自由
車内へと乗り込んだものの、まだ不安で涙ぐんでいるれんや君を落ち着かせるため、僕は助手席のディスプレイに視線を向けた。
「ねえ、れんや君。何か好きな動画、観るかい?」
「……うん……」
アイリスに操作を頼むと、彼女は手際よくディスプレイに小さな子供向けの映像を映し出した。軽快な音楽とともに画面でキャラクターが歌い踊り始めると、れんや君の濡れた瞳がパッと輝く。
「あ……!」
しばらくすると、れんや君は画面に合わせて小さな手をパチパチと叩き、一緒に歌い始めた。さっきまでの怯えた様子が嘘のように、少しずつ表情がほぐれていく。
その無邪気な姿にホッと胸を撫で下ろしながら、僕は急速に冷静さを取り戻した頭で、ふと重大な疑問に気づいた。
「あれっ!? 僕たち、れんや君がいた実家でそのまま待ってた方が良かったんじゃないの!?」
僕が慌てて尋ねると、アイリスは運転席のハンドルから手を離さぬまま、静かに首を横に振った。
「いえ、それは難しいと思います」
「え? どうして?」
「この時代の一般家屋のセキュリティは非常に厳格です。登録されていない外部の人間が室内で一定時間滞留していると、不審者であると自動判定され、直ちに最寄りの警備システムや治安当局に通報される仕組みになっていますので」
「そ、そうなんだ……じゃあ、あのまま居続けたら僕たちが捕まってたってことか。結果的に……良かったのかな……」
冷や汗を拭いながら、僕はもう一つの疑問を口にした。
「なあ、アイリス。母さんとか、結月の位置情報ってやっぱり分からないのか?」
「AIチップを生体内にインポートしている人間であれば、美琴様のように現在地の特定が可能ですが――お母様も結月様も、そして、れんや様もチップは非装着でいらっしゃいます。おまけに、お持ちの通信端末からも位置情報が外部へ通知されないプライバシー設定にされているようです」
「そうか……じゃあ、あそこに置き手紙をして、向こうからの連絡を待つしかないんだな」
「ええ、現時点では……」
「あれ……!?」
そこまで考えて、僕の背筋にゾクリと冷たいものが走った。
「ちょっと 待ってよ……これって……もしかして『誘拐』なんじゃ……!?」
「そうですね。客観的に見れば、そうなりますね」
アイリスは驚くほどあっさりと頷いた。
「ええっ!? あっさり言い切るの……っ!?」
「だって、みなと様はご自身の『叔父』であると名乗ることもなさらず、ただ置き手紙を残したのみです。ご家族が家に戻り、あの書き置きを発見しない限りは、完全に『見知らぬ男による子供の連れ去り=誘拐事件』として処理されるでしょうね」
「ちょっ……!? なんでそんな涼しい顔で言えるのさ……!! 警察とか追っ手とか来たらどうするんだよっ!」
血の気が引く僕の隣で、アイリスは相変わらず穏やかな微笑みを崩さないまま、滑らかに車を走らせ続けている。
「誘拐にせよ何にせよ、ご家族が通報されなければいいのです。ご家族が通報しない限りは事件として扱われないのですから」
「はぁー……」
思わず、今日一番の深いため息が口から漏れた。
この被検体4としての身体になってからというもの、表向きはこうして自由に外出させてもらってはいる。けれど……まさか『未就学児の連れ去り=誘拐』という絶大な犯罪行為すら事前に止めてくれないなんて。
自由というか、放置というか、あまりにも野放しすぎるだろ……。
(というか、アイリス……。普段は『プロトコル』だの『セキュリティ危険度』だのうるさく言ってくるくせに、こういう法に触れるギリギリの時だけ『そうですね』って涼しい顔でスルーするの何なんだよ……!)
チラリと隣を見れば、彼女は綺麗に折り畳まれた膝の上に静かに手を重ね、前方を優雅に見つめているだけだ。当然、運転席にあるはずのハンドルはダッシュボードの中にすっぽりと格納されており、車は完全な自動運転でスムーズに夕闇の街を滑走している。
だが僕は、もし警察やセキュリティロボットに囲まれたらどうしよう、という冷や汗が止まらない。
当のれんや君はといえば、僕のそんな生きた心地もしないパニックを他所に、ディスプレイの楽しげなアニメに夢中になって「あはは!」と無邪気に笑っている。
「……はぁ。まあ、もう連れてきちゃったものは仕方ないか……。とにかく、母さんか結月が早く手紙に気づいて連絡してくれるのを祈るしかないな」
僕はシートに背中を預け、胃が痛むのを抑えながら天を仰いだ。
「ご安心ください、みなと様。もし万が一、警察や治安維持システムに追跡された場合は、私の権限で通信をジャックし、追跡を一時的に迂回させるプロトコルを実行いたします」
「そういう問題じゃないんだよ……! 犯罪の揉み消しスキルを誇られても困るんだけど!?」
アイリスのどこかズレた、けれど頼もしすぎるフォローにツッコミを入れつつ、僕はアイリスの通信端末が鳴るのを、祈るような心地で待つしかなかった。




