新たな試み
革シートの匂いが漂う車内に乗り込むと、助手席のアイリスが静かに口を開いた。
「これからどうされますか? 海に行かれますか?」
「え……あ……海……」
思考がすっかり停止していた。自分が少し前まで「海に行きたい」なんて言っていたことすら、完全に忘れていたのだ。丈一郎や里奈と出会い、あの衝撃的な真実を突きつけられた今、どこかへ観光しようという気力は綺麗に吹き飛んでいた。
「今日は……もう帰ろうかな」
「かしこまりました。何かご要望があればいつでもおっしゃってくださいね。今日はお疲れでしょうから、お部屋でゆっくりお休みください」
そう言って優しく微笑むアイリスの横顔を見ながら、僕は思う。本当に、喋り方や表情ひとつで、人間の印象なんて180度変わってしまうのだな、と。
流れる窓外の未来都市の風景に視線を向け、僕はぼんやりと遠くを見つめた。
――丈一郎さんは、もうすぐデータ収集が終わる予定だと言っていた。
ということは、この歪で快適な「被検体としての生活」にも、必ず終わりの時が来るのだ。その後に待ち受けているものは何なのか。僕たちの意思で選べるものなのか、それとも目に見えない巨大なシステムからの指示によって処分されるのか……。
(……他の被検体たちは、この世界の終わりについて、どう思っているんだろう……?)
思いが胸の奥から急速にこみ上げ、気づけば僕は叫ぶように声を張り上げていた。
「アイリス!!!」
不意の叫び声はアイリスにとっても想定外だったらしく、彼女は小さくビクッと肩を震わせてこちらを振り返った。
僕はアイリスが言葉を返すのも待たず、一気に言葉を叩きつける。
「他の被検体にも、会ってみたい……! 1と2の人がいるんだよね!?」
驚きに丸くなっていたアイリスの瞳から一瞬で動揺が消え、彼女はいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「かしこまりました。あちらの専属AIと連絡を取ってみますね」
アイリスにチラリと目をやると、彼女はすんとした横顔のまま、真っ直ぐ前を見つめていた。その瞳の奥で何を考えているのか、僕にはさっぱり分からない。
……いや、そもそも感情を持たないAIなのだから、何も考えてなんていないのかもしれないが。
すっと伸びた長いまつ毛が、ゆっくりと瞬き刻むのを見つめていて、ハッと我に返った。
(やばっ……! また『〇〇秒間見つめていました』とか言われて揶揄われる……!!)
焦って視線を逸らそうとしたその時、アイリス側の車窓の向こうに、信じられない光景が飛び込んできた。
「え!? ア、アイリス!? あれって……海……!?」
広大な水面が太陽の光を反射してキラキラと輝いている。だが、僕の記憶が正しければ、あんな場所に海なんて存在するはずがなかった。
アイリスは僕の視線の先へと静かに顔を向けた。
「いいえ、あれは湖です。まだ人類が天候を制御できなかった時代に、観測史上最大の豪雨が数日間にわたって降り続き、形成された巨大な冠水湖です。この災害が引き金となり、天候操作技術の開発が最優先課題として押し進められました。
その成果こそが、現在の完璧な天候管理システムなのです」
言葉を失う。これほどの大きさの湖を生み出してしまうなんて、当時はどれほど恐ろしい大災害だったのだろう。僕の知らない「人類の敗北の歴史」が、そこには静かに横たわっていた。
「……あそこ、行ってみてもいい?」
「ええ、問題ございません」
アイリスは小さく頷くと、車内の操作パネルへと指先を滑らせ、ルートを変更し始めた。
目的地がスムーズに書き換えられていく様子を眺めながら、ふと胸の奥に冷たいものが差し込む。
(僕は本当に……アイリスがいなければ、何もできない人間なんだな……)
行き先を決めることも、歴史を知ることも、この車を動かすことすら。アイリスがいなければ生きていけない自分の無力さに、ほんの少しだけ虚しさが込み上げてきた。
海岸沿い――正確には湖沿いだが、見渡す限り海岸にしか思えない水辺に車が滑り込む。
僕はもうすっかり着慣れてしまった白いコートを羽織り、外へと一歩を踏み出した。
ドアを開けた瞬間に肌を刺すもわっとした熱気も、コートのおかげですぐに気にならなくなる。内部に冷却装置でも組み込まれているのだろう、じんわりと身体全体が心地よいひんやり感に包まれていった。後ろからアイリスが車を降り、足音を忍ばせてついてくる。
コンクリートの階段を下りると、一面の砂浜が広がっていた。一歩踏み出すたびにザクッと足が深く埋まり、靴底を通して地の熱を感じる。
それでも、引き寄せられるように先へ足を進めた。
眼前に広がる、どこまでも雄大な水面。遥か遠くにうっすらと緑の影が見えるが、島ではなく対岸の風景なのだろう。
昔、日本で有名だった琵琶湖という湖には行ったことがなかったが、こんな感じだったのだろうか。
空を見上げても、一羽の鳥すら飛んでいない。過酷な気温の上昇により、生態系そのものに異常が起きているのではないかという不安がふと胸をよぎる。
それでも、ただ果てしなく広がる湖の隅から隅までを見渡していると、荒んでいた自分の心まで水のように澄み渡っていく気がした。
アイリスも僕と並んで湖を見つめている。だが、その頭の中で処理されている思考は、僕のものとはまったく違うはずだ。彼女のその瞳には、この美しい光景が本当の意味で「風景」として映っているのだろうか。




