出かける覚悟
翌朝、目を覚ますと、すぐ隣でチョコがすやすやと心地よさそうな寝息を立てていた。その愛らしい寝顔を起こさないよう、慎重に布団をめくってそっとベッドを抜け出す。
ドアを静かに閉め、リビングへと向かうと、そこには朝の光を浴びながら手際よく朝食を用意するアイリスの姿があった。
トントン、とまな板の上で響く小気味よい包丁の音。そして、お鍋からふわりと漂ってくる出汁と味噌の芳醇な香り。
(……新婚さんって、こういう感じなのかな)
ふと頭に浮かんだそんな想像に、胸の奥がくすぐったくなって頬が熱くなるのを感じた。
「おはようございます、みなと様」
僕の足音に気づいたアイリスが、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて振り返る。
「おはよう、アイリス。すごくいい匂いだね」
「ありがとうございます。今日は終日、晴れの予定になっておりますよ」
「そっか。窓の外も綺麗な青空だもんね」
爽やかな光が差し込む部屋でそんな会話を交わしていると、昨日の重苦しい出来事がまるで嘘だったかのように錯覚してしまう。だが、アイリスは盛り付けの手を止めずに、静かに本題を切り出した。
「それと……被検体1の専属AIから連絡がありまして、本日お会いできるとのことです」
「え……っ、そうなの? 早かったね!」
「ええ。お互いに時間の都合がつきやすい状況でしたので、速やかに調整いたしました」
あまりの手際の良さに感心しつつも、思わず苦笑いが漏れる。専属AIたちの手配の早さには毎回驚かされるけれど、考えてみれば僕たち被検体には決まった仕事も学校もない。毎日が自由時間のようなものだから、予定なんていつでも空いているのだ。
「被検体1」は、一体どんな人物なのだろう。
丈一郎さんのような悲劇を二度と繰り返させないためにも、僕は気を引き締め直しながら、アイリスが作ってくれた温かい味噌汁に手を伸ばした。
「そうちゃんに、被検体1と会ったことがあるか聞いておくべきだったな……」
朝食を食べ終え、出かける準備をしながらぽつりと呟いてしまう。
そうちゃんのあの鋭い観察眼があれば、何か有益な情報を事前に掴めていたかもしれない。丈一郎さんは生前、「話し相手にならないヤツだった」と言っていたけれど……そうちゃんの「冷たく見えるAIにも心がある」という見立てを知った今となっては、丈一郎さんの言葉をそのまま鵜呑みにすることはできなかった。
感じ方は人それぞれだ。自分の目で見て、直接話してみるまでは分からない。
今回の訪問には、チョコを留守番させることにした。どんな相手かもわからない上に、昨日黒AIドローンに襲われたばかりだ。連れて行ってもしものことがあったら取り返しがつかない。
「くぅ〜ん……」
留守番を察したチョコが、僕の足元に体を擦り付け、甘えた声を出す。
「ごめんな、チョコ。危険な目にあわせたくないんだよ……すぐ帰ってくるからね」
頭を撫でながら申し訳なさそうに言うと、チョコはまるで言葉を理解したかのように一度「くぅん」と小さく鳴き、僕の足元からトコトコと離れてリビングのクッションへ戻っていった。
(本当に賢い犬だな……)
愛おしさと少しの寂しさを胸に抱きながら、僕とアイリスは家を出た。
自動運転の車に揺られながら、僕はふと、家に残してきたチョコのことが猛烈に心配になった。
「……チョコ、大丈夫かな。あんな風に一人で家に残して留守番させるの、初めてだし……」
黒AIの襲撃があったばかりだ。万が一のことがあったらどうしようと、急に胸が押しつぶされそうな不安に襲われる。
すると、隣のアイリスが静かに僕の方へ向き直った。
「ご安心ください、みなと様。現在のご自宅の映像とチョコ様のバイタルデータを共有いたします」
アイリスが空中へ手をかざすと、彼女の腕のディスプレイから立体的なホログラムウィンドウが浮かび上がった。
そこに映し出されていたのは、リビングで元気に動き回るチョコの姿だった。お気に入りのおもちゃを咥えて一人でぶんぶんと振り回したり、クッションの上に跳ね乗ってみたりと、寂しがるどころか一匹の時間を大いに満喫している様子だ。画面の隅には『心拍数:正常』『体温:正常』『ストレス指数:極低』といった数値がリアルタイムで表示されている。
「ふふっ……なんだよ、めちゃくちゃ楽しそうにしてるじゃん……」
その拍子抜けするほど無邪気な姿と安定したバイタルの状態を見て、僕は思わず吹き出し、胸を撫で下ろした。緊張で強張っていた肩の力がスッと抜けていく。
「見守りカメラおよびホームセキュリティと常時リンクしておりますので、心拍数や体温に異常が生じた場合は即座に通知が届く仕組みになっております。何かあればすぐにお知らせしますね」
「ありがとう、アイリス。……うん、これで安心して集中できるよ」
僕はアイリスに感謝を伝え、もう一度ホログラムの中のチョコを目に焼き付けてからウィンドウを閉じてもらった。
自動運転の車に揺られること、小一時間。賑やかな街並みを抜け、少し開けた場所で静かに車が停車した。車窓の外に広がる光景を見上げ、僕は思わず目を見張る。
「ここ……?」
僕たちが到着したのは、個人住宅ではなく、どこか冷たく重厚な雰囲気を纏った大きな施設の前だった。
助手席から降りたアイリスが車のドアを開け、静かに頷く。
「ええ、そのようです。被検体1はこちらの施設に滞在されています」
重々しい扉を見つめながら、僕は喉を鳴らした。この奥に、最後の被検体が待っている。どんな人物なのか、そしてその専属AIはどんな存在なのか――期待と緊張を胸に、僕は一歩を踏み出した。




