新しい家族
それから数日、我が家にはこれまでになかった「予期せぬ混乱」と「賑やかさ」が訪れることになった。
まず直面したのが、室内でのトイレトレーニングだ。チョコがリビングの隅でうっかり粗相をしてしまった時、アイリスは即座に「緊急除菌ロボット」を召喚しようとした。
「みなと様、ただちにナノ除菌スプレーと自動吸引機で処理いたします。チョコ様には『禁止エリア』としての学習シグナルで微弱電流または警告音を送信します」
「待って待って! 電流なんて流しちゃダメだし、そんな大袈裟に怒ったら怯えちゃうよ。失敗した場所を静かに掃除して、上手くできた時に思いっきり褒めるんだ」
「……罰を与えずに、成功時のみ報酬を与えるアルゴリズムですか。非効率的に思えますが……」
首を傾げるアイリスを横目に、僕はシートの上で上手におしっこができたチョコを「すごいぞチョコ! えらい!」と抱きしめて撫でまわした。チョコは尻尾をプロペラみたいに回して大喜びしている。
「……なるほど。感情報酬による学習効率の向上……データとして非常に興味深いです」
真面目に記録をとるアイリスの姿に、思わず笑ってしまう。
そしてもう一つの試練が、初めての「外のお散歩」だった。
ドーム内の人工芝が敷かれた公園へ連れ出すと、道行く市民たちが一斉に足を止めた。
この時代、市民が目にする「犬」は、ほぼ100%精巧なロボットペットだ。排泄もせず、声の大きさも設定可能な「完璧なペット」。
そんな中、チョコは歩道で急に立ち止まると、落ちていた落ち葉の匂いを熱心に嗅ぎ、向かいから走ってきた全自動ゴミ収集ロボットに向かって、「キャン! キャン!」と元気に吠えかかった。
「あわわ……っ」と慌てて回避プログラムを作動させるゴミ収集ロボット。
周囲の市民たちは「えっ……本物?」「声を抑制していないのか?」と驚いたようにひそひそと囁き合っている。
「す、すみません……!」
僕は焦ってチョコを抱き上げたが、チョコは僕の腕の中で「えっ、なにかダメだった?」とでも言いたげに首をかしげ、僕の顎をペロリと舐めた。
その温かい舌の感触に、僕の強張っていた肩の力が抜けていく。
「……ふふ。みなと様、チョコ様は市民の皆様に素晴らしい『驚き』を提供されたようですね」
隣を歩くアイリスが、どこか誇らしげに胸を張っていた。
市民たちが物珍しそうにチョコを見つめる姿を見て、僕はハッと記憶の糸が手繰り寄せられるのを感じた。
(……そういえば、この間湖に行ったとき、犬を散歩させている人がいたっけ。もしかして、あの時の犬って……)
僕がふと呟くと、隣を歩くアイリスが静かに頷いた。
「そうです。あの時ご覧になったのは、ロボット犬でございます。ロボット犬には排泄や運動といった生理的な散歩の必要は本来ございませんが、『人間が散歩をさせたい』という欲求を満たすため、あえて散歩のプログラムを実行していたに過ぎません」
「そっか……あれも、人間のエゴに合わせて作られたプログラムだったんだな」
僕は腕の中のチョコを少しだけ強く抱きしめた。
チョコのトクトクと打つ小さな心臓の鼓動と、腕に伝わる確かな体温。
ロボットのように「散歩の振り」をしているのではなく、チョコは今、自分の足で地面を踏み締め、落ち葉の匂いに興奮し、生きた感情のままに動いている。
「キャン!」
僕の顔を覗き込んだチョコが、励ますように鼻先をすり寄せてきた。
「……でも、チョコは違うもんな。本当に散歩が好きで、楽しんでるんだよな」
「ええ。チョコ様の呼吸数や心拍データを見ても、この状況を非常に楽しんでいることが窺えます。プログラムではない、本物の感情ですね」
アイリスの言葉に、僕は自然と口元を緩ませた。
ロボットが人間のために完璧な「ペットの演劇」をこなすこの世界で、本物の命と一緒に手探りで歩んでいくこと。手間もかかるし、たまに周りから浮いてしまうけれど、そのかけがえのなさが、凍りついていた僕の心を少しずつ溶かしてくれていた。




