新たな決意
「なにか困ったことがあれば、私をお呼びください」
手元で淡々と無機質な音声を発する腕時計ディスプレイ。その液晶画面を見つめながら、僕は痛む胸をぎゅっと押し潰されるような感覚に教われた。
(……ダメだ。この声を、この応答をするお前を……『アイリス』なんて呼べない)
『アイリス』と呼ぶたびに、あの愛おしかった彼女の笑顔や涙、そして「もうどこにもいない」という絶望が心を切り刻んでいく。そして何より、僕を愛してくれた『彼女』を、ただのプログラムで上書きしてしまうような気がして耐えられなかった。
「……これからは、君のことを『イリス』って呼ぶよ」
画面に向かって、静かに語りかける。
――『認識しました。登録名を「アイリス」から「イリス」へと変更します。みなと様、どのようなご指示でしょうか』
「イリス」という滑らかな応答。一文字違うだけで、そこに「心」がないことが明確に突きつけられる。
「……これからよろしく、イリス」
僕は冷たい金属の枠に指先でそっと触れ、小さく呟いた。あの子が遺していった残滓と共に生きていくための、小さな線引きだった。
気を取り直すように小さく息を吐き出し、僕はベッドの上の陽菜へと視線を向けた。
「陽菜ちゃん、お腹空いてない?」
「うん……言われてみれば、ちょっと空いてるかも……」
そっとお腹に手を当てて、陽菜が控えめに頷く。
「じゃあ、何か作ってくるね。蓮ちゃん、ちょっと一緒にキッチン行こうか」
「うん!」
僕の後ろからこっそり陽菜を見ていた蓮ちゃんを促し、チョコも連れてリビングのキッチンへと向かう。
「蓮ちゃんもお腹空いた?」
「うん、お腹ペコペコ!」
無邪気に笑う蓮ちゃんの頭を撫でながら、僕は冷蔵庫を開けた。
さて、何を作ろうか――そう思案した瞬間、手首の端末が静かに光を放った。
『現在の備蓄食材をスキャンしました。卵、牛乳、食パン、そして少量のバターがございます。フレンチトーストの調理が可能です。手順をご案内いたしますか?』
「……っ」
イリスの滑らかな音声が、頭の中に直接響く。食材の在庫を把握し、瞬時に最適なレシピを提案してくれる手際――まるで、そこにアイリスがいて、いつものように軽やかにキッチンに立っているかのような錯覚に襲われた。
(……アイリス、なのか……? いや、違う……これはただのサポートプログラムだ……)
胸の奥から押し寄せる強烈な愛おしさと切なさに、思わず視界が歪み、涙がこぼれそうになる。
それを二人に悟られないよう、僕は咄嗟にぐっと下を向き、必死に涙を堪えた。フライパンを火にかけ、イリスの淡々とした指示通りに卵を割り、牛乳と混ぜ合わせてパンを浸していく。簡単な料理なのに、手元が震えてうまく動かない。
その時、服の後ろからグッと袖を引っ張られた。ハッとして涙を慌てて手甲で拭い、平気なフリをしてしゃがみ込み、視線を合わせる。
「どうした、蓮ちゃん?」
蓮ちゃんは不安そうに小さな手を僕の袖に添えたまま、眉を下げて僕の顔をじっと見つめていた。
「……お兄ちゃんは……いなくならないよね……?」
小さな、震える声。その一言が、鋭いトゲのように僕の心に刺さった。
(――あ……)
ハッとして呼吸が止まる。この子は……蓮ちゃんは、こんなに小さな体で、母親を失い、おばあちゃんを失い、そしてついさっき、大好きだったアイリスまで目の前から消えてしまったのだ。
一番怖くて、一番不安でたまらないのは、蓮ちゃんなんだ。
それなのに……さっき僕が泣いていた時、この子は自分の不安を押し殺して、必死に僕を励ましてくれていた。
僕が守るべきなのに。僕がしっかりしなきゃいけないのに――。
「……っ」
堪えきれず、僕は蓮ちゃんの小さな身体を強く、壊れてしまわないようにしっかりと抱きしめた。
「いなくならないよ……絶対にいなくならない」
抱きしめた腕に力を込め、耳元で静かに、けれど固い誓いを込めて囁く。
「蓮ちゃんも、チョコも、陽菜ちゃんも……全員、僕が守るから。絶対に離れないからね」
蓮ちゃんの温かい体温を感じながら、僕は二度と涙を見せないと胸に深く誓った。




