箱庭
部屋に戻ってからそのまま一言も喋らなかった。
アイリスが運んできた食事には一切手をつけず、ただ壁の一点を見つめていた。心配そうに声をかけてくるアイリスに、僕は八つ当たりのように冷たい言葉を投げつけ、背を向け続けた。
「……あんなの、ただの母親の愛だったじゃないか。どうして助けてくれなかったんだよ」
「……みなと様。法とシステムを遵守することが、私の最も重要な使命です」
どこまでも淡々とした、平熱の返答。その機械的な声を聞くたびに、胸の奥で黒い感情が渦巻いた。僕を人間としてではなく、「国家予算が投じられた高価な検体」としてしか見ていないこのAIが、心底恐ろしく、そして憎かった。
深夜。部屋の灯りが落ち、静寂が広がったのを見計らって、僕はベッドを抜け出した。
(ここにいたら、頭がおかしくなる……逃げなきゃ……!)
息を殺し、玄関へと向かう。見つかれば即座に連れ戻される――そう思いながら扉に手を伸ばすと、ロックはあっけないほどあっさりと解除され、シューッと静かにドアが開いた。
廊下へ出ても、セキュリティが鳴る気配はない。僕が近づくだけで、自動ドアが次々と滑らかに開いていく。
「……っ」
背筋に冷たい汗が伝った。
逃げられているんじゃない。『認識されている』のだ。僕のバイタルも、位置情報も、今こうして必死に逃走していることすらも、システムはすべて把握した上で、あえてドアを開けて僕を泳がせている。巨大な手のひらの上で転がされているような圧倒的な恐怖が、足元から這い上がってくる。
それでも僕は立ち止まれなかった。狂ったように建物を飛び出し、夜の街へと駆け出す。視界の端に、遠く暗い影をつくる木々の群れが見えた。
(あそこなら……! 木々に遮られて、空からのドローンカメラからも見えにくいはずだ……!!)
僕はなりふり構わず、その鬱蒼とした森の中へと飛び込んだ。
湿った土の匂い、肌を刺す草木の感触。ハァハァと激しい息を吐きながら、木の幹に背中を預けて暗闇を見上げる。夜の森なんて怖いだけのはずなのに、不思議と恐怖は湧いてこなかった。
だが、どれだけ息を潜めても、胸を突くような「違和感」が消えなかった。
風が吹いても、葉のそよぐ音がどこか規則正しすぎる。足元の土を握りしめると、あまりにも均一で、不自然な温もりが手に残った。
空を見上げると、木々の隙間から見える星空の端が、ほんの少しだけ格子状に歪んでいるように見えた。
(……ウソだろ……)
ドローンから隠れるために逃げ込んだこの広大な森すらも、天候や環境を再現するために作られた『巨大な人工の箱庭』に過ぎなかったのだ。
どこまで逃げても、たとえ世界の果てまで行っても、僕は最初から巨大な鳥籠の中に閉じ込められていた。
虚しさと絶望で膝から崩れ落ちそうになったその時、暗闇の奥から、静かな足音が近づいてきた。
「……みなと様」
暗闇の奥から、静かな足音とともに届いた声。顔を上げなくてもわかる。アイリスの声だ。
僕が逃げ込んだ大木の根本へ、彼女はゆっくり近づくと、僕のすぐ隣にすっと腰を下ろした。
そして、昼間の冷徹な態度が嘘だったかのように、まるで幼子をあやす母親のような優しい笑みを浮かべ、穏やかに語りかけてくる。
「夜のお散歩は危険です。先ほどのように、体内にチップを埋め込んでいない危険な人間が、再び近づいてこないとも言い切れませんから」
ふと見れば、彼女の細い腕に巻かれたディスプレイの上で、僕の生体反応を示す光と、アイリスの位置情報を示す光が、整然と並んで明滅していた。
どれほど足掻こうと、この世界の、そして彼女の監視網から逃れることなど不可能なのだ。それはあまりにも明白で、逃げ出す前から痛いほど分かっていたはずだった。
「帰りましょう。私たちの家に」
アイリスはそっと手を差し伸べてくる。
その手を取る以外に、僕に残された道はなかった。
帰り道、僕はアイリスの数歩後ろを、重い足取りでただついていく。
日中と夜の気温差が激しいのだろう。太陽が沈んでしまえば、あの大仰な白いコートを羽織っていなくても十分に過ごしやすい気候だった。衝動的に部屋を飛び出したとき、コートを着忘れていたことすら気に留めていなかったのは、この肌なじみのいい夜風のせいだったのかもしれない。
静まり返った人工の森を通り抜ける中、前を歩くアイリスが何事もなかったかのように口を開いた。
「明日、被検体2の方とお会いいただくことになりました」
「あ……あぁ、そうなんだ。ありがとう……」
「お時間は、昼過ぎからとなっております」
「……わかった」
僕が衝動的に外へ逃げ出したことなど、最初から存在しなかったかのように処理されている。
八つ当たりも、逃亡も、すべては狂った日常の取るに足らないエラーとして冷たくスルーされているのだ。
恐ろしいほどの無関心。だが――今の僕には、その機械的な冷たさのほうが、かえって居心地よく思えてしまっていた。




