バグへの対応
僕たちのやり取りを少し離れて見ていたそうちゃんが、スッと間に割り込むと、僕の手を自然な仕草で引っ張ってアイリスから距離を置かせた。
波音に消されてしまいそうなほど、ごく小さな声でそうちゃんは囁く。
「……気をつけて、お兄ちゃん」
「え……?」
「アイリスさんにバグが数回確認されたら……赤AIが、アイリスさんの脳のAIを廃棄しにくるかもしれない」
「は……? 廃棄……!?」
息を呑む僕に、そうちゃんは真剣な眼差しを向けたまま言葉を続けた。
「そしたら、今までの肉体はそのままで別のAIが挿入されて……記憶もデータも全部消されて、別人格になっちゃうかもしれない」
「そんな……っ!!」
頭を殴られたような衝撃に、血の気が引いていくのがわかった。
里奈さんが言っていた「明日にデータが消される」という運命。それが、アイリスの身にも……僕を大切に思ってくれた『バグ』のせいで、降りかかろうとしているなんて。
「とにかく、気をつけて様子を見てて。アイリスさんに何かが起こっていることは、事実だから……」
「……わかった。ありがとう、そうちゃん」
その時、遠くからそうちゃんを呼ぶ声が響いた。
「そうちゃ〜ん! 帰るわよ〜!」
声の主は、そうちゃんのお父さんとお母さんだった。テロの鎮圧を終えて、何事もなかったかのように戻ってきたのだ。
「あ、はーい! じゃあね、お兄ちゃん、アイリスさん! チョコちゃんも!」
そうちゃんはパッと表情をいつもの無邪気なものに変えると、駆け出していった。
その背中を見送りながら、胸の奥がぎゅっと痛む。
(そうちゃんは……心細くないんだろうか)
自分のすぐ近くで危険が迫っていたのに、親代わりであるはずのAIたちは何の迷いもなく、命令に従ってテロ鎮圧へと向かってしまった。あんなに幼いのに、親の温もりよりも優先される「プロトコル」を目の当たりにして、彼はどんな思いで耐えているのだろう。
「みなと様」
いつの間にか隣に並んでいたアイリスが、いつも通りの穏やかな声で僕に微笑みかけた。
「さ、帰りましょうか」
「……うん」
「ワンッ!」
チョコが元気よく短く吠え、僕の足元で尻尾を振る。
アイリスの脳内に残された、僕を守ろうとしてくれたその『バグ』の愛おしさと、いつ彼女が奪われてしまうかわからないという底知れぬ恐怖。
複雑すぎる感情を胸に抱えたまま、僕たちは夕闇の迫る家へと向かって歩き出した。
静まり返った車内。流れる街灯の光が、助手席に座るアイリスの横顔を周期的に照らし出していた。
そんな中で、彼女はふと思い出したかのように、僕へと視線を向けた。
「そういえば、みなと様。『被検体1』との接触についての件ですが、どうなさいますか?」
「……っ」
その言葉に、ハッと息を呑んだ。丈一郎さんの凄惨な最期や、アイリスに起きた異変、そして赤AIによる廃棄の恐怖……立て続けに起こる出来事に完全に意識を奪われていて、すっかり頭から抜け落ちていた。
だが、あの悲劇を知った今だからこそ――僕は深く強く、確信していた。
(会わなければ、いけない……)
被検体の中には、丈一郎さんのように自ら命を絶ってしまう人がいるかもしれない。
もう一人の被検体であるその人は、今どんな世界で、どんな思いで過ごしているのだろう。丈一郎さんと同じように、絶望と不安に駆られて押しつぶされそうになってはいないだろうか。
居ても立ってもいられない焦燥感が胸を突き動かす。
「……会いたい。アイリス、なるべく早くその人と会えるように手配してくれるか? どうやって過ごしているのか、無事なのか……僕の目で確かめたいんだ」
僕の真剣な眼差しを受け止めると、アイリスは静かに、けれどしっかりと頷いた。
「かしこまりました。すぐにスケジュールの調整と接触の申請を行います」
車窓の外に広がる冷たい夜空を見つめながら、僕は祈るような心地で拳を強く握りしめた。これ以上、誰も失わせたくない。この歪んだ世界の中で必死に生きる仲間の存在を確かめるために、僕は次の一歩を踏み出す決意を固めていた。




