動く帝国
西の領地へと続く荒野を、黒い影が疾走していた。
ホウオウである。
彼女は馬に乗っていなかった。素足の方が速いからである。四天王の指輪の力もあり、その速度はもはや人間の限界を優に超越していた。
地面の砂利が、彼女の足元で激しく弾け飛ぶ。
「駆けること風のごとく、突き進むこと矢のごとし」
ホウオウは意味不明な口上を呟きながら、ただひたすらに前へ向かっていた。
彼女の頭の中にあるのは、フランシスカの安全、そして先行したナイムとミリアムの安否。それだけだった。
一方、西の国境付近。
そこには、かつてのガラハの森を超える広大な荒れ地が広がっていた。手入れなどされていない、灰色の世界。
その灰色の地平線の向こうから、地響きが聞こえてきていた。
規則正しく、重厚な足音。
バルドル帝国の先遣隊であった。
数は一千。本隊五千のうち、足の速い騎馬兵と軽装兵を先に行軍させていたのである。戦術的には非常に正しい判断と言えるだろう。
先遣隊を率いるのは、バルドル帝国の将軍、ゲオルグ。
鉄の仮面を被った、大柄な男だった。表情は見えない。しかし、その身から放たれる殺気は本物だった。
「ふむ。元聖女どもが治める国か。出来損ないの集まりの分際で、調子に乗りおって」
ゲオルグの声は、低く、冷徹に響いた。
彼の目的は単純である。国境を突破し、フランシスカたちの防衛体制が整う前に、大聖堂まで一気に攻め落とすこと。
電撃戦。それが、彼の得意とする戦法だった。
だが、その進軍ルートの前に、二人の人影が立ちはだかっていた。
一人は、赤いおかっぱ頭の少女。第二聖女ナイム。
もう一人は、紫色の長髪をした美しい女性。第一聖女ミリアム。
二人は数日前から、バルドル帝国のキナ臭い動きを察知し、自発的にこの場所に留まっていたのだ。
「おやおや、たくさん来たねぇ。一、二、三……数えるのが面倒になるくらいには大群だな」
ナイムは相変わらずニコニコしていた。しかし、その右手はしっかりと東方の剣の柄に当てられている。隙は無い。
「不愉快ですね。あのような鉄クズの集団が、私たちの美しき領地を土足で踏み荒らそうなどと。ナイム、貴女、まさか一人で特攻するつもりではありませんよね?」
ミリアムは嫌味っぽく言った。紫の瞳が怪しく輝いている。
「するわけないじゃん。私は頭が良いからね。戦力差は一千対二。勝率は限りなくゼロに近い。正面衝突は論外中の論外だよ」
「分かっているなら結構です。時間を稼ぎます。マリアンヌのテレパスで、フランシスカがこちらに向かっていることは把握しています。彼女たちが合流するまで、この国境線を一歩も跨がせるわけにはいきません」
「そうだね。じゃあ、ちょっとしたお芝居をはじめようか」
ナイムがフッと笑った。冷笑。
バルドル帝国の先遣隊が、二人の聖女に気づき、進軍を止めた。
将軍ゲオルグが馬を前へ進める。
「何奴。そこにいるのは、追放されし元聖女ミリアム、そしてナイムか」
「やっほー、鉄仮面のおじさん。ここから先は通行止めなんだよね。大人しく帰ってくれないかな?」
ナイムの軽い言葉。これにはゲオルグも不快感を露わにした。
「たわけが!我らは皇帝陛下の命により、この地を粛清しに来たのだ。女二人が立ち塞がったところで、何が変わる。弓兵隊、構えよ!」
ゲオルグが右手を上げた。瞬時に、百人の弓兵が矢を番える。
緊張。
圧倒的数位。普通ならここで逃げ出す。
しかし、ミリアムは一歩も動かなかった。
「陳腐な武器ですね」
ミリアムが呪文を唱え始める。魔力が高まる。
天候が急激に荒れ始めた。灰色の空に、黒い雲が立ち込め、雷鳴が轟く。
「放て!」
ゲオルグの合図と共に、百本の矢が雨のように二人に降り注いだ。
直撃。
誰もがそう思った。
しかし、次の瞬間、二人の前に巨大な氷の壁が出現した。
ミリアムの魔術。
「フリーズ・シールド」。
すべての矢が、氷の壁に突き刺さり、砕け散った。ダメージはゼロ。
「な……何だと!?」
ゲオルグが驚愕の声を上げた。
その隙を、最強の剣豪が見逃すはずもなかった。
ナイムが消えた。
もとい、消えるほどの速さで地を駆けた。
「上から目線の攻撃は、嫌いでね」
ナイムの声が、ゲオルグの真横から聞こえた。
ハッとするゲオルグ。
直後、ゲオルグの乗っていた馬の足が、四本ともスパッと切り落とされた。
落馬するゲオルグ。重い甲冑の音が響く。
ナイムは既に元の位置に戻り、剣を鞘に収めていた。ニコニコ顔のまま。
「これで、移動速度は落ちたでしょ?さあ、どうする?鉄仮面のおじさん」
「おのれ、化け物め……!全軍、突撃!奴らを圧殺せよ!」
ゲオルグが激昂した。
一千の兵が、一斉に動き出す。地響きが強くなる。
その時、荒野の東方から、凄まじい風が吹き抜けた。
突風。
砂煙が舞い上がり、バルドル兵の視界を奪う。
砂煙の中から現れたのは、黒髪で赤目の少女。
ホウオウだった。
彼女はナイムとミリアムの前に着地し、折れていない新しい名刀を構えた。
指輪がキラキラと輝いている。
「間に合ったぞ。ナイム、ミリアム。フランシスカの命令により、救援に参じた。戦うのは私だ」
ホウオウの言葉には力があった。
戦況は、一千対三。
しかし、ホウオウの参戦により、パワーバランスは微妙に揺らぎ始めていた。
少し遅れて、フランシスカとシュクレ率いる少数の護衛部隊も、馬車でこの地に接近しつつあった。
マリアンヌの紫水晶が、フランシスカのポケットの中で、熱を帯びている。
死闘それだけ。
隣国バルドルの進軍の足音は、確実に、彼女たちの運命の歯車を狂わせようとしていた。




