変わらないもの
「ねえ君っ!!」
僕は思わず声を張り上げ、裸足で飛び出してきた男の子の元へと夢中で駆け寄った。
「危ないよ! 一人で外へ出たら……! 今の時代、治安だってすごく悪いのに……」
かがみ込んで目線を合わせると、男の子は大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、僕を見上げて訴えてきた。
「ママとおばあちゃんが、帰ってこないんだよ!!」
「ええ……!? いつもはこの時間に帰ってくるの?」
「うん!! ずぅっと待ってるのに……全然帰ってこないんだよぉ!」
必死に涙を堪えようとしゃくりあげる声に、胸が痛む。その時、後ろからアイリスの静かで切迫した声が飛んだ。
「みなと様! 早くしないと完全に日が落ちてしまいます!!」
「わ、分かってる……!! 分かってるけど……っ!」
このまま放っておけるはずがない。でも、どうしたら――焦りで思考が空回りしそうになった瞬間、ひらめきが頭を駆け抜けた。
「あ!! ねえ! ボク! ちょっと家に上がっていい!?」
「え? うん……」
ポカンとするその子の手を引き、僕は急いで実家の玄関をくぐった。
二十年の時が流れても、家の中の間取りは僕が暮らしていたあの頃とまったく同じだった。だからこそ、この子に案内されずとも、迷うことなく吸い込まれるように奥のリビングへと足を踏み入れることができた。
室内を見渡すと、そこには懐かしさと見知らぬ異質さが同居していた。
かつて僕たち家族の写真が並んでいた棚には、無機質な小型の環境管理デバイスや充電ポートが整然と置かれている。壁紙や床の木目は綺麗にリフォームされているものの、柱の傷や窓の配置、ダイニングテーブルの置かれた場所は僕の記憶にある「我が家」のままだ。
キッチンには、昔母さんが愛用していたのと同じデザインのマグカップがひとつ、ポツンと洗い場に残されていた。生活の温もりが微かに残る中で、無機質な介護・生活支援ロボットがカタカタと静かな動作音を立て、居間の隅で待機している。
(面と向かって会って話しても……僕が息子だと、兄だと、あの二人にはわかってもらえないかもしれない。でも、これなら……!)
僕はリビングの棚をかき分け、記憶の場所にあったメモ帳とボールペンを引っ張り出すと、それをダイニングテーブルの上にバッと広げた。
「君! 名前は?」
「れんや……」
「れんや君だね! よし、わかった!!」
追って家の中に入ってきたアイリスが、僕の手元の動作に不思議そうな視線を向ける。
「顔を見ても今の僕は昔の僕じゃない。もちろん声も……だから電話で話したって、急に『湊だ』なんて言っても信じてもらえないだろう。でも、これならどう!?」
僕はボールペンを握り締め、白紙のメモ用紙にサラサラと勢いよく文字を滑らせた。
『れんや君が一人で不安になっているので、一旦連れて行きます。帰ったらこちらに連絡してください。
湊より。』
アイリスの連絡先を教えてもらい用紙に付け足した。そして、アイリスに向かって力強くニッコリと微笑みかけた。
「声も顔も違っても、僕の意思で動かすこの手は、昔の筆跡と同じはずだ!! 母さんと結月なら……僕のこの字を見れば、絶対にわかってくれるはずだ!」
「すごいです! みなと様……!!」
アイリスの目が見開かれ、その整った顔に、今までに見たこともないような素直な驚きと、どこか輝くような喜びの表情が浮かんだ。いつも淡々と感情を削ぎ落としたように微笑んでいた彼女が、僕の思いつきに心から感嘆してくれている。
その表情を見た瞬間、胸の奥から温かい誇らしさがこみ上げてきた。
「よし! 行こう!!」
僕は力強く言い、小さなれんや君の手をしっかりと握り直し、玄関の扉を開けて外へ出た。
すっかり日は傾き、辺りには濃密な紫とオレンジの影が落ち始めていた。冷たくなり始めた夕風が吹き抜ける中、路地にはすでにアイリスが手配してくれた自動運転車が静かに滑り込み、ハザードランプを点滅させて待機していた。
「さあ、れんや君、乗って!」
僕たちは急いで車内へと滑り込む。自動ドアが重厚な音を立てて閉まり、外界の冷気と危険から僕たちを遮断した。車がゆっくりと発進し、夕闇に飲み込まれていく実家が車窓の後方へと遠ざかっていく。
不安そうに僕の服の裾をキュッと握りしめるれんや君の小さな手を感じながら、僕はテーブルに残してきたあの置き手紙のことを思っていた。
(母さん、結月……頼むから、僕の文字に気づいてくれ……!)
車内を包む柔らかな室内灯の下で、隣に座るアイリスが僕とれんや君を、どこか温かな眼差しで見つめていた。




