただし」
「ただし?」
「まだ私には勝てないでしょうね」
「……」
カストルの目が細くなる。
「……ほう」
「なによ」
「いや。『今はまだ』じゃけえの。それ」
カストルは、いつもの自信満々な笑みを浮かべた。
「そのうち、あんたにも認めさせちゃる」
「……そう」
エルダは小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
だがカストルは、その笑顔を見逃さなかった。
(……今、笑ろうたよな?)
胸の奥が、熱くなる。
今はそれだけで、十分だった。
――それから、さらに幾日かが過ぎた夕暮れ。
庭の隅にある温室の陰で、カストルは木箱に腰掛けていた。
「……ったく。ここ、どうやって巻くんじゃ」
稽古で傷ついた手に包帯を巻こうとしているのだが、どうにも上手くいかない。
何度やっても包帯がずり落ちる。
「……相変わらず手先が不器用ね」
声に顔を上げると、エルダが小さな薬箱を手に立っていた。
「貸しなさい」
「いや、これは自分で――」
「いいから」
「……はい」
カストルが素直に手を差し出す。
エルダは隣に腰を下ろすと、その手を取った。
傷口を確かめ、母親が作った軟膏を薄く塗っていく。
「痛む?」
「……いや」
「本当に?」
「おう」
いつもなら剣を握っている手。
その手を、今はエルダがそっと支えている。
カストルは妙に落ち着かなくなった。
(……近いのう)
ふわりと薬草の匂いがする。
(……いかん。こりゃ、別の意味で心臓に悪いわ)
「……なに?」
「え?」
「さっきから顔が赤いけど」
「いや、その……」
カストルは視線を逸らした。
「……アンタの手が、温かいだけじゃ」
エルダの手が、ほんの一瞬止まった。
「……そう」
エルダはそれだけ言って、再び包帯を巻き始めた。
その横顔は、ほんの少しだけ赤くなっていた。
「ほら、手当て終わったわよ」
「あ……」
エルダの手が離れる。
綺麗に巻かれた包帯を見つめ、カストルは小さく息を吐いた。
「……ありがとな」
「これくらい、別に」
エルダは立ち上がる。
「明日も稽古なんでしょう。ちゃんと休みなさい」
「おう」
去っていくエルダの背中を、カストルはしばらく見つめていた。
そして、包帯の巻かれた自分の手を握る。
(……もうちょっとだけ、頑張ってみるか)
カストルは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……ワシ、もっと強うなるけえ」




