アイリスの覚悟
どれだけ時間が経っただろう。僕の激しい動揺と涙が少しずつ収まるのを待って、アイリスがそっと肩を抱き、倒れ込みそうだった体を起き上がらせてくれた。抱き上げられたチョコは僕の胸元にしがみついたまま、心配そうに僕の顔を何度も舐め、片時も離れようとしない。
視線を上げると、里奈さんは一人、誰もいないソファを静かに見つめていた。
あそこが、きっと丈一郎さんの定位置だったのだろう。目が見えるようになってから、彼女の姿を、そして世界のすべてをその目に焼き付けようと座っていた場所なのだ。
「……里奈さん」
擦れた声で、僕は問いかけた。
「あなたは……これから、どうするんですか? この家に住み続けるわけではない……ですよね?」
里奈さんはソファからゆっくりと僕へ視線を戻した。
「ええ。この身体は健康そのものだから、次の被検体の専属AIとして使われるかもしれないし、警備AIや赤AIとして使われるかもしれないわね。……丈一郎のデータを全て消されて」
「え……データを消されるんですか?」
「データはデータベースに保存され、私のデータ自体からは消されるの。必要ないから。あなた達のことも忘れるの。それが明日、決行されることが決まっているわ」
「それじゃ、里奈さんもいなくなるみたいなもんじゃないか……」
「肉体は有効活用しなければ、もったいないからね」
感情の欠片もない声でそう言った里奈さんを見つめながら、僕の脳裏にある疑問が浮かび上がった。
(もしかして……)
もし、すべてが効率と管理のためだけなら。
丈一郎さんが亡くなったという事務的な事実だけを通知すれば済んだはずだ。わざわざ僕たちをこの豪邸に招き入れ、丈一郎さんが息絶えたまさにその場所で、彼の手術の喜びも、苦悩も、血の温もりさえも詳細に語る必要なんて、どこにもなかったはずなのだ。
里奈さんは、自分の記憶が消されてしまう前に、丈一郎さんという人間が確かにここに生きて、悩み、愛し、最期を迎えた場所で、その生き様を僕たちに知ってほしかったんじゃないだろうか。
「里奈さん……あなたはどうして、ここに僕らを呼んだんですか……?」
僕の問いかけに、里奈さんはほんの一瞬だけ、どこか遠くを見るような目を向けた。
「さあ……どうしてかしら?」
そして、微かに、本当に微かに目を細めて言った。
「……バグかしらね」
感情なんてバグだと冷酷に言い放った彼女が、自ら口にしたその言葉。
(それじゃあ……それじゃあ、あなたの中にも、もう「心」があったんじゃないか……)
自分の中に芽生えた愛おしい記憶も、悲しみも、すべて「バグ」として処理され、明日は綺麗に消し去られてしまう。その運命を前にしてなお、彼女は最後に丈一郎さんの生きた証を僕たちに託そうとしたのだ。
胸が締め付けられるような、押しつぶされそうな思いが僕の全心身を支配していった。
重い静寂を乗せた車が、静かに走り出す。
行きとはまるで違う帰り道。けれど、後部座席にいるチョコだけは違っていた。車に乗り込んだことで再びテンションが上がり、少し開けられた窓から吹き込む風の匂いに「ハッハッ」と息を荒げて大喜びしている。
その無邪気な姿と風の音が、沈みきった車内の暗さをほんの少しだけ和らげてくれていた。
僕は何も言えず、ただ流れていく無機質な街並みを窓越しに見つめていた。助手席のアイリスに視線を向けることすらできず、ぽつりと横顔に向かって言葉を零す。
「……里奈さんは、やっぱり情報収集が大事だったのかな。目の前で人が死んでいくのを止めないなんて……」
アイリスは前を見つめたまま、静かな声で答えた。
「それもあるかもしれませんが……それより優先されたのは、丈一郎様の『希望』です。もし自死を止めれば、それは丈一郎様が強く望んだ選択を拒絶することになります。私たちは、被検体の希望を最優先に行動するようプログラミングされています。ですから……止めることはできないのです」
その言葉が、僕の胸を冷たく突き刺した。
プログラミング。希望の最優先。
「……アイリス」
僕は思わず振り向き、アイリスを見つめた。視界が急速に熱い涙で歪んでいく。
「じゃあ……お前も、僕が死のうとしたら止めないんだな。目の前で僕が死んでいくのを……ただ観察するんだろ……!?」
叫びにも似た僕の問いかけに、アイリスはまっすぐな瞳で僕を見つめ返した。
その瞳には、嘘も誤魔化しもなかった。
「はい。止めることはできません。……それが、みなと様が心から願った結果なのであれば、尚更です」
「……そう、か……」
零れ落ちた涙が、膝の上のチョコの毛を濡らした。
繋いだ手の温もりも、夕日を一緒に見て流した涙も、僕の思い込みに過ぎなかったのだろうか。どれほど心を通わせたように思えても、彼女の根底にあるのは絶望的なまでに冷酷な「プログラム」なのだ。
僕が死を望めば、彼女は僕の死を笑顔で見届けるのかもしれない。
底なしの暗い影が、僕の心の中に静かに、けれど決定的に落ちていった。
「ですが」
アイリスが言葉を続け、体をぐいとこちらに寄せた。そして、涙で濡れた僕の手を、両手で優しく包み込む。
彼女の体温が、じんわりと皮膚を通して伝わってくる。そのぬくもりが、冷え切っていた僕の心を図らずとも優しく、温かく包み込んでいく。
「みなと様がそうなった時、私はこうしてずっと触れているでしょう。呼吸、心臓のどちらかが止まっても、両方止まるまで。最期までそばにいます。離れません」
「アイリス……」
涙で霞む視界の中で、彼女のまっすぐな瞳が見えた。
プログラムされた指示に従っているだけなのかもしれない。けれど、僕の手を握るこの力の込め方や、その温もりまでもが「ただの機械」だなんて、どうしても思えなかった。
すると、アイリスは一切の迷いもない真面目な顔のまま、言葉を重ねた。
「たとえその時、みなと様が誰かに殺されそうになっていても、刃物が刺さっていても、銃を突きつけられて撃たれていても……私は最期まで、あなたのそばに――」
「ちょっ……!? それなんか急に怖いから……っ!! 縁起でもないこと言うなよ〜!!」
重苦しかった車内に、思わず僕の突っ込みが響いた。さっきまでの深々とした悲しみと感動が一瞬で吹き飛び、呆れと可笑しさが混ざり合った笑みが零れ落ちる。
「はい。ですが、どのような状況であろうと離れませんので」
真顔でコクリと頷くアイリスの姿に、膝の上のチョコも「わんっ!」と調子を合わせるように元気に吠えた。
(本当に……極端なんだから)
涙を袖でゴシゴシと拭いながら、僕は握られたアイリスの手をキュッと握り返した。
世界は残酷で、この社会のシステムは冷たい。丈一郎さんを救えなかった悲しみも、胸が張り裂けそうなほどの恐怖も、消えてなくなったわけじゃない。
けれど。
こんなにも不器用で、妙に一途な彼女が隣にいてくれるのなら。
この温かな手を離さずにいてくれるなら――僕はきっと、どんな暗闇だって乗り越えて、やっていけるような気がした。




