アイリスの異変
家へ戻ると、アイリスは一言も発さぬまま自分の部屋へと籠り、腕時計型ディスプレイを使って何やら猛烈な勢いでデータ操作を始め外の世界との通信や解析を試みているようだった。
僕は蓮ちゃんとチョコがアイリスの邪魔をしてしまわないよう、リビングで一緒に動画を見たり、犬用のおもちゃでチョコを走らせて遊ばせたりして気を紛らわせていた。
数時間後、ガチャリと扉が開いてアイリスが出てきたが、言葉を交わす暇もないほど手際よく夕食の支度をして机に並べると、僕たちに一瞥もくれず再び自室へと戻っていってしまった。
「おねえちゃん、どうしたのかな?」
蓮ちゃんが不思議そうに首をかしげる。
「お仕事が忙しいんだよ、大丈夫だよ。終わったらまた遊んでくれるから」
「うん! わかった!! ごはんたべたらまたお姉ちゃんとお風呂に入ろうっと!」
「あ、そうだね……」
だが、アイリスの明らかに今までとは違う、冷徹で緊迫した動きや態度が気になって仕方がなく、蓮ちゃんの言葉すらまともに入ってこなかった。
食事すらとらずに部屋に籠もり、いったい何をしているのか。気になって仕方がない。けれど、今のアイリスがまとっている、まるで周囲を拒絶するような頑丈な「壁」のような雰囲気に気圧されて、とても容易に近づくことはできなかった。
やがてお風呂の時間になると、アイリスは再び部屋から戻ってきて、いつものように淡々と蓮ちゃんを風呂に入れてくれた。そして、風呂が終わると一言も話さずにまた自室へと戻ってしまう。
いよいよ寝る時間になっても、アイリスがリビングや寝室に姿を現すことはなかった。
僕はアイリスに声をかけず、蓮ちゃんを自分の布団に入れ、足元で丸くなったチョコと一緒に眠りにつくことにした。
大人一人が抜けただけのベッドは、昨夜のすし詰め状態が嘘のように、意外と広く、そして寂しいほどに余裕があった。
壁一枚隔てた隣の部屋からは、物音一つ聞こえない。
アイリスは本当に、あの部屋にいるのだろうか。もしかしたら、このまま消えてしまうのではないかという悪寒がよぎる。
しばらくして、蓮ちゃんの規則正しい小さな寝息が聞こえはじめ、チョコも完全に眠りについたのを確認した。僕は静かに、そっと布団から抜け出した。
アイリスの部屋へ向かう前に、僕は一度リビングへと向かった。
確か、夕飯のご飯がまだ残っていたはずだ。アイリスの脳には最先端のAIシステムが移植されているけれど、彼女の身体は金属の機械じゃない。僕たちと同じ、血の通った「生身の人間」だ。
いくらAIのロジックが優先されていると言っても、一日中何も口にしていないんだから、身体は絶対に空腹を感じているはずだった。
「……何か食べさせないと」
ラップを広げ、ジャーから温かいご飯をよそう。手際よく料理を作るアイリスとは違って、僕の作ったおにぎりはお世辞にも綺麗とは言えなかった。三角というよりは、なんだか不格好な丸い米の塊。海苔も見当たらなかったので、塩を少し混ぜ合わせただけの、とてもシンプルなものだ。
「……まあ、食べられないよりはマシか」
それと、喉も乾いているだろう。形が不揃いで少し角ばった丸いおにぎりと、冷蔵庫から取り出したお茶をカップに入れ両手に持つ。
少しだけ呼吸を整えてから、僕はひんやりとしたアイリスの部屋のドアの前に立ち、そっとノックをした。
「……はい」
少しの間をおいて、ドアの向こうからアイリスの声が聞こえた。
その声を聞いて、まずはちゃんと部屋にいてくれたんだと、胸の奥でホッと息をついた。
カチャリと静かにドアが開き、アイリスが顔を出す。
「何かありましたか? 蓮様はお休みになられましたか? 申し訳ありません、寝かしつけもせずに……」
数時間ぶりに間近で見たアイリスの顔に、僕は息を呑んだ。そこにあったのは、明らかに疲れ切った生気のない表情と、消え入りそうなほど弱々しい声だった。
AIの処理能力が限界を迎えているのか、それとも生身の肉体が悲鳴を上げているのか――いつもの整った美しさが、どこか今にも壊れてしまいそうな儚さを帯びていた。
「ううん、何もないんだけど……ご飯食べてないから、心配になって」
僕が差し出した手元へ、アイリスの視線が落ちる。
不格好で角ばった丸いおにぎりと、お茶の入ったマグカップ。それを見た瞬間、彼女は僕の意図をすべて察したようだった。
「私のために……ですか?」
「うん。お腹空いてるだろうし、喉も渇いてるだろ?」
「……そうですね。そのようです」
アイリスは自分の胸元にそっと手を当て、どこか他人事のように呟いた。
「いただいてよろしいですか?」
「うん! 上手に作れなかったんだけど……温かいうちにどうぞ」
「……ありがとうございます。立ち話もなんですから、どうぞ」
そう言って、彼女は僕を部屋へと招き入れてくれた。アイリスの部屋に入るのは、ここに来た初日に軽く覗いて以来、初めてのことだった。
小さな室内に、シンプルなベッドと窓があるだけの殺風景な空間。
以前「AIには娯楽などを楽しむ必要がありませんから、寝るためだけの最小限の設備で十分なのです」と彼女自身が淡々と言っていた通りの、無機質な部屋だ。
僕たちは言葉少なげに、二人並んでベッドの端に腰を下ろした。
不格好なおにぎりを手にしたアイリスの横顔を見つめながら、僕は静まり返った部屋の中で、彼女が何を抱え込んでいるのかをじっと窺っていた。




