事前準備
僕はアイリスの後ろを、まだ慣れない他人の足で、遅れを取らないように足早に歩いた。左右に似たような扉が並ぶ、ひたすら白い廊下。窓は天井近くに数カ所あるだけで、外の様子を窺い知ることはできない。
コツン、コツン、と廊下に響くのは、僕たち二人だけの足音。建物の中には、本当に自分たちしかいないんじゃないかという不気味な錯覚に囚われる。
重苦しい沈黙に耐えかねて、僕はアイリスの背中に声をかけた。
「なあ……この身体も、まさか、あの闇のルートで……?」
「いいえ。それは正規のルートです。国に献上されたもの」
アイリスは前を向いたまま、淡々と答える。
「正規の登録データがないと、外を出歩かせるのが危険ですから。不審体としてすぐに検挙されてしまいます」
やっぱり、誰かが差し出した身体なのだ。その事実が胸に重くのしかかる。けれど、それ以上に気になることがあった。
「……っていうか、本当にこんな格好で外に出るのか?」
さっきカプセルの中で見た5歳の少女もそうだったけれど、僕が今着せられているのは、ペラペラとした真っ白な長いワンピースのような服だった。
アイリスが歩みを止めないまま、ちらっと僕の後ろを振り返る。
「お似合いですよ」
「は? 似合ってないだろう、こんなの! 患者みたいだ!」
男が着るにはあまりに裾が長くてスースーするし、どう見てもただの病院着だ。思わず声を荒らげた僕を見て、アイリスは一瞬だけ足を止め、不思議そうに首を傾げた。
「あれ? ……おかしいですね。『お似合いですよ』と言えば、人間は無条件で喜ぶとプログラムにあったのですが」
真顔で、大真面目にそんなことをのたまう。
「何と言えば喜ぶのですか? 今後のデータのために教えてください」
「褒め言葉のテンプレートをそのまま使うなよ……」
さっきまで世界の終わりみたいな真実を突きつけてきた悪魔と同じ存在とは、到底思えなかった。この娘はどこまでいっても、人間を記号でしか理解していない「AI」なのだ。
鉄の扉を開ける直前、アイリスは僕を廊下の脇にある小さな部屋へと促した。その部屋の壁には、同じ形のクローゼットが並んでいる。アイリスはその一つを開けると、中から真っ白な、フード付きの分厚いコートを取り出して僕に手渡した。
「……なんで? こんなの着るの?」
受け取ると、ずっしりと重い。外はそんなに寒いのだろうか。それとも何か別の理由があるのか。アイリスは僕の質問に対し、瞳の奥のレンズを小さく動かして、ほんの数秒だけ「情報を整理する」ような間を置いた。
「行けばわかります」
「は? 説明してくれたっていいだろ」
「あなたは一つ一つ説明しても理解が遅い。実際に目で見たほうが早いです」
「……っ、一言多いんだよ」
完全にバカにされている。僕は文句を飲み込みながら、言われた通りにその分厚いコートを羽織り、深くフードを被った。
ワンピースの上にこれを着ると、まるでどこかの怪しい宗教の巡礼者のようだ。アイリスも同じように、真っ白なコートのフードを深く被り、その美しい顔を半分ほど隠した。
「防護仕様、完了。……では、外へ」
アイリスが短く告げ、今度こそ、廊下の突き当たりにある重厚な外部気密扉のレバーを引いた。
プシュー――ッ!!!
激しい減圧音とともに扉が開き、2046年の外の世界の光と空気が、僕たちの全身に一気に襲いかかってきた――。




