君の名は
「……家族?」
思わず聞き返してしまった。アイリスの口から出るのは、てっきり「ペット」や「生体ユニット」といった無機質な単語だと思っていたからだ。
「ええ。単なる所有物や愛玩対象としてではなく、みなと様と生活を共にし、感情を共有する存在という意味を込めて『家族』と表現いたしました」
アイリスはそう言いながら丁寧にキャリーバッグのジッパーを下ろしていく。
ゆっくりと開いた口から姿を現したのは、ふわふわとした柔らかいアプリコット色の毛に包まれた、手のひらに乗ってしまいそうなほど小さなトイ・プードルの子犬だった。
「キャン……ッ」
キャリーバッグからちょこんと顔を出した子犬は、つぶらな黒い瞳で僕を見上げると、鼻先をひくひくと動かしてクンクンと匂いを嗅ぎ始めた。
僕がそっと床に膝をつき、ゆっくりと手を差し出すと、子犬は少しだけためらう素振りを見せた後、トコトコと小さな足取りで近づいてきた。そして、僕の指先に温かく湿った小さな鼻を擦り寄せてくる。
(……温かい)
手のひらから伝わってくる、確かな鼓動と体温。
ロボットの精巧な動きでも、3Dホログラムの完璧な映像でもない。自分の意思で動き、呼吸し、生きている命が、今たしかに目の前にいる。
「……よろしくな」
頭を優しく撫でてやると、子犬は嬉しそうに小さな尾を千切れんばかりに振って、僕の手をペロペロと舐め始めた。
「みなと様、とても良い表情をされています」
傍らで見守っていたアイリスが、どこか満足そうに微笑んでいる。僕は自分でも気づかぬうちに笑顔になっていたようだ。
「……そうかな。アイリス、この子のお世話、いろいろ教えてね」
「お世話でしたら、基本的には私がすべていたしますよ。食事の準備から排泄物の処理、毛並みの管理に至るまで、みなと様の手を煩わせることはございません」
「いや、僕が自分でやりたいんだ。食事も片付けも、自分の手でちゃんとやりたい」
「みなと様が、ですか? 手間も時間もかかりますが……」
「うん。大変さも含めて、自分の手で世話をして育てたいんだ。その方が、愛情も芽生えると思うし……」
言いかけて、ふと口をつぐむ。
……AIであるアイリスに『愛情』なんて言葉を使って、果たして伝わるのだろうか。感情を持たないプログラミングされた存在に、生体を愛おしむ人間の理屈を語ったところで、ただの無駄なコストとして処理されてしまうのではないか――。
僕が返答に詰まっていると、アイリスは一瞬だけパチクリと大きな目をまばたかせた。
「……そうですか。かしこまりました。それでは、食事の管理からトイレトレーニングの指導まで、みなと様がご自身で行えるよう、私がサポートいたします」
アイリスは否定も疑問の声をあげることもなく、ごく自然に、けれどどこか嬉しそうに深々と頷いてみせた。
「では早速、最初のごはんの準備から始めましょうか。仔犬用のフードをふやかす手順をお教えしますね」
「うん、よろしく」
膝の上で丸くなり、すやすやと小さな寝息を立て始めた仔犬のぬくもりを感じながら、僕はアイリスの後に続いてキッチンへと向かった。
「名前、なににしようかな……あ! チョコレート色だから『チョコ』にしよう!! アイリス、どう思う!?」
自分でもびっくりするくらい高いトーンの声が出た。子犬の毛並みを撫でながら、僕はパッと顔を上げてアイリスを見つめた。
アイリスは、まるで僕のテンションに合わせるように、目元をふんわりと和らげてにっこりと微笑んだ。
「単純ですが、とても可愛らしくて素敵だと思いますよ。私のようなAIでしたら、管理コードや個体識別データから『Canis-042』や『アプリコット-01』と名付けてしまいそうですが……『チョコ』というお名前の方が、温かみがあってずっと素晴らしいです」
「ははっ……Canis-042って……絶対そっちは嫌だよな」
アイリスらしい回答に思わず笑ってしまう。
「今日からよろしくね、チョコ」
アイリスが腰を落とし、視線を低くして語りかけると、チョコはまるで自分の名前を理解したかのように「くぅん」と短く鳴いて、アイリスの指先に鼻を寄せた。
「あ、今返事したんじゃない!?」
「そのようですね。みなと様のお見立て通り、とても賢い子のようです」
部屋の中に、小さな命の足音と、僕たちの穏やかな笑い声が広がっていく。冷たい管理社会の片隅で、僕とアイリス、そしてチョコの新しい日常が、確かに動き始めた瞬間だった。




