四千の質量
先遣隊は引いた。しかし、安堵の時間は一瞬も与えられない。
地平線の向こう。灰色の空と荒地が交わる境界線から、今度は本物の「壁」が迫ってきていた。
バルドル帝国軍、本隊四千。
先ほどの千人とは、放つ威圧感がまるで違っていた。
砂煙。
圧倒的質量。
鉄の甲冑に身を包んだ歩兵が隙間なく並び、その後ろには巨大な攻城兵器や、魔術を付与された大型の石弓が何台も並んでいる。完璧な布陣。
「これは、本格的な戦争ですね」
シュクレが冷や汗を流しながら、頭の中で高速で計算を行っていた。
勝率。
現在のこちらの戦力で正面からぶつかった場合、いくら聖女たちの個の力が強くとも、数の暴力で押し潰される。勝率は1割にも満たない。アウェーではない、ホームであるはずのこの地が、圧倒的な蹂躙の舞台へと変わりつつあった。
「フランシスカ様、マリアンヌです。敵の本陣、中央に皇帝の気配を感じます。大変な魔力です……クズ国王ほどではありませんが、並の人間ではありません」
マリアンヌが紫水晶を両手で包み込みながら、脳内に直接情報を送ってきた。司令塔としての役割。四天王の指輪によるブーストのおかげで、彼女の索敵範囲はさらに広がっている。
「皇帝自らが出陣している、ということですね」
フランシスカは凛とした表情のまま、一歩前へ出た。
彼女の持っているカードは少ない。治療の能力。しかし、これは味方が傷ついて初めて意味を成すカード。最初から切るべき札ではない。
ならば、どうするか。
「対話を試みます。皇帝の元へ、私が単騎で向かいます」
「正気か!?」
ディークが大声を上げた。水色の髪が揺れる。
「相手は四千の軍勢だぞ。丸腰のレディが近づけば、対話の前に矢の雨で消し炭にされるのがオチだ。そんな無謀な真似、私が許さん」
「ディーク殿の言う通りっすよ。イグドラシル様の水晶で見えた未来には、まだ皇帝との対面は映っていなかったっす。ここでフランシスカ様が落ちたら、作戦そのものがご破算っすよ」
オルエンが軽口を叩きながらも、目は笑っていなかった。
戦況は緊迫している。
だが、フランシスカの意志は揺らがない。
「ミリアム、貴女の魔力はどれくらい残っていますか?」
「ふふ、新参者に心配されるほど落ちぶれてはいませんよ。ディークの指輪から供給される祈りの力のおかげで、ほぼ満タンです。永久機関とはいきませんが、あと数回は大魔術を展開できます」
ミリアムが自信深げに微笑んだ。
「ならば、ミリアム。私の盾になってください。私が皇帝の元へ歩み寄る間、バルドル軍のすべての攻撃を、貴女の魔力で弾き返すのです。ホウオウ、貴女は私の真後ろに」
「分かった。お前が歩く道は、私がすべて平らにする」
ホウオウは干し肉を飲み込み、折れていない名刀を構えた。
無謀。
理想論。
しかし、これこそがフランシスカの戦い方だった。
六つの聖女がここにいる。その事実が、バルドル皇帝にどう響くか。
世紀の不戦交渉が、始まろうとしていた。
バルドル帝国軍の本陣。
巨大な天幕の中で、金の刺繍が施された黒いマントを羽織った男が、書類に目を落としていた。
バルドル皇帝、ルドルフ。
冷酷で知的な、合理主義の塊のような男である。
彼の元に、先遣隊を率いていたゲオルグ将軍が、ボロボロの姿で這いつくばっていた。
「陛下……申し訳ございませぬ。元聖女どもの抵抗が予想以上に激しく、先遣隊は一時撤退を余儀なくされました。奴らは、連携を取っております」
「ふむ。出来損ないのゴミ共が、まとまったか」
ルドルフ皇帝の声には、怒りも驚きも無かった。ただ、淡々と事実を処理しているだけだった。
「クズ国王が聖女を追放し、内政を崩壊させたのは好機だったが……まさか、その聖女たちが手を組んで新たな国を作るとはな。パワーバランスの崩壊だ。放置すれば、我が国の脅威となる。だから潰す。この論理に間違いは無い」
「しかし陛下、奴らの個の武力は尋常ではありません。特に黒髪の娘と、第二聖女ナイムの剣技は、我が軍の重装歩兵でも止められず……」
「数で押せばいいだけだ。一人が百人殺せるなら、千人で囲めばいい。それでも足りねば、四千人全員で圧殺する。それが戦争の基礎だ」
皇帝は冷酷に言い放った。
その時、天幕の外から伝令兵が飛び込んできた。
「報告!敵の陣営から、馬車が一台、こちらに向かって接近してきております!乗っているのは……新たな女王となったフランシスカ、他数名!武器は持っておらず、不戦の意図を示している模様!」
「何だと?」
ルドルフ皇帝が初めて眉を動かした。
丸腰で、四千の軍勢の前に躍り出てくる。
うつけか、それとも。
「面白い。罠の可能性も含めて、迎え撃つ。全軍、石弓の照準をあの馬車に合わせよ。私の合図と共に、一斉に射ち抜け。対話など不要だ」
「お待ちください、陛下」
天幕の影から、一人の男がぬっと現れた。
黒い衣服。顔には大きな傷跡。
かつてアクドラを騒がせ、イグドラシルに敵視されていた「赤い牙」の残党、ディジアの部下だった男である。
「フランシスカをただ殺すのは、金の無駄ってやつですよ。あの女が持っている『聖魔の石』。あらゆる傷を一瞬で癒す奇跡の道具です。あれを奪ってから殺しても、遅くはねぇでしょう?」
「赤い牙の残党か。金で動くお前たちの言葉は信用ならんが……。石の能力が本物なら、我が軍の戦力は無限となるな。よかろう、一度歩みを止めよ。奴らの言い分を聞いてから、すべてを奪う」
皇帝のロジック。
それは、欲という新たな歪みを生み出していた。
外。
フランシスカを乗せた馬車が、四千の兵が構える武器の目の前で、静かに停車した。
張り詰めた空気。
息をすることすら躊躇われるほどの緊迫戦場。
フランシスカが、ゆっくりと馬車から降り立った。白銀の冠が、戦場の砂埃の中で美しく輝いていた。




