黒AI
この猛暑の中、外を歩く人間なんて僕たちくらいだと思っていたが、ふと見渡せば同じような白いコートを纏った人々が数人、水辺を散歩していた。
中には、犬にまで小さな白いコートを着せて散歩させている人の姿もある。
どんな時代になろうと、こうして外の空気を求めて歩き出す人間がいるという事実に、どこか妙な安堵感を覚えた。
不意に、アイリスが手首の端末に視線を落とした。
「昼食の時間を過ぎております。何か配達させましょうか?」
その言葉で、急速にお腹が空いていることに気づく。
「そうだな……お腹、すいてきたな……」
「では、ドローンを手配いたしますね。何がよろしいですか?」
「うーん……任せるよ」
僕は返事を投げて、再びぼーっと湖を眺めた。
しばらくすると、少し離れた場所に降り立ったドローンから品物を受け取り、アイリスがこちらへ歩いてくるのが見えた。僕は立ち上がり、彼女の方へ足を向ける。
その時、前から一人の年配の女性が歩いてきた。
白いコートを羽織ったその女性は、僕とすれ違いざま、不意に僕の顔をじっと見上げた。
「……純也……っ!!!」
叫んだかと思うと、女性は狂おしい勢いで僕に抱きついてきた。その激しい衝撃に耐えきれず、僕は後ろに倒れ込み、激しく砂浜へ尻餅をついた。
「みなと様っ!!!?」
アイリスが叫び、受け取ったばかりの昼食を砂の上に投げ捨てて駆け寄ってくる。そして、僕にしがみついて涙を流す女性に向け、あのおもちゃのような光線銃を躊躇なく突き突きつけた。
「アイリス、やめろっ……!!!」
僕の咄嗟の叫びに、アイリスの動きがピタリと止まる。
『被検体の命令が優先』という絶対ルールが存在していてくれたことを、僕はこの時ほど心から感謝したことはなかった。
「ですが……!」
アイリスは銃口を向けたまま、氷のように冷たい眼光で警戒を解かない。
その時、僕の胸の奥からは、抑えきれない言葉が溢れ出してきた。
「この人は……母親だ」
僕の、ではない。
おそらく、僕が今宿っているこの「純也」という青年の肉体を、生み、育てた本当の母親だ。
なぜだかわかる。理由なんて説明できないのに、胸が痛いほど締め付けられ、涙が込み上げてくる。僕に泣き崩れ、身体を震わせながら必死に抱きしめてくるその腕に、僕はそっと手を回し、背中を撫でた。
「お母さん……なんですね……?」
女性は弾けたように顔を跳ね上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、僕を見つめる。
「私が……わかるの……!?」
「はっきりとは……わからないんです。でも、なんとなく……」
「そう……そうなのね……っ!!」
女性はボロボロと大粒の涙をこぼしながら、名残惜しそうに僕の身体からそっと手を離した。
そしてそのまま砂浜に膝をつき、アイリスの方を向き深く頭を擦り付けた。
「どうか……どうか……っ!! 息子を返してください……!! あの人が……主人がお金に目が眩んで契約してしまって……!! 息子は脳死状態でした……でも!! それでも、そばで生きていてほしかった……!!」
あまりの痛切な悲鳴に、僕はどうしていいか分からずアイリスへ視線を向けた。
アイリスは、ゆっくりと銃を持つ腕を下ろした。
「一度交わした契約を取り消すことは不可能です。あなた方はすでに、多額の金銭を受け取られております」
冷淡に言い放つと、アイリスは目を細めた。
「……それにあなた、黒AIを使用しましたね?」
母親の肩が、ビクッと大きく跳ね上がった。
「黒AI――? 一体なんなんだ、それは」
初めて聞く言葉に驚き、言葉がこぼれ落ちた。
「この世界には、公に認められた白AI――つまり、私たち。犯罪行為を行うようプログラムされた『黒AI』。そして、それらを取り締まり、AIのバグを早期発見するための『赤AI』が存在しております」
アイリスは淡々と説明を続ける。
「白AIは絶対に法を犯しません。ですが、黒AIは法を犯すこと自体を禁止されていないため、いかなる違法行為も実行します。あなたはこの黒AIを用いて私たちの位置情報をハッキングしたのでしょう。……多額の資金を投じて」
(……お前たちは、犯罪予備軍の人間だって察知できるんだろ? なぜここまで迫られるまで分からなかったんだ……?)
僕の疑問を察したかのように、アイリスは女性を冷たく見下ろした。
「この人間は、体内に識別用チップを埋め込んでおりません。それどころか、通信機器すら一切所持していない。……敢えてでしょうね。私たちに思考や行動を察知されないための隠蔽工作です。
……黒AIの利用が極刑にあたると、ご承知の上ですね?」
感情の一片すら交じらない、どこまでも冷酷なアイリスの声が、砂浜に低く響き渡った。




