昨日の余韻
昨夜の甘く温かな余韻が残る中、ゆっくりと目を開ける。隣を見ると、蓮ちゃんとチョコは互いに寄り添うようにして「スースー……」「くぅ……」と心地よさそうな寝息を立てて熟睡していた。
奇跡的に、僕は夜中に床へ転落することなく朝を迎えることができたらしい。クッションの出番がなかったことに少し安心しながら、そっと布団を抜け出した。
静まり返った廊下を抜け、リビングへと足を進める。そこには、やはりいつものようにエプロン姿のアイリスが立っていた。
トントンと軽快に包丁を動かす音、そしてふわりと鼻腔をくすぐる温かな出汁と味噌の香り。朝起きて、この匂いが漂っている生活が、いつの間にか僕にとって「当たり前」の愛おしい日常になりつつあった。
昨夜のキスのことを思い出して少し顔が熱くなりかけたけれど、それ以上に胸を占めていた焦りと期待が口を突いて出た。
「アイリス! 母さんや結月から……連絡、あった!?」
僕の声に、アイリスは包丁の手をピタリと止め、ゆっくりとこちらへ振り返った。
「いえ、ご連絡はありませんでした」
顔を上げたアイリスの口から出たのは、静かな否認だった。
「そうか……」
僕はがっくりと肩を落とし、フローリングの床に視線を落とした。
置き手紙を残してから一晩。僕の筆跡や内容を見れば、母さんや結月ならすぐに僕だと気づいて連絡をくれるはずだと思っていたのに……。連絡が来ないということは、手紙に気づいていないか、あるいは家に戻れない『何か』があったとしか考えられない。
胸の中に、じわじわと重い不安が広がっていく。
「また今日、ご実家へ行かれますか?」
僕の焦りを察したように、アイリスが静かに問いかけてきた。
「うん……そうするよ。その方がいい。もし母さんたちが戻っていれば、蓮ちゃんも無事に家に帰してあげられるしな……」
「はい、かしこまりました。では、出発の準備を整えておきます」
アイリスが短く頷いたその時――。
「あはは! まってー! チョコー!」
「わんっ! わんっ!」
リビングのドアが勢いよく開き、パジャマ姿の蓮ちゃんがチョコと楽しそうに追いかけっこをしながらリビングに飛び込んできた。朝から元気いっぱいの一匹と一人がドタバタと走り回る音で、一瞬だけ重苦しい空気がふっと和らぐ。
「蓮ちゃん、おはよう。ちゃんと起きられたね」
「うん! おにいちゃん、おはよう! チョコね、すっごく速いんだよ!」
無邪気な笑顔を見せる蓮ちゃんの頭を撫でながら、僕は「早く結月たちの元へ帰してあげなくちゃな」と改めて胸に誓った。
◇
アイリスが手際よく盛り付けてくれた和食の朝ごはん――温かい味噌汁とふっくら炊けたご飯、だし巻き卵を三人で囲む。蓮ちゃんはチョコに気を取られながらも美味しそうにご飯を頬張り、賑やかで温かな朝食の時間が過ぎていった。
食事が終わると、すぐに出発の準備だ。
アイリスがドローンで昨日手配してくれた新しい子供服を蓮ちゃんに着せ、髪を綺麗に整えてあげる。
「蓮ちゃん、今日はもう一度、おうちに行ってみようか」
「ほんと!? ママいるかなあ?」
「うん、きっといるよ。行ってみようね」
車へ乗り込むため、僕たちはマンションの重厚なドアを開けた。外は透き通った秋の空気が満ちており、朝日が街並みを鮮やかに照らしている。
敷地内の駐車スペースには、昨日と同じ流線型の自動運転車が静かに待機していた。アイリスがスマート端末を操作すると、電子音とともにスライドドアが滑らかに開く。
「さあ、蓮ちゃん、気をつけて乗ってね」
「はーい! チョコ、おいでー!」
僕が抱き上げる前に、蓮ちゃんは慣れた足取りで車内へ乗り込み、シートの奥へと滑り込んだ。続いてチョコが「くぅ〜ん」と鼻を鳴らしながら、蓮ちゃんの隣の座席へ飛び乗る。
最後に僕とアイリスが乗り込むと、ドアが静かに閉まり、車内は外界の音から遮断された静寂に包まれた。ダッシュボードにハンドルは格納されたままで、パネルに鮮やかな走行ルートが浮かび上がる。
「ご実家へ向けて発進します」
アイリスの穏やかな声とともに、車は静かに滑り出し、再び昨日の実家がある街並みへと走り出した。
蓮ちゃんは後部座席でチョコの背中を撫でながら、ワクワクした様子で流れる車窓の風景を眺めている。隣に座るアイリスとそっと視線を交わすと、彼女は「大丈夫です」と言わんばかりに小さく頷いてくれた。
(母さん、結月……頼む、家にいてくれ……!)
僕は祈るような心地で、遠ざかる景色の中に目を凝らしていた。




