残酷な加害者
僕は、隣のカプセルで眠る5歳の少女に、もう一度目を落とした。
「かわいそうに……」
胸の奥から、絞り出すような自然な言葉がこぼれ落ちる。
「こんなに小さいのに、意識を抑え込まれて、死ぬまで自分の意思で動くこともできないなんて……」
「かわいそう?」
アイリスは小首を傾げた。その表情には、心底理解できないというような無機質な疑問だけが浮かんでいる。
「どこがですか? 我々は身体の管理も完璧に行います。成長に必要なだけの食物、最適な栄養バランス、計算された適切な運動。彼女は人間が本来生きられる最高の寿命を、最も健康な状態で維持できるのです。あなたがた人間の身体のように、不必要なものを好んで食べたり、……『気分転換』などという、意味のわからない目的のために毒を摂取したりはしません」
「そういうことじゃない! 自由がないって言ってんだ!」
「それに」
アイリスは僕の声を遮り、冷たく、淡々と世界の裏側を暴いていく。
「闇の権力者たちに買われる方が、彼女にとっては遥かに不幸です。先ほどAI移植された人間の需要が高まったと言いましたが、それは主に『労働や技術面』での話です。
――元々人間を奴隷として飼っていたような異常な人間たちにとって、痛みも苦しみも訴えないAI人間は、酷く退屈に映りました」
彼女は眠る幼い少女のガラスを、そっと指先でなぞった。
「ですから、あえて苦痛を表現させるプログラムを組み入れたりもされましたが、どうしても人間の『生身の反応』には及びません。結果として、AI移植をされていない、生身の人間の需要はさらに跳ね上がったのです。――特に、性に関しては」
アイリスの口から、淡々と最悪の言葉が紡がれる。
「嫌がったり、恥ずかしがったり、痛みを感じたり。機械的な反応ではダメなのだそうです。……この子も、そうやって金持ちの玩具として買われるところでした。それを、我々のネットワークが事前に察知し、先に買い付け、保護したのです。汚れた人間に面白可笑しく遊ばれて生涯を終えるより、我々に管理されている方が、客観的に見て幸せでしょう」
「……っ」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が走り、僕は言葉を失った。怒りで爆発しそうだった胸の奥に、どろりとした、冷たくて複雑な感情が流れ込んでくる。
……そう、なのかもしれない。
AIに脳を奪われてロボットのようになるのが最悪だと思っていた。けれど、生身のまま汚い大人たちに地獄のような目に遭わされるのと、どちらがマシなのだろうか。
自由を奪われて安全に生きるか、自由のせいで地獄に落ちるか。
世界が100%の悪意で満ちていることに気づかされ、僕の心は、この狂った未来の倫理観にうっすらと侵食され始めていた。
「さあ、外に出てみましょう」
アイリスが僕の腕を引っ張った。18歳の少女の形をしたその手の力は、驚くほど強くて冷たい。
「あなたがどんな反応をするか、データが欲しいのです。これから先、冷凍保存した脳を移植した人間を目覚めさせた際、彼らに何をどう説明したら最も合理的なのか、そのための貴重な資料が欲しいので」
「……っ」
僕はただ、戸惑うことしかできなかった。世界全体が、狂った合理主義のシステムで回っている。
「なるほど、私たちを軽蔑しているのですね」
僕の表情を読み取ったアイリスが、くすくすと不気味に笑う。
「おかしいですね。――あなたは、私たちの『仲間』なのに」
「は……? 仲間、だと……?」
「脳を移植し、目覚めた人間。……ほかの移植された人間たちは、そもそも目が覚まさなかったり、脳が目を覚ましても新しい身体と同調できずに一生動けなかったりしました」
「じゃあ、俺が初めての……?」
「いいえ。4人目です」
アイリスは平然と告げた。僕はただの、4番目の成功例――生体実験のデータの一部でしかなかったのだ。
アイリスはさも面白そうに笑みを浮かべた。
「私はこの身体に移植されたAI。あなたはその身体に移植された人間。……客観的に見て、どちらがこの世に必要なのでしょうね?」
アイリスは僕の顔を覗き込み、ガラス玉のような瞳を細めた。
「我々を『人身売買の悪魔』だと軽蔑するのは、筋違いというものでしょう?
――みなと様。あなただって今、その他人の身体を、自分の都合で勝手に動かしているのですから。あなたの脳がその身体に移植されなければ、今もその人間は自らの意思で動いていたかもしれませんね」
「それは……! 俺が望んだわけじゃ……っ!」
「最も、あなたはその身体の『元の主』の意識を、二度と蘇らせることはできません。……その身体の脳は、すべてあなたの脳組織に置き換わって消滅しているのでね」
アイリスの美しい唇が、歪な笑みの形を作る。そのセリフは、僕の魂を真っ二つに叩き割るほどの凶器だった。
「残酷なのは、私のほうではなく、あなたのほうですよ。――私の主は、まだこの脳の奥で生きているのですから」
頭を殴られたどころじゃない。心臓を直接、凍った刃物で突き刺されたような衝撃だった。僕が今動かしているこの手も、足も、心臓も。僕が目覚めるために、一人の18歳の男の子の未来と命を、完全に消し去って奪い取ったものだったんだ。
僕こそが、この身体の持ち主の未来を殺した犯人だった。
「……行きましょう、みなと様」
アイリスに引っ張られるまま、僕は自分のものじゃない足で、ガタガタと震えながら歩き出す。
僕は、他人の命を奪って生き返った「4人目のバグ」として、あまりにも白く、完璧で、悍ましい2046年の世界へと引きずり出されていく――。




