皇帝の誤算と決断
轟くこと雷鳴の如し。
ナイムとホウオウの二大戦力が、皇帝の直衛隊へと突撃していた。
直衛隊はバルドル帝国でも選りすぐりの精鋭。鉄の盾と重厚な槍で、完璧な防衛線を敷いていた。
だが、無駄だった。
先陣を切ったのはナイム。
消えた。
もとい、視覚の限界を超えた速度。
直衛隊の兵士が気づいた時には、彼らが誇る鉄の盾が、十数枚まとめて縦に真っ二つへと切り裂かれていた。刃の通った跡すら見えない。アクドラ最強の剣豪の技。
「はい、お片付け終了。ホウオウちゃん、後は任せたよ」
「受けること風のごとく、突き進むこと嵐のごとし」
ホウオウがさらに加速した。
四天王の指輪による圧倒的ブースト。
折れていない名刀が、空気の塊を弾丸のように放つ。風の剣技。
防衛線を失った直衛隊の兵士たちが、木の葉のように虚空へと吹き飛ばされていった。
一瞬の崩壊。
戦術的な包囲網など、この二存在の前には、単なる紙細工に過ぎなかった。
ついに、天幕の前に辿り着いた二人。
中から出てきたのは、バルドル皇帝、ルドルフ。
彼の前に、ナイムの東方の剣と、ホウオウの名刀がピタリと突きつけられた。
距離、わずか数十センチ。
動けば即座に首が飛ぶ、そんな緊迫。
「……見事なものだな」
ルドルフ皇帝は、冷徹な表情を崩さなかった。
だが、彼の脳内では、すでに敗北のロジックが完成していた。
勝率。
現在のこの状況から自分が生き残る確率、ゼロ%。
個の武力が、軍隊の質量を完全に凌駕した瞬間であった。彼は合理主義者である。無駄な死は選ばない。
「イグドラシルの水晶玉の予知通りですね」
後ろから馬車で追いついたフランシスカが、凛とした声で言った。
白銀の冠が揺れる。
「バルドル皇帝陛下。これでも、まだ戦いを続けますか?これ以上の進軍は、貴方の国の完全な破滅を意味しています。コストの支払いとしては、あまりにも過大ではありませんか?」
「……フン。認めよう。私の計算違いだ」
皇帝は静かに両手を上げた。
撤退の意思表示。
「全軍、撤退だ。国境線まで引き返す。……だが、フランシスカ。これで終わったと思うなよ。世界のロジックは、そう簡単に変わるものではない」
「私たちは、ただ明日を掴みたいだけです」
フランシスカの臆さない解答。
皇帝ルドルフは、悔しそうな表情を微かに見せながら、残った兵を引き連れて西へと去っていった。
四千の質量が、波が引くように退いていく。
イグドラシルの未来予測は、見事に的中したのだ。
ホウオウは剣を鞘に収めると、カバンから干し肉を取り出してもしゃもしゃと食べ始めた。
戦いがお腹を空かせるのだ。自然な理屈である。
「お疲れ、ホウオウちゃん。やっぱり君、可愛いねぇ」
ナイムがホウオウの頭を撫でた。生きた心地がしないほど強い二人の、のどかな会話。
ひとまずの危機は去った。
だが、これが新たなる陰謀の始まりであることを、彼女たちはまだ知らない。
大聖堂の一室。
白い木製の机を囲み、六人の聖女と参謀のシュクレが集まっていた。
バルドル帝国軍の撤退から数日。国境付近は、マリアンヌの部隊が厳重に監視を続けていた。今のところ、不穏な動きは無い。
「ひとまず、勝利と評価出来るでしょう」
シュクレが書類を整理しながら言った。金髪が明るい部屋によく映えている。
「ですが、バルドル皇帝がこのまま引き下がるとは思えません。彼は合理主義者です。次に来る時は、今回の失敗を踏まえ、より完璧な対策を練ってくるはず。例えば、聖女の能力を完全に無効化する道具を用意する、など」
「それは、あのクズ国王と同じ手口ですね」
ミリアムが紅茶を啜りながら、不快そうに眉をひそめた。
「ですが、私たちの連携があれば、どのような対策も陳腐に終わるでしょう。ねえ、フランシスカ?」
「ええ。ですが、油断は禁物です。私たちがすべきことは、戦いの準備ではなく、内政の強化。民が安心して暮らせる国を作ること。それが、最大の防御です」
フランシスカの言葉には一点の曇りも無かった。聖女の器。
一方、西の大陸。バルドル帝国の暗い謁見の間。
皇帝ルドルフが、玉座に深く腰掛けていた。
彼の前に、一人の男が立っていた。
黒い衣服。かつてアクドラで暴れていた「赤い牙」の残党であり、ディジアの右腕だった男、ゲイル。
「皇帝陛下。聖女どもの強さに、さぞ驚かれたことでしょう。個の武力としては、まさに化け物」
「フン。無駄口を叩きに来たのなら、即座に死罪とするが」
皇帝の冷徹な眼差し。
ゲイルはニヤリと笑った。懐から、一本の古びた鍵を取り出す。
「まさか。陛下に、特大の利益を持ってきましたよ。……我が首領ディジアが、生前にアクドラの地下深くで発見した、失われた遺物。『神殺しの魔笛』のありかを示す鍵です」
「神殺しの魔笛?」
「ええ。その笛の音を聞いた者は、聖女であろうとも、一瞬にして魔力を完全に掻き消され、ただの無能な人間へと成り下がる。クズ国王すら知らなかった、失われた超古代の兵器です。これがあれば、あの化け物どもを、ただの肉塊に変えることが出来る。間違ってないでしょう?」
「……ほう」
ルドルフ皇帝の目が、ギラリと輝いた。
ロジックの再構築。
聖女の魔力を無効化出来るのであれば、四千の軍勢で圧殺することは容易。勝率は一気に100%へと跳ね上がる。
「条件はなんだ、赤い牙の残党よ」
「簡単なことっすよ。あの国が滅びた後、奴隷市場の利権をすべて俺たちに譲渡すること。金と力。それだけがあれば、俺たちは満足ですので」
「よかろう。密約は成立だ。すぐにその笛を回収せよ。次こそは、あの女王の首を撥ねる」
闇の中で交わされる、皇帝と悪の密約。
パワーバランスは、再び内側から崩壊しようとしていた。
大聖堂で、ホウオウがもしゃもしゃと乾パンをかじっているその裏で、不穏な陰謀の足音は、確実に近づいてきていた。




