覚醒
「……これが、アイリスってことか……?」
ベッドの上で身じろぎした気配に怯えながら、僕は震える手で腕時計型ディスプレイに向かって呟いた。
返事はない。ただ冷たい金属の塊が、そこにあるだけだ。
「……アイリス……?」
恐る恐る、名前を呼ぶ。
直後、ディスプレイの画面がピカリと青く光り、人工的で滑らかな音声がリビングの静寂を切り裂いた。
――『私はみなと様のサポートAI、アイリスです』
感情の乗らない、あまりにも整った機械の音声。それは出会った頃の、あの機能美だけに特化した彼女の声そのものだった。
けれど、もう二度と、あの時のような熱や迷いを含んだ声は返ってこない。みなとは枯れかけたような震える声で、縋るように問いかけた。
「アイリス……お前の、第一優先事項はなんだ……?」
またディスプレイが青く光り、電子音が淡々と告げる。
――『第一優先は、テロの鎮圧、その次がみなと様のサポートです』
違う。そんな答えを、僕は求めていなかった。
「……っ……違う……アイリスじゃない……」
ぽた、ぽた、と。目からあふれ出た涙が、手の中のディスプレイと冷たい床に次々と落ちていく。
アイリスのプログラムがあり、データがあり、そしてあの温もりを宿した身体があるだけだ。
僕が愛した、あの不器用で、一人の女性として自分の意志で涙を流してくれたアイリスの「心」は――もう、どこにもない。
もう二度と、あんなふうに微笑んでくれる彼女には会えないんだ……。
次から次に溢れ出る涙は、拭っても拭っても払い切れない。胸を締め付けられるような激しい痛みに、喉の奥から殺風景な嗚咽が漏れた。
「やっと……やっと好きって言えたのに……。やっと、心から繋がれたのに……なんなんだよ、こんなのって……ないよ……っ!」
すべてを失った絶望に崩れ落ちそうになったその時、背中から温かい小さな腕が勢いよく飛び込んできた。
「おにいちゃん……!!」
振り返ると、蓮ちゃんが小さな手で必死にしがみついていた。この子もまた、不安と恐怖に耐えきれなかったのか、涙をいっぱいに溜めた目で僕を見上げている。
「れんがいるよ! れんがおにいちゃんのそばにいるから……! もう泣かないでよ、おにいちゃん……っ!」
泣きじゃくりながら必死に励ましてくれる蓮ちゃん。そして、その足元ではチョコが「ワン! ワンっ!」と心配そうに声を上げながら、僕の服の裾を引っ張るようにして懸命に駆け寄ってきていた。
真っ赤に腫れた目で二人を見つめ、僕は震える腕を広げた。幼い蓮ちゃんと、愛おしいチョコの温もりを、壊れてしまわないようにそっと優しく抱きしめる。
「……そうだね。ありがとう……」
掠れた声で呟きながら、手のひらで二人の背中を優しく撫でた。
泣いてばかりいちゃいけない。この子たちには、今、頼れる人間なんて僕しかいないんだから。
小さく震える蓮ちゃんの温もりを感じながら、僕は歯を食いしばり、必死に涙を拭った。こんなに幼い子どもたちに励まされ、救われている情けなさと、それでも守らなければならないという強い決意が、ぐしゃぐしゃになった胸の奥で静かに結びついていくのだった。
……んっ……。
その時、ベッドの上から小さな声、布団の擦れる音がして、僕と連ちゃんは突き動かされるように振り返った。
すると、目を瞑っているアイリスの瞼に、そして腕に微かに動きが見てとれた。
「アイリ……」
(いや、違う。この子はもうアイリスじゃない……)
そう思っただけで心が海の底に沈んでいくような絶望感が押し寄せた。だが、声を振り絞る。
怯えさせないように、優しくゆっくりとした口調で話しかける。
「陽菜……ちゃん?」
その言葉に反応したかのように、ゆっくり瞼が開かれた。そして顔がゆっくりこちらに向けられる。
「……あなたは……だれ……?」
ゆっくりとこちらに向けられた瞳。
視線が合って、すぐに悟ってしまった。
この子は、アイリスじゃない。
アイリスの視線は、人間を巧みに模倣しながらもどこか洗練されていて、焦点が定まる瞬間には寸分の狂いも、一ミリのブレもなかった。
だが、いま目の前にいるこの子の瞳は、どこか頼りなげに揺れ、室内を不安そうにあちこちと忙しなく泳ぎ回っている。
脳に刻まれた「心」が失われたという残酷な現実。
胸の奥を鋭い刃物で削り取られるような痛みが走り、心が底なしの海の底へとどこまでも沈んでいく。
(……でも、この子は生きてるんだ。アイリスが命懸けで守り、僕に託した……陽菜ちゃんなんだ)
僕は溢れそうになる涙を必死で奥へと押し込み、強張る表情をなんとか和らげた。
激しい絶望に押し潰されそうになりながらも、怯えさせないよう、できる限り穏やかで優しい声を作って言葉を紡ぐ。
「……僕はみなと。僕が、必ず君を守る」
アイリスが去った世界で、新しい「命」と「想い」が動き出した――。




