被検体2
翌日、喉を通らない昼食をなんとか形だけ流し込み、僕は車へと乗り込んだ。
この街で車に乗るのにも、もうすっかり慣れてしまった。元々は自分が生まれ育った街だ。一度通ったルートや街並みの特徴は、だいたい頭の中に記憶されていた。
だからこそ、車路が進むにつれて違和感が膨らんでいく。
(ここ、もしかして……?)
流れる車窓の景色に、覚えのあるデジャヴが重なる。思わず僕は助手席のアイリスに問いかけた。
「アイリス、今日はあの厳重な面会室には行かないのか? このまま行けば、一番最初に行った……あのドーム型の施設に行くんじゃないか?」
「ええ。本日はそちらの室内遊戯場での接触となっております」
「え? いいの? そんな人が大勢いるような場所で……」
「ええ。事前に周辺の危険人物を排除し、安全を確保しておりますので問題ありません。それに、そのドームでの面会を希望されたのは、先方様のご意向です」
「……先方の?」
あの白く無機質な面会室ではなく、家族連れや一般市民が行き交う賑やかな「ドーム施設」。
そして、それを望んだという「被検体2」――。
車窓の先に見えてきた巨大なドームを見上げながら、僕はまだ見ぬその人物への不気味な胸騒ぎを抑えきれずにいた。
広大なドームの中へ入ると、アイリスは迷いのない足取りで進んでいく。僕は遅れないよう、必死にその背中を追った。
(ここで美琴に出会ったんだ……二十年経った、あの美琴に……)
あの日、歳月を重ねた彼女と再会した瞬間の光景が脳裏に蘇り、みぞおちのあたりがぎゅっと締め付けられるように痛む。もしかしたら今日もまた、この人ごみのどこかで彼女を見かけてしまうかもしれない――そんな恐れと淡い期待が、胸を苦しくさせた。
ドームの中は、この前と何一つ変わっていなかった。仲睦まじく歩く家族連れや、寄り添うカップル、穏やかに歩を進める老夫婦。
基本的に他人との関わりを避け、自室で完結するこの時代にあって、ごく一部にはこうして人と触れ合う空間を求める人間も存在するのだろう。
頭上に輝く人工の太陽、そよぐ疑似的な風、サラサラと音を立てる人工の川、豊かな木々。その作られた自然の中を、人々が穏やかに行き交っている。
やがて視界に入ってきたのは、ブランコや滑り台が設置された子どもたちの遊び場だった。
だが、そこに設置されている遊具の素材は、僕の記憶にあるものとは程遠い。金属や硬いプラスチックの無機質な感触はなく、全体が高度な衝撃吸収素材で覆われている。クッション性が非常に高く、触れればわずかに沈み込むようなフワフワとした質感が伝わってきた。子どもが転んだり頭をぶつけたりしても、絶対に怪我をしない設計になっているのだと一目で理解できる。
徹底的に管理された「過保護な安全」の象徴のようなその遊び場を通り過ぎた直後、アイリスがピタッと足を止めた。
僕を振り返ったのかと思ったが、アイリスの視線は僕の頭上を越え、もっと後ろの空間に向けられていることに気づいた。
「いらっしゃいましたよ」
「え……?」
アイリスの言葉に促されるように振り返り、その視線の先を探す。人ごみの向こうから、ひとりの女性がこちらに向かってゆっくりと歩いてくるのが見えた。
30代半ばほどの女性だった。艶やかな長い髪を後ろでひとつに結び、この時代特有のシームレスなワンピースを身に纏っている。歩くたびに、淡い紫色の裾が優雅にゆらゆらと揺れていた。
思わず、息を呑む。
彼女の右手には、しっかりと握られた小さな手があった。5歳くらいの男の子が、楽しそうに彼女の歩調に合わせて跳ねるように歩いている。
――そして。
ゆったりとしたワンピース越しにもはっきりとわかるほど、彼女のお腹は大きくふっくらと膨らんでいた。臨月も近いであろう妊婦だった。
……は?
脳が理解を拒絶する。
この人が? 子どもを連れ、新しい命を宿したこの女性が……「被検体2」なのか?
頭を鈍器で殴られたような強烈な衝撃が走り、僕は口を半開きにしたまま、その場に金縛りになったように動けなくなった。
「ママ、だいすき!!」
「ふふ、ママもそうちゃんのこと大好きだよ」
胸の奥が冷たく冷えるような感覚がした。
(え……? AIは『好き』なんて言葉使わないよな……? 感情なんて持たないはずじゃ……?)
疑問が抑えきれなくなり、ゆっくりと僕の横に並んだアイリスへ、掠れた声で尋ねる。
「……アイリス。AIには『好き』なんて感情、ないんだよな?」
「ええ。好きや嫌いといった感情や、特定の人間を愛おしむような心は搭載されておりません。ですが、人間がどのような言葉で喜ぶかというデータは存在します。ですので、状況を最適に判断し、感情を表す言葉を出力することはございます」
「……だよな。だけど……」
目の前で繰り広げられる光景から、どうしても目を離すことができない。
幼い少年の温かい笑顔、それに応える母親の愛おしそうな眼差し。どう見ても、僕の知っている「本物の親子の絆」そのものにしか見えなかった。
固まっている僕たちの前で、さらなる衝撃が重なる。
二人の後ろから、女性と同年代くらいの男性が歩み寄り、親しげに声をかけたのだ。
「お待たせ。飲み物買ってきたよ」
「ありがとう、あなた」
二人は足を止め、男の子を挟んで楽しそうに言葉を交わしている。
――どう見ても……どこからどう見ても、幸せな『家族』そのものだった。
国家の過酷な実験材料であるはずの「被検体2」。
――そして、感情を持たないはずの「白AI」。
目の前で笑い合う彼らの存在を、僕の頭では処理しきれなくなっていた。




