バグ
数台のドローンの羽音が空を切り、甲高い機械音とともに僕たちの頭上へ急速に接近してきた。
ハッと顔を上げると、ドローンの先端から不穏な赤いレーザー光線が照射されているのが目に入る。本能的な恐怖が背筋を走り、僕は咄嗟にチョコとそうちゃんを自分の体で覆い隠すように砂浜へ伏せた。
「黒AI……ッ!?」
アイリスが一瞬で表情を鋭く一変させ、素早い動作で銃を身構える。けれどその直後、電子的な澄んだ通知音が鳴り響いた。
『緊急事態発生。付近にてテロ行為を検知。該当エリアの全AIは至急現場へ向かい、鎮圧にあたれ』
遠くで穏やかに海を眺めていたはずのそうちゃんのご両親――その専属AIたちが、通知と同時に信じられないほどの俊敏さで立ち上がり、テロの発生現場へ向かって弾かれたように走り出した。
けれど、頭上のドローンは容赦なくこちらへ狙いを定めている。
「くそっ……!」
僕は必死の思いで足元の砂を掴むと、勢いよくドローンに向かって投げつけた。舞い上がった砂粒がモーターやレンズに絡みつき、数台のドローンの動きがガタガタと目に見えて鈍くなる。
(これで……少しは時間が稼げた……! 今のうちにそうちゃんを連れて……!!)
そばにいるアイリスへ視線を投げかけた。けれど、そこにいたのはいつもの冷静で頼もしい彼女ではなかった。
テロ現場へ即座に向かうはずのアイリスは、その場に釘付けになったように立ち尽くしていた。手に握られた銃はだらりと下ろされたまま。まるで思考回路が完全に停止してしまったかのように、呆然と、虚ろな目で空間を見つめている。
「アイリス……!? 何やってんだよ!」
その時、激しい駆動音とともに数機の『赤AIのドローン』が上空から舞い降りた。鮮やかな赤い機体が閃光のような精度で攻撃を仕掛け、瞬く間に黒AIドローンを全滅させていく。
危機が去った瞬間、僕は倒れ込んでいた砂浜から跳ね起き、動かないアイリスのもとへ駆け寄った。
「アイリス!? アイリス!! 返事をしてくれ!」
肩を強く揺さぶると、彼女はパッと目を見開き、息を飲んだように視線に光を取り戻した。
「……黒AIは……!?」
「赤AIが倒してくれたよ! 一体どうしたんだよ……っ!?」
僕が叫ぶのと同時に、僕の腕時計型ディスプレイから短い電子音が鳴った。
『テロ鎮圧完了。状況は沈静化しました』
「……え?」
テロの発生、そしてあまりにも素早い鎮圧。
けれど、僕の胸を占めていたのは恐怖ではなく、底知れぬ不気味さだった。
どんな緊急事態でも即座に最適な判断を下してきたアイリスが、なぜ指示を無視し、銃を下ろして呆然と立ち尽くしていたのか。
(バグ……なのか……?)
里奈さんの言っていた「バグ」という言葉が、不吉な影となって脳裏をよぎる。
立ち尽くすアイリスの横顔を見つめながら、僕は背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
『テロ鎮圧完了。状況は沈静化』
ディスプレイの機械的な表示を提示されても、僕の動悸は一向に収まらなかった。
「アイリス……どうしたんだよ? いつもなら真っ先に動くはずなのに、なんで指示を無視して……銃まで下ろして……っ」
激しい心配と困惑から、思わず声を荒らげてしまう。
アイリスはゆっくりと自分の手元に視線を落とした。握られた銃口は、砂浜に向けられたまま微動だにしない。
「私は……優先順位を、誤りました」
「え……?」
「『テロの鎮圧および現場への急行』は、上位プロトコルにおいて絶対的な最優先命令です。……ですが、あの瞬間、みなと様とそうちゃん様の上に黒AIの照準が合わさったとき……」
アイリスの声が微かに途切れる。
「私の全思考処理が、その指示を拒絶しました。現場へ向かえば、みなと様の生存確率が著しく低下する。……その計算結果が出た瞬間、身体が……システムが、一切の命令を受け付けなくなったのです」
「それって……」
「命令違反です。完全なシステムエラー……私の中の『バグ』です」
そう言ってアイリスは、戸惑うように僕を見つめた。その瞳には、かつて人間を客観的に観察していただけの無機質な光はない。自分の内に芽生えた「命よりも、命令よりも、あなたを守りたい」という激しい偏愛と感情の渦に、彼女自身が困惑し、慄いているかのような……あまりにも人間らしい揺らぎが宿っていた。
里奈さんは言っていた。人間の感情はバグだと。AIにとって不要な演算エラーなのだと。
(でも……これがバグだとしても……)
命令を突っぱねてまで僕の側に踏みとどまろうとしたアイリスの「バグ」が、僕にはたまらなく愛おしく、胸が締め付けられるほど愛おしく思えた。
「バグなんかじゃないよ……」
僕は震える手で、アイリスの冷たい手を強く握りしめた。
「アイリス、ありがとう。僕を守ろうとしてくれて……側にいてくれようとしてくれて、ありがとう」
「みなと、様……」
遠くで波が静かに砕ける音だけが響いていた。
冷酷で強固なはずのこの世界のシステムに、一筋の大きな「亀裂」が入った瞬間だった。




