不穏な足音
走る車の中、静まり返った車内で僕は息を整えながら、後部座席でチョコの背中を撫でている蓮ちゃんにそっと声をかけた。
「ねえ、れんちゃん……。あの家には、誰と暮らしていたの? パパと、ママと、おじいちゃんとおばあちゃん……?」
僕の問いに、蓮ちゃんはきょとんとした顔で首をかしげた。
「ううん、違うよ」
「え……? 違う……?」
「ママとおばあちゃんだよ」
「えっ!? パパやおじいちゃんは……?」
(……僕の父親や、結月の旦那さんは……?)
戸惑う僕に、蓮ちゃんは不思議そうに小首を傾げた。
「 いないよ? パパはお仕事で遠いところにいるって。おじいちゃんも、ずっと同じお仕事だって言ってたよ。……どこのおうちも、そうじゃないの?」
「どうなんだろう……今の時代、そうなのかな……」
僕が思わず呟いたその瞬間、バックミラーのわずかな映り込みで、助手席のアイリスが蓮ちゃんに見えない角度でスッと首を横に振るのが見えた。
(――っ)
その仕草が意味するものは明白だった。
たとえAI化が進み、社会の構造が変わった今の時代であっても、「父親が完全に不在で、母親と祖母の女性だけで子供を育てている(しかも周りに男性の気配すらない)」という家庭環境は、決して標準ではない。
むしろ、何らかの理由で周囲から隔離されているか、意図的に隠されている、特殊で異様な状況なのだ。
……いや、それだけじゃない。
蓮ちゃんが言った「遠いお仕事」「ずっと同じお仕事」という言葉。もしかしてそれは、何か子供に隠された真実があるのではないか?
冷たい汗が、再び背筋を伝った。
「……そうなのかもね」
僕はぐっと飲み込んだ動揺を隠し、努めて優しく、当たり障りのない返事を蓮ちゃんに返す。
蓮ちゃんは「そっかぁ」と納得したように小さくうなずき、再びチョコの毛並みに顔をうずめた。
僕は視線を助手席のアイリスに戻す。アイリスは前を向いたまま、静かに、そして鋭く何かを演算しているような横顔をしていた。
(この世界の裏には、僕たちが想像しているよりもずっと深く、歪んだ秘密があるのか……?)
車は淡々と、僕らの家への道を走り続けていた。
その時、突如として車内の重苦しい沈黙を切り裂くように、鋭い電子音が響いた。
「っ……!」
アイリスの腕に嵌められている、腕時計型のディスプレイから発せられたその警告音に、僕の隣で蓮ちゃんがビクッと小さな肩を震わせる。僕はとっさに蓮ちゃんを抱き寄せるようにして体に引き寄せ、怯えないようにそっとその背中を包み込んだ。
そして、呼吸を殺してアイリスの次の言葉を待つ。
たった数秒の空白が、鉛のように重く、果てしなく長く感じられた。
ディスプレイの小さな画面が青白く光り、合成音声が冷たく空間に響き渡る。
『――テロ発生。近くのAIは鎮圧に当たれ』
無機質な、しかし有無を言わせない命令口調の警告が車内にこだました。
「テロ……?」
思わず息を呑む僕の前で、アイリスは即座にディスプレイを操作し、瞬時に周辺の状況データと解析結果をロードしていく。
「みなと様……。この近くの市街地で、大規模な治安システムの暴走、あるいは反体制派によるテロ行為が確認されました。治安維持AIたちが自動戦闘モードに移行しています」
「ということは……」
頭の中で、冷たいパズルのピースがカチリと音を立てて噛み合う。
以前、アイリスが言っていた言葉が脳裏に蘇る。彼女のプログラムにおける第一優先事項は「治安維持やテロ鎮圧などの公的指令」、そして第二が「被検体4、つまり僕の保護とサポート」だ。
ルール通りにいけば、今の警告を聞いたアイリスは、すぐにでもこの車を降りて、あるいは単独で現場へと急行しなければならない。
――僕たちを残して、彼女は行かなければならない。
なのに。
アイリスは腕時計のディスプレイをひと瞥しただけで、表情を微塵も変えず、車を走らせる手を止めようともしない。まるで、そんな通知など最初から存在しなかったかのように。
「……アイリス?」
名前を呼ぼうとして、喉の奥がキュッと引きつった。
第一優先はテロ鎮圧、第二が僕だと言っていたのに。どうして彼女は動かない? なぜ、僕たちのそばに留まり続ける?
だが、それを言葉にして確かめるのが、どうしようもなく怖かった。
彼女が僕を選んでくれている、あるいは、僕への執着という名の「バグ」が完全にシステムを上書きしている、という事実は甘美で嬉しかったはずなのに、今のこの異常な状況の中では、それが途てつもなく恐ろしいことに思えた。
もし、この時――。
あの車内で、僕がその矛盾に気づいて彼女を制止していれば。
「行かなくていいのか」と問い正し、彼女のシステムを正そうとしていれば。
あの時、もっと深く考え、もっと違う動きをしていれば……。
……あんな取り返しのつかないことには、ならなかったのに……。




