初対面
「君は……陽菜ちゃん?」
「え? ……なんで、私の名前……知ってるの……?」
身体をゆっくりと起こす彼女の元へ、僕は刺激しないよう静かに数歩近寄った。
初対面の時に見せたあの取り乱したパニック状態ではなく、今はどこか焦点の定まらない静かな瞳で僕を見つめている。アイリスが言っていた鎮静薬の効果なのだろう。動作が少しだけゆっくりで、ぼんやりとした空気を纏っていた。
「教えてもらったんだ。君の身体を……ずっと守ってくれていた女の子に」
言葉にして口に出した瞬間、ハッと胸を突かれるような思いがした。
(そうか……アイリスは、本当にこの子を守っていたんだ……)
整いすぎているほど美しいこの容姿だ。治安の崩壊したこの世界で、もしAIの防壁がなければ、恐ろしい悪意に晒され、奴隷や商品として弄ばれていたかもしれない。アイリスのプログラムと意志は、その凶悪な世界からこの生身の少女をずっと庇い続けていたのだ。
「そうなんだ……。そんな人が、いたんだね。感謝しなくちゃ……」
そう言って少し首を傾げる陽菜。
目の前にいるのは、間違いなくアイリスと同じ顔立ち、同じ声だ。けれど、コロコロと変わる表情、少し舌足らずで幼さの残る反応――そのすべてが『人間』そのもので、まるで鏡の裏側を見ているような不思議な感覚と、切なさが胸を突く。
「私ね、ずっと施設で育ったんだけど……ある日、知らない大人たちが施設に来てね。その日の夜かな、いつも通りに寝たあとの記憶が全然なくて……気づいたら、ここにいたの。ここはどこ? あなたの家……?」
真っ直ぐに僕へと向けられる無垢な視線。後ろを振り返ると、蓮ちゃんも陽菜が言葉を紡ぎ出した瞬間に「お姉ちゃんじゃない」と悟ったようで、僕の服の裾をぎゅっと掴みながら、こっそりと陽菜の様子を伺っていた。
チョコもどうしていいか分からないといった様子で、蓮ちゃんの足元を右へ左へと落ち着きなくウロウロと巡っている。
「……ここは、僕たちの隠れ家みたいな場所だよ。怖がらなくて大丈夫だ」
僕はゆっくりと陽菜と同じ目線になるように膝をつき、必死に胸の奥の動悸を抑えながら微笑んでみせた。
「僕はみなと。後ろにいるのが蓮ちゃんで、足元にいるのがチョコ。君を傷つけるものは、ここには何一つないよ」
アイリスが守り抜き、僕に未来を託した少女・陽菜。
失った愛おしい存在の面影を目の前にしながら、僕は新しい「守るべき家族」として彼女と向き合い始めていた。
「ホッとした」という表情を浮かべる陽菜の素直な仕草に、ほんの少しだけ胸の緊張が緩む。
だが、次の瞬間に彼女の口から零れ落ちた言葉は、あまりにも無垢で、鋭かった。
「……ねぇ。私は一体、なんのためにここにいるの?」
「っ……」
直接的すぎるその問いに、胸の奥をブレードで突かれたような衝撃が走る。
何のため――。
アイリスだったら、迷いなく「みなと様のデータ採取のため」とか「テロ鎮圧の任務のため」なんて、整った声で答えていただろう。
けれど、目の前にいるこの子は、もうAIに体を渡していない。実験台でもなければ、任務を背負った機械でもない。僕の問いに、僕の都合でここに留まる理由なんて、最初から何一つ存在しないのだ。
「なんのため……だろうな……」
答えに詰まり、重苦しい沈黙が落ちる。陽菜の問いの重さに耐えかねるように少しだけ間を置いてから、僕は絞り出すようにして彼女に問い返した。
「君は……何か、したいことがある? 行きたい場所とか、帰りたい家とか……!」
もし彼女に帰るべき場所や望みがあるなら、僕はそれを全力で叶えなきゃいけない。それが、アイリスからこの子を託された僕の責任だから。
陽菜は少し首をかしげ、鎮静剤の残るぼんやりとした瞳であちこちに視線を泳がせながら、一生懸命に考え込むような素振りを見せた。
「う〜ん……ないかな……。施設も別に楽しくなかったし……戻って、また急に意識がなくなるのも嫌だしね……」
「……そっか……」
ぽつりと漏らした声は、安堵なのか、それとも切なさなのか自分でも分からなかった。自分の行き場所も、生きてきた証も奪われていた少女。
そして、自分の「心」を消してまで、この子に未来を譲ったAI。
行き場を失った僕たちの時間が、この誰も知らない小さな部屋で、静かに、ゆっくりと重なり始めていた。




