蓮ちゃん
浴室の方からシャワーの音が聞こえ始める。
……考えてみれば、アイリスがお風呂に入るのは初めてのことだ。普段は完璧で感情の読めない彼女が、今、浴室で蓮ちゃんの体を洗ったり、髪を拭いたりしている。
(あれ……? てことは、 アイリスは今、裸……!)
「いやいや、何を考えてるんだ僕は……!」
リビングのソファで一人、頭をぶんぶんと振って雑念を追い払おうとする。
シャワーの音や、浴室から時折聞こえてくる「わぁ、目に入る!」「入らないよう気をつけるので大丈夫ですよ」というような二人の話し声。何を言っているかまでははっきり聞き取れない部分もあるが、声が響くたびに心臓が変な跳ね方をして、どうしてもソワソワと落ち着かなくなってしまう。
(もし、もしもだぞ……? 何かハプニングが起きて、「みなと様! ちょっと来てください!」なんて叫ばれたら……それはもうお風呂場に駆けつけるしかないし、覗かないわけにはいかない。そうすると、必然的にアイリスの……その、アレを目にしてしまうかもしれないが、それは緊急事態における不可抗力であって、仕方のないことであって……っ!)
そんな、誰の共感も得られなさそうな不純すぎる言い訳や、王道のラノベ的シチュエーションを頭の中で必死に妄想し、悶々とその時を待っていた。
だが――。
人生、そうそう都合よく美味しいハプニングが起きるわけがない。
ガチャリ、と浴室のドアが開く音がして、直後に「タタタタ……」と軽い足音が聞こえてきた。
「おにいちゃぁ〜ん!」
ひょっこり顔を出したのは、お風呂上がりですっきりと髪を濡らし、パジャマ代わりの大きなタオルに包まれた蓮ちゃんだった。その可愛らしい足音が、まっすぐこちらに向かって走ってくるのだった。
「ちょっと……!! 蓮様っ!! まだちゃんと身体が拭けてな……!!」
珍しく慌てたようなアイリスの声が追って聞こえてくる。あの万能で完璧なアイリスがバタバタと子供の後を追いかけているなんて、やっぱり子供の予測不能な動きには超高性能AIすら圧倒されるらしい。
(あれ……!? 蓮ちゃんがバスタオル姿ってことは、もしかして追ってきたアイリスも……裸にバスタオル一巻なのか……!?)
ドクン、と鼓動が急速に跳ね上がる。僕は期待と邪心と冷汗を混ぜこぜにしながら、おそるおそる浴室側のドアへ視線を向けた。
すると、ドアの影から蓮ちゃんと同じようにひょっこりとアイリスの顔が覗いた。
……その服は。
もちろん、バスタオルなどではなく、ちゃんと濡れても平気そうなラフなパジャマ風ワンピース姿だった。
(あ、ですよねー……そりゃそうですよねー……)
ほんの少しだけ……いや、かなりガッカリした気持ちを隠しつつ、僕は走ってきた蓮ちゃんの身体をバスタオルで優しく拭きながら、苦笑いを浮かべた。
「ははっ、アイリスもたじたじだな」
「申し訳ありません、みなと様……! 蓮様の運動予測データが不十分で、こちらの想定通りにコントロールできず、ご迷惑を……!!」
アイリスは本気で落ち込んだように肩を落としている。完璧主義の彼女にとって、子供の気まぐれなダッシュは未知のバグみたいなものなのだろう。
「いーのいーの、このくらい。……僕の可愛い姪っ子だしな」
「めい? ちがうよ、れんや、だよ!」
バスタオルに包まれたまま、蓮ちゃんが僕の顔をくりくりとした大きな瞳で見上げて、不思議そうに首をかしげる。その無邪気で愛くるしい姿に、胸がキュンとなって思わずぎゅっと抱きしめたくなってしまう。
「そうだね、れんやちゃんだったね」
「うん! れんやだけど、たまにママたちに『れん』ってよばれるよ!」
「そっかそっか。じゃあ、蓮ちゃんだね」
頭を撫でてやると、蓮ちゃんは嬉しそうに「えへへ」と笑った。
その微笑ましいやり取りを、自分の髪を拭きながら見つめ、アイリスはどこか安心したように、いつもの静かで温かな微笑みを取り戻していた。




